NESTBOWL

「チャレンジと出会いが人生を豊かにする」ステラ マッカートニージャパンCFOの佐藤元彦インタビュー【前編】

NESTBOWL

求人メディア、ビジネスアライアンス(M&A、業務提携、コラボetc)のプラットフォーム

フォローする:

— ADの後に記事が続きます —

2022年に日本法人設立10周年を迎えるステラ マッカートニージャパン。同社の成長物語を取材するために、CFO(最高財務責任者)の佐藤元彦氏にお話を伺った。前編では佐藤氏のユニークでドラマチックなキャリア、後編ではステラ マッカートニージャパンの「過去・現在・未来」をお送りする。佐藤氏の経歴を読み進めると、「人生の実りを得るために転職は大きなステップアップ」だということがよくわかる。特定分野の専門知識を身につけて経歴を高める“キャリアアップ”、技能や能力を向上させる“スキルアップ”、異職種や異業種にチャレンジする“キャリアチェンジ”のすべてを体験して、ファッション業界と初めて関わるのは、佐藤氏が35歳のとき。「何かを決断し、始める」ことに遅いということはない。

佐藤 元彦さん
株式会社ステラ マッカートニージャパン CFO
1961年生まれ、東京都水道橋出身。小学校から高校までを男子校で過ごし、ジャズ音楽、フリスビー、スケートボードなどのアメリカ文化に憧れて、中学3年のときにアメリカ留学を決意。高校を卒業してアメリカに渡り、2012年のステラ マッカートニージャパンの立ち上げに関わるまで、米・日・香港・シンガポール・伊・仏を飛び回り仕事をする。

決意してアメリカへ渡った10代、英語も勉強も音楽も一生懸命だった20代

―佐藤さんは、アパレル業界の中でも異色の経歴の持ち主ですが、お話を伺うと、本当に激動のキャリア形成だと思います。

私は1961年3月に東京・水道橋で生まれました。後楽園の近くです。九段にある暁星学園小学校に入学し、79年に暁星学園高校を卒業しました。中学生でジャズを聴きはじめて、雑誌『POPEYE(ポパイ)』が創刊され、アメリカ文化への憧れが強くなって、中学3年のときにアメリカ留学を決意。当時、数学が好きでしたが、将来の生活のことを考えて工学部を目指しました。

―夢を見るだけではなく、着実な考え方もあったのですね。

高校を卒業してすぐ、日本で英語講習を受け、同年7月にアメリカ・ボストン郊外にあるカレッジのELS(語学学校)に入学。翌年、別のカレッジのビジネス専攻の学部に入りましたが、ビジネスよりも工学部が向いていると考え直して転校を決意しました。

―揺れ動いた10代ですね。20代はいかがでしたか。

20歳になる81年1月にボストン大学に転校して、システム工学を学ぶのと同時に、好きだったジャズを始めます。楽器はアルトサックスで、あくまで趣味でしたが音楽学校にも入りました。ジャズオーケストラにも参加してとても楽しかったです。

―英語も勉強も音楽も一生懸命だったんですね、まさに青春です。

ボストン大学で日本の文化を紹介する「JAPAN CLUB」を設立したご縁で、24歳から一年間、ボストン日本国総領事館で現地職員として勤務し、文書、会計、庶務補佐などのアシスタント業務をしました。25歳でボストン大学を卒業し、学位を授かります。同年、大学院に進み、TQC(トータルクオリティコントロール)の手法を使って、原子力発電の信頼性管理を学び、日本の電力会社との協業も経験しました。それで、フロリダ電力に就職が内定するのですが、フロリダがあまりに暑いのと原発サイトでの勤務に不安を覚えて断念…88年、27歳で大学院を修了しました。

―システム工学から原発の研究まで、興味・関心がとても幅広いですが、アメリカでの就職は断念されたと…。

そうなりますね。大学院修了と同時に日本に戻り、大手銀行の研究所に就職して「現代投資理論」を研究しますが、90年にバブルが崩壊します。入社当初に約束したニューヨークに研究所を設けることが難しくなり、さらに研究内容が現実味を持たなくなったことが分かって退社しました。

繊維・経営に関わり始めた30代中盤、イタリア現地事業で激動を極めた40代

―バブルが崩壊していなかったら、NYの研究所勤務が叶っていたでしょうね。

翌年91年、30歳で日本航空に入社し、羽田空港のグランドスタッフ業務を経て、新空港のマニュアル作成業務を行い、2年後に金沢支社に異動します。金沢では旅行代理店を担当する営業職を務めましたが、35歳で退社します。退社してすぐ、香港、中国、シンガポール、台湾、日本、イタリア、フランス、などで事業を行っているFenix Groupのホールディング会社であるFenix Group Holdings(以下、FGH)に入社。ステラ マッカートニージャパンの小澤社長とは、仕事で縁がありその時に知り合いました。

―96年に香港の会社に入られましたが、翌年97年に香港はイギリスから中国に返還されました。

現地は当時、中国返還と鳥インフルエンザの影響で大不況に陥りました。それから99年にFGHが手がけていたヨーロッパブランドの事業で、イタリアの現地法人に異動して、9年9ヵ月にわたり、イタリアのヘッドクオーター(本社)業務に従事。そこでCFO、CEOも経験しました。

―30代後半から約10年のイタリア生活で、かなり腰を落ち着けて仕事をされたわけですね。

イタリアに行ってすぐに娘が生まれました。住んでいた町は住民が2600人というこぢんまりとしたところで、ブドウ畑の中で生活し、農民との交流は本当に楽しいものでしたが、その反面、仕事は会社の立ち上げや事務所の閉鎖、訴訟対応などめまぐるしく、会計士や弁護士、監査法人と深く関わっていました。イタリアの約10年は忙しかったですね。

―そういう激動の日々から、いつ日本に戻られたのですか。

2008年にヨーロッパブランドの事業のヘッドクオーターを香港に戻すことが決まり、異動の打診がありましたが、娘の教育のために日本に戻ることを決意し、FGHを退社。2012年6月、ステラ マッカートニーの日本法人立ち上げの話をもらい、CFOとして入社し、現在に至ります。

―10代から現在までご説明ありがとうございます。仕事をしながら、バブル崩壊、香港返還、さらにリーマンショック、現在のパンデミックまで、“歴史の事件”に遭遇されながら、ある意味サバイブしてきた人生のようです。

振り返るとそうですね。ただ歩みを止めることはなかったのと、多くの変化を経験したことや、香港とイタリアで12年間経験したヘッドクオーター業務が今の仕事に結びついています。

デザイナーの強いメッセージが世界に広がり、共感を呼ぶブランドの魅力

1971年生まれのステラ・マッカートニーは2001年に自身の名前を冠したファッションブランドをローンチ。同年10月にパリで初のコレクションを発表。ブランドを立ち上げて今年で20周年になるが、ブランド発足当時から、エシカルやサステナビリティのメッセージを商品作りに込めて、常に環境に配慮した取り組みは、年々注目度が高まっている。

―ステラ マッカートニージャパンが2012年に設立して、2022年に10周年を迎えますが、「ステラ マッカートニー」ブランドが日本で愛されてきた理由を教えてください。

デザイナーのステラ・マッカートニーがブランドを立ち上げて以来、ずっと発信してきたメッセージに、時代が追いついてきたという実感はありますね。昔は、「どうして本物のレザーを使っていないの?」というお客様のコメントが多かったですが、最近は、商品がサステナブルであることを理由に購入される方が増えています。ステラ マッカートニーはスタートした2001年から、レザー、ファー、スキン(皮革)、フェザー(羽毛)、動物由来の接着剤(ニカワ)などを一切使用していません。

―2015年の国連サミットで「持続可能な開発目標(SDGs:Sustainable Development Goals)が採択されたり、最近では気候変動会議「COP26」がニュースになるなど、メディアも私たちも環境に対する意識が大きく変わってきています。

そうですね。まさに「今の時代の空気感」だと思います。SDGsの17の具体的な目標や、身近な地球温暖化、食と衣料の廃棄も世界的な大きな問題になっている中、消費者のエコやサステナビリティの意識も高まっていて、新卒や転職などで会社を選ぶとき、環境問題に対応している企業であることが、選択肢の上位に来ているのを感じます。

―御社のホームページにも「私たちは、明日の地球を守るため、人、地球、そしてすべての生き物により良い影響を与えながら、常に責任を持ち、誠実に説明責任を果たすことを約束します」と明記されています。

ファッションは人生や暮らしの中で楽しむものですから、自由に好きなものを装えばいいのですが、ステラはデザイナーとしても一流で、発するメッセージとともにデザインも受け入れられることで、さらにサステナビリティの共感を生み、今の彼女の評価に繋がっていると思います。

―アパレル産業自体は、染色や廃棄、動物への影響、労働問題など、サステナブルとは正反対の問題や矛盾も多く抱えています。

確かに現状はそうですね。アパレルの未来を考える上で、サステナビリティは避けて通れない大きなキーワードです。ただ、作り手の責任者であるデザイナー自らがメッセージを発信することで、「共感が生み出す解決や成長」というのも確かにあるはずです。

最新の関連記事
Realtime

現在の人気記事

    次の記事を探す

    Ranking Top 10

    アクセスランキング