難解な解説が多くとっつきにくいアートの世界。有名な画家の名前は知っているが、なぜ評価されているのかはいまいち分かっていない方も多いことだろう。この連載では「有名画家の何がすごかったのか」をアーティストを取り巻く環境とともに紹介する。
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今回は19世紀末のパリで流行した「ナビ派」の立役者であるピエール・ボナール。「ジャポニスム」と呼ばれた日本美術の影響を大きく受けたこともあり、日本でも人気の画家だ。ナビ派の描く絵は、当時前衛芸術と呼ばれ、画期的な表現だった。
では、ピエール・ボナールは、なぜ大きな評価を得たのか。どんな作品を描いたのか。今回は彼の生涯を追いながら、彼の“すごさ”について紹介していく。
Profile
ピエール・ボナール
ナビ派に分類される、19世紀から20世紀に活動したフランスの画家。(1867年10月3日 – 1947年1月23日)ポスト印象派とモダンアートの中間点に位置する画家のひとりで、版画やポスターにも優れた作品を残している。裸婦を描いたものも多い。また、ボナールは一派の画家(ナビ派)の中でも最も日本美術(ジャポニスム)の影響を強く受け、「ナビ・ジャポナール」(日本かぶれのナビ、日本的なナビ)と呼ばれた。ボナールは室内情景などの身近な題材を好んで描いたことから、エドゥアール・ヴュイヤールと共にアンティミスト(親密派)と呼ばれている。
Index
法律を学びつつ画塾に通っていたなかで「ナビ派」を結成
ボナールは1867年にフランス・パリの西側にあるオー=ド=セーヌ県で、3人兄弟の次男として生まれた。父親は陸軍省の局長という超ブルジョワ家庭のボンボンである。夏の休暇には果樹園がある別荘で過ごし、広いお庭でピクニックする……という絵に描いたようなお金持ちだった。
そんななか、ボナールは高度な教育を受けつつ成績優秀な学生として育っていった。大学は法学部に入学し、1年後には弁護士資格を取得するほど頭がよかった。ただ、ボナールがやりたいことは法律家ではなく、画家だったのだ。昼は大学で授業を受けつつ、夜間はアカデミー・ジュリアンという画塾に通っていた。アカデミー・ジュリアンでは、ポール・セリュジエ、モーリス・ドニ、ポール・ランソンといった友人たちと、芸術について毎日語り合っていたそうだ。
ある日、ポール・セリュジエが「ポール・ゴーギャンに絵を教わった」という話題を持ちかける。ゴーギャンと言えば、以下の作品のように激しい色使いが特徴の画家だ。
ゴーギャンはセリュジエと森で写生をしながら「赤味がかって見える樹は真っ赤で、青味がかっている影は鮮やかな青で描いてみたまえ」と指示したそうだ。その結果、完成した絵が以下である。
この大胆な描画がセリュジエには衝撃だった。またボナールもランソンもドニも「これは凄い!!」と感動したのである。
というのも、彼らは私立美大であるアカデミー・ジュリアンで「見たものを正確に描けるように練習しましょう」と教科書的な写実主義の教えを受けていたわけだ。いわゆる優等生にとって、ゴーギャンの大胆な色づかいは、衝撃的過ぎたのである。
ゴーギャンの絵を見て「この新しい表現をしていこう!これからは写実じゃなくて“芸術”を進めるべきだ」と考えた彼らは「ナビ派」を結成した。ナビとはヘブライ語で「預言者」という意味。カーナビのナビだ。つまり「俺らは預言者だ!これからの芸術を導くものだ!」ということである。彼らの内、カトリック信者が多かったため、旧約聖書から名づけられた。
ボナールを含め、ナビ派の面々は毎週土曜に互いの作品を批評し合ったり、ポスターや挿絵などを共同制作したりと交流を深めていった。上記の作品はボナールの最初期のナビ派絵画である。
いきなりポスター公募展で優勝し、浮世絵をヒントにした作品を制作
ナビ派として活動を進め始めたボナールは、22歳からアルバイトをしながらフランスいちの美術学校であるエコール・デ・ボザールに入学する。ボナールが他の前衛的な画家と大きく違うのはこの点だ。アカデミックな表現から、新しい表現を目指す際、多くの画家はアカデミーを退学して独学に走ることが多い。しかしボナールはさらに上位の学校に入学した。彼の真面目さ、柔軟で賢い性格が出ているエピソードだといえる。
ボナールはこのころローマ賞には落選したが、シャンパンメーカーのポスター公募展で優勝。以下の作品がパリの町中に貼られ、ボナールはポスター画家として広く知られるようになった。
ちなみにこの作品を見て、アートに詳しい方は「ロートレックのポスターに似てる!」と気付くかも知れない。ポスター画家の王様・ロートレックはボナールのこの作品を見て「印刷所を紹介してくれ」と声をかけたのだそうだ。
小さな成功を得たボナールは、1890年にエコール・デ・ボザールで日本美術展を観覧した。当時は開国したばかりの日本文化がヨーロッパに知れ渡っていた時期である。日本美術はジャポニスムと呼ばれ、多くの画家に影響を与えたのだ。
前衛派のボナールも「なんだこの描き方は!」と驚き、早速、作品に取り入れ始めた。翌年の無審査、無報酬の展覧会・アンデパンダン展では以下の作品を出展している。
屏風のような細長い枠組み、奥行きのない独特の文様のような絵……まさに日本美術っぽい作品だ。
このころからボナールの私生活はとても落ち着いていて質素だった。思想としては前衛的でありながら、決して派手ではない素朴な生活を送っていた。
とにかくスローライフで、町をゆっくりと歩きながら様々なものを観察し、気になるものはジーっと見つめる癖があったという。ちなみに気になる人がいたときも注視していたようで、過激ではないがちょっと変わった人だったのだそうだ。
マルトとの生活のはじまり
ボナールは、ゆっくりとスケッチしながら散歩していたときに、2つ下の女性、マリア・ブールサン(通称・マルト)と出会い、ともに生活を始めた。当時・ボナールは26歳であり、2人は約30年後に正式に結婚する。
ボナールはこの後、たくさんの女性画を描いたが、ほとんどマルトがモデルになっている。マルトもちょっと変わった人で、異常なまでに風呂好きだった。「浴室で生活していた」とまでいわれる。そのため、ボナールの女性画は浴室を舞台にしたものが多い。
特にこの《逆光の裸婦》はボナールが40歳ごろに描いた作品だ。見ての通り、ボナールの作品は、主に1900年代以降、激しい色彩が特徴になっている。この作品でも画面の左の寒色と、右の暖色のコントラストが激しい。当時では斬新な、ナビ派としての色使いだ。
ボナールは28歳のとき、デュラン・リュエル画廊ではじめて個展を開催する。当時、ボナールはジャポニスムの影響を残しつつ、自身の作風を確立し始めていた時期だ。日本の版画や浮世絵の影響が見える作品を作っていたため、周りからは「Le Nabi le trés japonard(日本的なナビ派)」とあだ名が付けられていた。
このころ、ボナールはたくさんの仕事をこなしている。例えば、当時流行していた「アール・ヌーヴォー運動」に参加し、ティファニーのステンドグラスをデザインした。このほか、家具、織物、扇子などをデザインすることもあった。人形劇の人形を粘土で作ることもあったそうだ。
こうした絵画以外の仕事をこなすことで、画壇以外の分野でもボナールの名前は広がっていった。もちろん小説の挿絵や、多くのポスターも描き続けていた。はじめての成功であるフランス・シャンパーニュのポスターも長くボナールが担当し続けている。
このころにはあらゆる分野で、ボナールの名は知れ渡るようになっていた。派手に名前を売るわけではなく、着実に実績を重ねていった様が、なんともボナールらしい。ボナールが生きた時代は、印象派からポスト印象派、フォービスム、キュビスムなど、どんどん前衛的な表現が生まれた時代だ。インパクトのある作風で一気に知名度を高める画家も多かったが、ボナールはとても落ち着いた形で認められていった。
最後まで自分のスタイルを貫いたキャリア後半
ボナールは39歳のとき、ベルネーム・ジュス画廊で2度目の個展を開催。そのまま画廊と専属契約を結び、生活が安定するようになる。また彼にはパトロンもおり、絵画の依頼が途絶えることもほとんどなかった。
1910年代には第一次世界大戦が勃発するも、ボナールは画業に集中。この時期に大規模な連作を完成させ、フランスの画壇では知らぬものはいないレベルまで知名度を高めた。51歳になると、6歳上のルノワールと一緒に「フランス若手芸術家協会の名誉会長」に選ばれている。
ルノワールとは親交が深く「自分より上手い画家がいても関係ない。自分の芸術をしろ。」と手紙をもらうこともあったそうだ。そのルノワールの言葉通り、ボナールはこの後も晩年まで自身のスタイルを崩すことはなかった。
先述した通り、ボナールが40代、50代を過ごした時期はヨーロッパで前衛芸術がどんどん生まれていった時期だ。例えば1905年にマティスがフォービスム的絵画を発表した。また1907年にはピカソがキュビスム的な絵画を描いている。そんななか、多くの画家が、マティスやピカソの表現に追随した。しかしボナールは「何にも属したくない」という思いがあった。そのため、こうした運動には参加していない。
例えば下の《田舎の食堂》という絵は「優柔不断で根性のない絵だ」と、ピカソや批評家から批判された。それでもボナールは自分の作風を守ったのである。
彼はそもそも「何にも縛られたくない」という強い思いを持ち続けていた人でもある。だから時間に追われることもなく、超スローペースで創作、生活をしていたわけだ。また転居の回数が多いのもボナールの特徴だが、この背景には「生活の基準となる場所に縛られたくない」という理由があった。
そんなボナールの作品は50代後半になると、他国でも高い評価を得ることになる。イギリスでは児童文学の賞であるカーネギー賞の審査員に任命された。またアメリカでも高い評価を得ることになり、晩年に近くなったころ、シカゴで展覧会が開催された。
74歳で妻・マルトに先立たれるも、ただ自室で絵を描いていた。この時期の作品は売ることもなかったという。体力が衰え、筆を持てなくなっても、甥に指示を出すことで描いていた。最後の作品は《花咲くアーモンドの木》だった。
79歳で永眠し、翌年にはニューヨーク近代美術館(MoMA)で死後回顧展が開催された。この美術展は、本来はボナールの80歳の誕生日を祝うためのものだったというから、当時の彼の人気っぷりがよくわかる。
根底のマイペースさが生み出した「ボナールにしか描けない絵」
ボナールは「20世紀の偉大な画家たちの中で、最も独特な画家」と言われることもある。
ボナール作品の構図・色彩の表現は、いま見ても独特だ。平面的で激しく、絵画的な要素もあれば、グラフィックアートのような印象も受ける。色彩だけでなく、登場する人物・動物などのモチーフはどこか不安げな顔を浮かべている……。いろんな要素が含まれているのだ。見るべき箇所が多い。でもそれぞれがバランスよく配置されているため、全体を見たときに美しく見える。正直いうと、見る側としてはとっても難しい絵だ。
このユニークな絵画は、彼のマイペースさが生み出したものだといえる。ゆったりとした私生活だったため、制作も遅かった。そのため享年に対して作品数は少ないが、どれも個性的だ。絵画の潮流が変化し続けるなか、焦りもあったという。しかし彼は自身の表現を貫き通した。「何にも流されず、何にも属さず、ただ描きたいように描いていたら、画壇から評価されていた……」といった感じの飄々としたスタイルがすごくかっこいい画家だ。
今でも、世界中で高い人気を誇る画家であり、2024年9月20日からは日本で映画『画家ボナール ~ピエールとマルト』が公開中だ。ボナールの人生を体感して、作品を見直してみるのも楽しいだろう。
2024年9月20(金)より、シネスイッチ銀座・UPLINK吉祥寺ほかにて全国順次公開
監督:マルタン・プロヴォ出演:セシル・ドゥ・フランス、ヴァンサン・マケーニュ、ステイシー・マーティン、アヌーク・グランベール、アンドレ・マルコン
🄫2023 – Les Films du Kiosque – France 3 Cinéma – Umedia – Volapuk
『画家ボナール ピエールとマルト』公式サイト
〈STORY〉
1893年、ピエールとマルトは画家とモデルとしてパリで出会う。ブルジョア出身のピエールは謎めいて型破りなマルトに強く惹かれ、二人はともに暮らし始める。田舎に家を見つけ社交的な世界から遠ざかり、クロード・モネなど限られた友人との交流を除いては半ば隠遁生活の中で絵画制作に励むピエール。マルトをモデルにした赤裸々な絵画は評判となりピエールは展覧会で大成功をおさめる。1914年第一次世界大戦が始まった夏、仕事で毎週パリに赴くピエールに不安がつのるマルト、終戦間近にはパリのアトリエでピエールのモデルになっている美術学校生ルネと出くわす。なぜかマルトはルネを気に入り3人の関係は複雑なものに…。
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