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選挙に行かないのは、親が選んだ服を着ているようなもの

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自分が着ている服が急に恥ずかしくなる日、それは突然やってくる。自我のめばえ、親の趣味からの決別、自分のスタイルの模索。けれどもしかし、私たちはちゃんと親の服から卒業できているのだろうか?

By Sogo Hiraiwa

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中学に入ってすぐの頃だったと思う。あるとき自分の着ている服が突然ダサくなった。うわーなんだこれ! 青天の霹靂! その服への違和感は、どうみても思春期の仕業だった。いま振り返ると。それでも当時の自分がそんなに落ち着き払っていられるはずもなく、ただただひたすらありえなかった。母がしまむら未満の名もなきファッションセンターで仕入れてきたであろうそれを平然と受け入れ、堂々と着ていたことに対する恥ずかしさ。こんな服を着せやがって、という母へのおこ感情。その気づきは、赤面と怒りを伴うものだった。

それからは自分で服を選ぶようになった。ねだったり、貯めたお小遣いで買ったり。トンチンカンな服もいっぱい買った。黒歴史として葬りたい服装は数知れない。それでも失敗も含めて、とにかく満足していた。自分で選んだものを着る、その充実感たるや。

親の趣味が良かったり、自分の好みとぴったりマッチしていたりすれば、自意識がめばえた後であっても、そのまま親の選んだ服を着続けるということはあるかもしれない。けど、ウチの場合はそうじゃなかった。親からすれば、我が子を裸で学校に行かせるわけにもいかず、服を着せてくれていたことには感謝しかない。でも、自意識のめばえという覚醒後、世界は別のルールで回っていた。自分が選ぶことにこそ意味があった。

覚醒を境にしたビフォー/アフター。一度気になったら、もうそれ以前の感覚には戻れない。数年前にも同じような体験をした。選挙のときに、SNSで「投票しないのは現政権に賛同しているのと同じ」という趣旨の投稿を見かけて、ストンと腑に落ちた。目が醒めた。ああ、あのときと同じ、この感じ。

親が子どもの服を選ぶとき、決め手となるのは値段、そして親の趣味だろう。同じ値段なら(ちょっと高いくらいなら)、好きなものを買おう。なにしろそれを着る子どもは、自分の服装に無頓着なのだから。自分が親でもそうすると思う。それでも、エックスデーは必ず訪れる。遅かれ早かれ、子どもは自我をもち、自分で服を選ぶようになる。自分の好みを模索し、トライアンドエラーを繰り返す。親の選んだ服に対する違和感を自覚し、自分のスタイルを獲得していく。

選挙の場合はどうか? 服と違って、毎日自分で選べるものではない。服と違って、目に見えない。他人に見られることもない。着なくてもいい。だから積極的に投票する必要はないのかもしれない。服と違って、選ばなくても、裸で過ごさなくちゃいけなくなるわけでもないし。でも本当に? 「投票しないのは現政権に賛同しているのと同じ」なのだとしたら。

選挙に行かないのは、親が選んだ服を着ているようなものではないだろうか。選挙権があるにもかかわらずそれを放棄するのは、親から勝手に買い与えられた服を着続けるようなものじゃないだろうか。親の選んだ服は自分の趣味と合っているだろうか? その服の着心地は?

幸か不幸か、服と違って、選挙では選択肢が絞られている。お財布事情を気にする必要もない。自分が着る服を選ぶことと比べれば、もっとずっとシンプルだ。シャネル、PALACE、ユニクロ、ギャルソン、アディダス、ヴェトモン、ZARA。これくらいの数の候補から、自分が推したいと思える候補者や政党を選ぶだけでいいのだから。

これを書いている私は25歳まで、選挙に行ったことがなかった。政治とかカンケーネーシとしらばくれていた。今思うとすごく恥ずかしい。ずいぶん長いあいだ、親が選んだ服を着たままだった。

あなたは今どんな服を着ていますか? その服は着ていて心地良いですか?

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