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現代の"ユース・カルチャー"はどこにあるのか?

現代の

ロンドンのクラブが次から次へと閉鎖に追い込まれた2016年、「クラブ」という概念が変わりはじめた。ユース・カルチャーはどこに行ったのか? 2016年におけるカウンター・カルチャーのあり方を考える。

汗、暗がり、求め合う唇、ファッション、重低音が体を内側から揺らす感覚、ひとの海----クラブほど、ユース・カルチャーを感じられるアイコニックな場所は他にない。自分の身体から立ちのぼる慣れないコロンの香り、ジェルをたっぷりつけた髪、手に握った偽造ID、入り口を切り抜けることができたドキドキなど、初めてのときを思い出すと胸がいっぱいになる----そんなノスタルジアを伴うのも、それがクラブという特異な空間に関連していたからだろう。文字通り、新たな世界への扉がクラブにはあるのだ。そして午前3時、同じ扉を開けて外へと出たとき、頰をなでる夜風に新しい自分を発見する----それが、「クラブという存在との出会い」として誰もが持っている経験だ。

しかし、ユース・カルチャーの空間としてのクラブは、このまま消滅していってしまうように感じられる。個人主義が顕著な今という時代、クラブもまた個人主義的になってきているのではないだろうか。クラブとは、存在と「属する」ことを個人が模索できる空間だ。しかし、ミレニアル世代/ジェネレーションZは、旧世代がクラブに対して持つ「ティーンのサブカルチャー・シーン」という敬虔な概念に、微妙な違和感を感じている。Instagramで自分自身をキュレーションして世界に発信できる世代にとって、クラブが果たす存在意義はまた違うものなのだ。個人主義が当然の今という時代には、パンクもいなければルードボーイもいない。「ティーン」という概念すら、旧世代のそれとは異質なものになっている。ユース・カルチャー自体が変化したのだから、クラブも変わらなければならないのだ。

逆説的な物言いかもしれないが、「個人の時代」である今を象徴するイメージは、「画一化された美意識」だ。誰もが同じレアなストリートウェアをまとい、バケーションでは誰もが同じ場所で同じ写真を撮り、誰もが同じクールな友達と仲良しになることを願い、同じパーティに潜入しようと躍起になる。朝には誰もがアボカドをトーストにのせて食べ、ケール・サラダをランチに頼み、ディナーにはオープンしたばかりのエスニック料理レストランを予約する。誰もがフリーランスでクリエイティブに生き、いつでもオンラインで独自のキャリアを築いて、自由で文化的な存在として生きていく。映画『アメリカン・サイコ』的な社会背景にサイト「High Snobiety」が生まれたような、そんな世界が現代なのだ。

"ラグジュアリー"が意味するところも変化した。「カンヌ」「チェルシー」「カシミヤ」など、かつて聞けばラグジュアリーを感じさせた言葉も、今ではただの「カンヌ」「チェルシー」「カシミヤ」そのものの意味しかなさない。大切だと考えるのはオーセンティシティであり、またオーセンティシティがどう表現されるかであり、ひと一人ひとりの人生こそが総合芸術だと考えるのが現代なのだ。オンラインに随時リアリティを表現するという総合芸術だ。まだ"トレンド"が存在していた時代、そしてトレンドが変化するに従って属するグループを人々が乗り換えていた時代は、もう過去のもの----今という時代は、ユニークな「個人」を皆がそれぞれに作り上げる、そんな時代なのだ。現代のラグジュアリーとは、ブランドとしての自分が、自分を構成するモチーフを寄せ集め、そこに独自の世界観を築き上げた先に「表現」するものを指す。誰とも対等に世界に参加すること、オーセンティシティ、リアリティ、そして体験----これが現代新世代のあり方だ。

となると、かつて重要な意味を持っていたサブカルチャー的要素はその効力を弱めていく。ジェネレーションZは、サブカルチャーにオーセンティシティを感じないのだ。ゴスもレイヴもヘヴィメタルもパンクも、ジェネレーションZには生きるうえで必要のないもの----彼らが必要としているのは、領域を超えてミックス&マッチができる柔軟なカテゴリーだ。たとえばスケーターがファッション好きだったり、ゴスがフェミニズム的考えを体現したり、Black Lives Matterムーブメントの活動家がパンクに共感したり、緊縮政策に反対するムーブメントから生まれたアーティストがいたり、グライムの世界観には不似合いなビーガンが案外すんなりと新たな世界観を生んだり、アンダーグラウンドのテクノシーンからヘルス・ゴスが生まれたり----そんな世界観でなければ、彼らに訴えかけることはできない。

それが新たなユース・カルチャーであるならば、私たちが持つ「ユース・カルチャーの起こる場所」という概念自体を考え直さなければならない----そんなときがきているのではないだろうか。素晴らしいクラブというものは、時代の精神を体現し、その街を体現し、ダンスフロアを彩る人々を体現する存在だ。ベルクハインは、今世代にとってのそれかもしれない。ベルクハインがもっとも魅力的なクラブとして君臨できているのは「内部が完全な謎に包まれている世界で唯一のクラブ」というイメージも大きく手伝っているかもしれない----しかし、ベルクハインはベルリンという街と、そこに集う人々を完全に体現している。どのクラブがロンドンをあそこまで完璧に体現できているというのだろう? Fabricがそうだったのだろうか?

Fabricの閉鎖は、多くの人々に衝撃を与えた。あそこまで大きく歴史もあり、あそこまで皆に愛されたクラブが姿を消すなど、誰も想像しなかった。ドラッグの存在が閉鎖最大の理由とも言われるが、Fabricでドラッグを試したことがあるひとは、みな口をそろえて「Fabricでドラッグをやると地獄を見る」と言うだろう。ドラッグ乱用の蔓延は、Fabricを閉鎖するうえでただの口実だったにちがいない。ひとはどこでもドラッグを使い、そうやって現実を忘れようとするもので、だからFabricを閉鎖したからといってドラッグを取り巻く状況が改善するなど、誰も信じていない。Fabricの閉鎖は、カルチャーが過渡期にさしかかっていることを如実に物語っている。クラブとしてのFabricがこの世から消えてなくなってしまったという事実よりも、私は、Fabricという存在が象徴していた時代と、街と、私たちロンドナーが、Fabric閉鎖とともにひとつの終わりを迎えたのだという実感に喪失感をおぼえている。

Fabricが閉鎖されると、人々は「Fabricに代わる空間はない」と口々に議論してきた。しかしそこで、ひとつの疑問が浮かび上がる。それは「同じような空間を作り上げたとしても、そこに受け継がれるべきものなどあるのか----そんなものが、もともとあったのだろうか?」という疑問だ。ここ数年で、Fabricがユース・カルチャーに与えた影響などあっただろうか? "スーパー・クラブ"という存在と概念がユースにとって大きな意味を持っていた時代は、もうとっくに終わっていた。現代のユースに意味をなす空間は、小さな地下スペースで、重なるようにひとがひしめきあい、汗が混じり、なんでもありで自由が香る----例えばダルストンのVisionsやVogue Fabrics、ノッティングヒルのThe Globe、ペッカムのCanavans、エレファント&キャッスルのCorsica Studiosのような空間だ。いや、EndlessやEternal、Loverboy、World Unknown、PDAなど、うわべだけを美しく飾るようになったロンドンで、その都度テーマに合った場所を探して開催しているイベントだけが、今のユースの精神を宿しているのかもしれない。そうしたイベントは、"ナイト"などと言って片付けることができない、シーンを超えたシーンだ。

現在のロンドンで、Fabricのようなスーパー・クラブを存続させるのは無理だ。たかだか数年でPlastic PeopleやMadame Jojos、Cable、Bagley's、The Astoria、Turnmills、The End、Massといったクラブの閉鎖をみすみす許したロンドンには、小さなクラブすら守れないだろう。ライセンス関連の法律や都市開発、中流層化、トレンドの変化などに、これらクラブは殺されたのだ。Fabricが象徴し、牽引していた現代ロンドンのナイトライフは、法律の名の下に危機にさらされている。それは、制御不能になったこの街に秩序を取り戻そうと国の上層部が躍起になっている焦りの現れだ。ナイトライフの内側で何が起こっていようとそれを止められもしない自分たちが、「きちんと対処している」となにかしらの成果を国民に示すための行動なのだ。「国民の健康と安全」をモットーに掲げてファシストとなった国が、ラグジュアリー不動産物件でロンドンを敷き詰め、金儲けをしようとしているだけなのだ。

現在のロンドン腐敗の言い訳として、ドラッグ使用者やクラバーたちを「社会に何も貢献をしない」と罵り、クラブ・カルチャーの根底にある団結までをも否定するその卑劣なやり口----(中でもクラバーは槍玉に挙げられやすい。Fabricを閉鎖に追い込んだとしてもドラッグでの死が減ることはないし、一般的にドラッグに関連した死の原因は、大半がアルコールとタバコによるものだからだ。MDMAに関連した死は、この国が守り続けている時代遅れの法律に端を発している----MDMAをよく理解せずに摂取してオーバードースするケースが後を絶たないのは、現行の法律がうまく機能していないからだ)。そこに、現代ロンドンが象徴されているように思えてならない。Fabricというダンスフロアがなくなるという表層的な意味ではなく、喜びと現実逃避、そして人々の楽しみを、投資や開発、ラグジュアリー不動産の名の下に奪ってしまう、そのあまりの仕打ちが、この街のひとつの時代の終わりを告げているのだ。

なぜスーパー・クラブは消滅していくのだろうか。そのひとつの理由は、"インスタ映え"しない場所だからだ。ひとが多すぎて、違法なことが起こりすぎていて、緊迫しすぎていて、なによりも暗くて写真が撮れない----現世代にとって"ダンス"が意味するのは「ソーシャル・メディアを通して世界中が自分を見ている、それを前提として、カメラを前に踊る」ということなのだ。すなわち、誰も見ていないなら踊る意味がない、ということだ。

典型的な"クラブ"というものは、ドアの外で猛威を振るう腐敗した現実を束の間でも忘れさせてくれる、自由な空間だ。渦巻く純粋な喜びと汗だくの体のうちに、つまらない仕事や社会の偏見などの「日常」から私たちを守ってくれる、それがクラブというものだ。だからこそクラブという空間には底知れぬ可能性と創造性が生まれるのだ。しかし現在のユース・カルチャーは、地下の暗がりにそれを求めてなどいない。そこに依然としてティーンの反逆精神を見出そうとしても、それは時間の無駄というものだ。現代のユース・カルチャーは、ひとつの場所に生まれるものではないからだ。新しいものはもちろん生まれる。しかしそれはクラブという古い概念の遺産からは生まれない。私たち新世代はLPではなく違法ダウンロードで音楽を聴いて育ち、パーティでは違った音楽の趣味を持つ様々な人間がSpotifyで音楽を語り、それが古いクラブ概念でいう「体をぶつけ合う」という感覚に近い行動なのだ。

行く場所によって音楽や人種が違っていた、かつてのクラブ----その特徴だった「特定性」がなくなれば、当然ながら世の中は平坦になっていく。すべてのものが容姿もサウンドも画一化されていく。世界のどこにいても世界のあらゆるものが入手可能となった世の中は、当然ながら退屈なものになっていく。すべてが入手可能な世の中にあって、カウンター・カルチャーの新たなあり方は、「入手不可能な状態」と「完全な神秘性」、そして「謎」がキーとなるのかもしれない。

現在のクラブやユース・カルチャーの延長線上には、きっと現代よりも人々がすべてに積極的に関与していく時代が待ち受けているだろう。より限定的で、表層的ではない世界が生まれるにちがいない。「現状に逆らう」ということが大切なのだ。「違い」こそが大切になる。

なぜ今という時代には、かつてのようにストリートからサブカルチャーが生まれてこないのだろうか?----よく、旧世代がカルチャーを語る際に口にする疑問だが、そこに見え隠れするのは、「ジェネレーションZには反逆精神がない」「逆らうということに興味を持っていない」という先入観だ。しかし、60年代以降、ジェネレーションZほど政治に積極的な関係を築き、政治に関する知識を貪欲に探り、右翼思想に走らず、リベラルに世界と対峙した世代はない。だから、古いサブカルチャーの定義を取り払うべきだと私は考える。古いカウンター・カルチャー的なプロテストも、いま通用しないのは当たり前なのだ。ミレニアルが「当たり前」として育ったソーシャル・メディアというコミュニケーション手段は、いま世界で新たな形のプロテストを作り出している。彼らは、ソーシャル・メディアを通して教育を学び、施し、政治に関与し、意見を発信して、世界の人々の人権のために戦うべくムーブメントを起こしている。セックス・ピストルズが「Pretty Vacant(からっぽ)」と歌い、「Blank Generation(空白の世代)」とリチャード・ヘルが名付けたパンクのニヒルな姿勢は、もう私たち新世代に響かない。私たちは「プリティ・エンゲージ(積極的に社会に関わっている)」な「ポジティブ・ジェネレーション」なのだ。中身のないカッコつけなどやめて、協調して取り組もう----それが現代のあり方だ。

そこでまた、クラブ閉鎖に話を戻そう。大小を問わず、クラブが閉鎖されそうになればオンラインでの反対運動が起こり、実際に人々が集まっての資金集めやイベント、署名集め、プロテストが起こる。しかし、それが功を奏すケースは極めて少ない。Fabricは実際に閉鎖されてしまった。Plastic PeopleもMadame Jojosも、人々の反対の声虚しく閉鎖に追い込まれた。しかし、旧世代のサブカルチャー空間が消えていく一方で、新たな時代のための新たなスペースもまた生まれてきている。古いカウンター・カルチャーが消えゆく一方で、新たなカウンター・カルチャーが生まれている。旧世代のものと見た目が違い、服装が違い、反対の声の上げ方が違うからといって、そこにユース・カルチャーが存在しないわけではないのだ。私たち新世代は、旧世代の人たちが想像もしなかったような場所「ここ」で、今も力強く汗をかきながら踊っているのだ。

Credits
Text Felix Petty
Image via Flickr
Translation Shinsuke Kuriyama at WORDSBERG Inc.