Image by: FASHIONSNAP(Ippei Saito)
ファッションショーは、観客を強制的に着席させ、大音量の音楽を流し、モデル、業界人、セレブ、豪華なロケーションといった原始的に人間が感激するものを浴びせ、感激の溢流を起こしたところに、服の価値を滑り込ませるという性質も持つ。なので、「アンリアレイジ(ANREALAGE)」がこれまでにやってきた、テクノロジーを駆使し、紫外線で色が変わったり、フラッシュで柄が浮かび上がったりする手品のようなショーに拍手喝采が起こるのは仕方がないことである。決して嘲ているわけではないと強く、断っておきたい。映画や絵画も部分的にその性質を持っている。そういった前提があるからこそ、アンリアレイジやマルタン・マルジェラの一部の作品も退屈にはなり得えてしまう。
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アンリアレイジは、小さな布切れを縫い合わせたパッチワークや、大小異なるボタンを大量に縫い付けていた圧倒的な手仕事を体現した初期作品から、いつからかテクノロジーをどのようにファッションにしていくかという命題に挑戦するようになった。強烈なテーマがあり、その観念に引っ張られるように、ものが作られていく。翻ればそれは、素材や構造へのチャレンジはともかくとして奇を衒う演出ばかりが取り沙汰される。効率化を図るデジタルやテクノロジーは、「縫う」「着る」といった身体の温もりや無駄と切っても切り離せないファッションとは対極に位置し、なんとなく食い合わせが悪く、アンリアレイジが発表するコレクションに、ほのかに拒否反応を示す人も少なくないと認識している。存在していたかもしれない、デザイナーの偏愛やこだわり、頓着を高度なテクノロジーが覆い隠してしまう。そのため、常にありもしないフロンティアを探しているように、車輪の再発明のように見えてしまう。そういう危うさが、これまでのアンリアレイジにはあったと感じている。
ファッションの世界には、もう新しいことなど残されていないのか。新しいことを探すのは悪手ですらあるかもしれない。そんな中で、今まで誰かがやり遂げてきた功績がもう一度繰り返される時、そこには掘り下げが必要不可欠となる。「私がやる理由」「今それをやる理由」そういった細やかな手続きが必要で、それこそが現代におけるオリジナリティになり得る。一見繰り返しに見えるものも、比率や組み合わせを変えるだけで、新しく見えたり、見えなかったりするものなのだ。
個人的には森永邦彦が、このタイミングで「アンリアレイジ オム(anrealage homme)」のラインを東京で発表すること自体に、強烈な意味合いを感じるとともに「なぜ、いま」という疑問も浮かんだ。発表されたデビューコレクションでは、アンリアレイジがテクノロジーと手を取り合う前の、デザインが数多く登場した。ここ数年のアンリアレイジしか知らない人からしてみれば、それはとても新鮮で、昔から見ている人にとっては懐かしさを感じるほどの過去の踏襲だった。森永はこれらのデザインを「原風景の化身」と形容する。過去のデザインを、新たなラインで表現することに疑問が浮かばないわけではない。ただ、森永がほのかに残したさまざまなヒントや事象をよくよく考えてみれば、そう簡単に批判できるしろものではないと言える。今回はそれを紐解いていきたい。
インビテーションにはピンク色が採用されていた。会場も、桜色の照明がたかれ、アンリアレイジ オムのイメージカラーがピンク色であることを印象付ける。アンリアレイジが白黒でソリッドなイメージを持つことを考えればこの時点で、アンリアレイジとは明確な差をつけようとしている森永の考えが垣間見える。ピンクという色は、物理学的にはこの世に存在しない色と言われている。色を形成する固有の波長を持っておらず、人間が勝手に認知し視認している色がピンクであり、人間以外の生物はピンクを認識していないのだ。この実態のない色をキーカラーに添えた理由を森永に問いたところ、以下のように返ってきた。
「その実態のない色のようなものは、僕にとっては開けるのも苦しいほどの服を作り始めめた時の原風景と通じるものがあった。昔のことではあるけど、そこに置いてきた魂もある。当時の自分が、このコレクションを見たらという想いもある」(森永邦彦)。
時間や手を使うことで、実態はまだないけど、この世界には存在しない何かを表現したいという熱情があった20年前の森永。森永は「過去を捨てることはなかなか難しい。いまのアンリアレイジのイメージは、ブランドが始まった頃のイメージは全然違うもの」と続けた。筆者には「今、僕が何をやるべきなのかにこだわらずにやれるのが『オム』である」という宣誓にも聞こえ、胸が苦しくなった。少なからず、テクノロジーというゲーム性に乗った自身を冷静に客観視する目線も森永は持ち合わせており、そこに対するやりづらさも感じていたのだ、と。アンリアレイジ オムは今後も東京で発表していくことを考えると、森永は年に4回新たなコレクションを作ることになる。その重労働を度外視しても、オムで、自分の欲求で作りたいものを作っていた時の純朴さを取り戻そうとしているのだろうか。オムは、アンリアレイジにも今後、影響を与えるものになり得るはずだ。
ランウェイが一直線ではなく、円を描くようにモデルが行ったり来たりしている様を見ても、パリコレクションで実験的な発表を続けているアンリアレイジと、その真逆にあるようなアンリアレイジ オムの間で揺れ動く森永の心境を思わせる。全く違うものづくりではありながらも、どちらも森永が作っているという意味では同じ道を行ったり来たりすることでバランスをとっているかのように。
長い間、アンリアレイジのことを「UN REAL(非日常)」から踏襲しているブランド名だと思っていた。ただ、こうして原稿を書いていると否定接続詞の「UN」ではなく、不定冠詞の「AN」の意味も含んでいるのではないかと考えるようになった。不定冠詞には、それだけでは意味を成し得ない単数形に、実態を与える役割を持つ。宙に浮くぼんやりとした概念であった「REAL(日常)」に、たった2文字のANがつくことで、実態を持った日常になる。この「ほんの少しだけ手を加えることで、日常は非日常になり得る」というのは、アンリアレイジが持つ哲学の根幹に繋がるだろう。アンリアレイジが謳う非日常性とは、明日、世界が滅亡してしまうような世の中を大きく揺るがすような非日常性ではない。夕方になったら伸びる影のように、花が咲いたら枯れるように、日常が少しだけ違えることで生まれるものを指しているのだ。森永は、日常と非日常が分け隔てる曖昧さを冷静に見つめている。それを思えば、ショーのBGMがかつてコレクションで使われていた音楽の合唱verであることや、過去のコレクションではニットのジージャンだったものが、ダッフルコートやスカジャンになっていること、ボタンやパッチワークを多く取り入れていることなど、アイデアソースの全てが、自分の服から始まっていることも簡単に否定できない。森永にとっての日常(過去)を見つめることで見える非日常性が「アンリアレイジ オム」なのだから。ただ懐古主義的に「昔は良かった」と振り返っているわけではない。
アンリアレイジとアンリアレイジ オムは出発地点は違えども、日常と非日常性の曖昧さに変わらず目を向けている。その証拠に、新進気鋭のブランド「ノリ エノモト(nori enomoto)」とコラボしたヘッドピースやジャケットは、コレクション全体に程よい「アンリアレイジらしからぬ」新たなテイストを与える。ノリ エノモトの曲線が象徴するように、メンズのボディをど真ん中に据えながらも、メンズにはないような曲線や色使いが数多く見られた。思えば、アンリアレイジ オムは鋭角的な印象を持つ大文字ではなく、丸い印象を与える小文字の「anrealage homme」が正式表記だ。
「アンリアレイジと矛盾してしまうけど、新しいものだけが新しいものではないと思っている。その中で、自分の作ってきたものにちゃんと向き合わなければと思えた。日常と向き合わないと非日常は見えてこない。進みたいし、更新したいし、次に繋げるようなものづくりをしたい。それをやるためには真逆の始原に向かってこそだと思った」(森永)。
この日、気になったのは森永の盟友で、ショーのスタイリングを毎度手掛けているTEPPEIがいつも以上に熱く関係者と抱擁を交わしている様だった。話を聞けば、今回のミューズは他ならぬ彼にあったという。森永が言うところの「原風景」には、スマートフォンも普及していない2000年代初頭の原宿で、TEPPEIが(ウィメンズであるはずの)アンリアレイジの服を着て、ストリートスナップに登場し、たった一人の着用に街の景色を変えてしまうくらいの威力があると感じたことにもあったという。この日、TEPPEIはアンリアレイジの2007年コレクションに登場したニットのパッチワークカーディガンを羽織っていた。そのパッチワークももちろん、今回のショーで一部デザインに落とし込まれている。
ここまで色々と書いてきたが、今回のショーの総括はフロントローが2席だけ空いていた理由が全てである。
「恥ずかしい話なんですけど、今日のショーは、きっとあの頃の自分たちも見に来ているはずだから。TEPPEIくんと僕の分の2席を空けたんです」(森永)。
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