Fashion インタビュー・対談

【インタビュー】「ファッションはそんなに重要だろうか?」信國太志がデザイナーからテーラーに転身した理由

故アレキサンダー・マックイーンたちと親交を深めたロンドン時代

―ロンドンでの生活はいかがでしたか?

 当初はマルコム・マクラーレン(Malcolm McLaren)とヴィヴィアン・ウエストウッド(Vivienne Westwood)の息子ジョセフ・コレ(Joseph Corré)と一緒に住んでいました。ジョセフにヴィヴィアンを紹介されて、そのとき彼女が学校の教育とは「例えばあなたは月に行きました。じゃあ月で何を着ますか? みたいなリファレンスのないひらめきでデザインするといった馬鹿な内容だからおやめなさい」と言われました。デザインは過去の引用からしか絶対生まれないという考えを彼女は持っていました。その言葉は印象に残っています。また日夜ミシンで独学で服を作っていた僕を「羊たちの沈黙」の犯人のようにキチガイテーラーのようだと笑いつつジョセフが知人のテーラーを紹介してくれたのですが、結局セントマに行きたかったので電話しませんでした。今思えばそのテーラーは世界に名だたるハンツマンでしたので、以降あのときハンツマンに行っていたらという思いは僕を後に仕立て屋業に駆り立てた一因かもしれません。

 その後ジョセフ・コレと住むのをやめて、今ではトレンディなイーストエンドに引っ越したんですが、近所にヘアメイクをしている女の子の友達が住んでいました。よく彼女の家に遊びに行っていたのですが、地下に新しく「リー」という男性が引っ越してきたんです。彼は少し太ったフーリガンのような風貌。ある時、リーがヘアメイクの子に髪を切ってもらっていて、「手が離せないから僕の部屋から物を取ってきて欲しい」と言われて鍵を渡され部屋に行ったんですよ。部屋に入ってみると真っ赤のカーペットが敷いてあり、白い家具がポツンと置かれ、奥にミシンと洋服が並んでいました。綺麗にドレープができるように重りがついた服なんですが、それが本当に美しくて。実はその人こそ何を隠そう故アレキサンダー・マックイーン(Alexander McQueen)だったのです。

 それから色々話すようになり、一緒にご飯を食べたり、遊んだりしました。そんな翌日には学校に講義に来たりもするわけですが、そこでは彼は「ファッションはゲームだ」と、冷静かつ批判的な業界への視線を語るわけです。自分はうまくゲームができたから今みたいにやれているだけで、ゲームをうまくプレイすれば誰でも僕のようになれるということを言っていました。彼はそもそも一瞬の"美"みたいなものが好きで、その一つがたまたまファッションだったというだけ。本当はファッション写真よりもロバート・キャパ(Robert Capa)の撮る報道写真のほうにより美を見出していて、「できることなら10年以内にファッションから離れて報道カメラマンになりたい」と語ってくれたこともありましたね。

―セントマの卒制は「Daily Telegraph」誌に掲載されるなど話題を集めましたね。

 自分では話題になっていたかどうかはわかりませんが(笑)。枕草子をテーマに服を作りました。

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卒業制作作品

―卒業後はブランド「タイシ ノブクニ(TAISHI NOBUKUNI)」を立ち上げロンドンでコレクションを発表します。

 自然な流れでロンドンでブランドを立ち上げ、98年にコレクションを発表するということになりました。日本での取扱店を広げたいと考えていたときに、酒寄隆夫さんという昔「ロンディス」という一世を風靡したセレクトショップのバイヤーで僕とストリート戦国時代の買い付け競争をしていた方が、後のアクアガール(aquagirl)を立ち上げた後に恐らく日本初のプレスルームを立ち上げて。オファーを頂いたので、契約することにしました。当時は「ラフ・シモンズ(RAF SIMONS)」と僕のブランドだけを扱っていましたね。

「タケオキクチ」、「ボタニカ」を経てテーラーの道へ

―2000年には東京にオンリーショップをオープン

 最初は割と調子よく売れましたが、やはりインディペンデントに経営するのは大変で東大駒場寮に住んでそこからショップに通ってたこともありました。また夜はショップをバーにしてたんですが、そこでスタイリストの祐真さん(祐真朋樹)や島津さん(島津由行)など色々な方たちと知り合いになりました。そんな時、突然ワールドの方から電話があり、菊池武夫さんが会いたがっているという話を頂いて。「タケオキクチ(TAKEO KIKUCHI)」のクリエーティブディレクターを任せたいとお願いされ、引き受けることにしました。

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TAKEO KIKUCHI 2004S/Sコレクション

―別の人のネームが付いたブランドをやる難しさはありましたか?

 それはありませんでしたね。ただ同時並行で、自分のブランドも東コレに参加していたので忙しかったです。摩り切れていったというか、最終的には容易にコレクションがポンと出来上がり、自分の手仕事から遠くなるにつれ新鮮味がなくなった時期だったかもしれません。

―その後ブランド名を「ボタニカ(BOTANIKA)」に変更。この意図は?

 2008年に変更しました。変更前に世間で評価が良いコレクションが会社の内部では批判されたりと、矛盾を感じるようになっていて、ゆっくりした時間を持ちたいと思うようになりサーフィンとヨガを始めたんです。それをきっかけにそれまで自分が持っていたある種の不良性のようなものが変化していきましたね。僕も世の中にいいことがしたいとか、環境問題を考えたりするようになって、「ボタニカ」で全てオーガニックコットンで作った生地を使った服を作るようにしたんです。ただ色々アイテムを作っていたんですが、「洋服のクオリティとしては少し違うな」というのを感じるようになり。社会を良くしようではなくて、まずは隣にいる1人の人を幸せにすることが大事と考えるようになり、テーラーの道を目指すようになりました。

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BOTANIKA

―テーラーになるためにまず始めたことは?

 「マルキース」というテーラーがあるんですが、そこに飛び込みでお願いしに行きました。事情を説明したら、「僕がお客さんを連れてきたら僕がデザインしたものをアトリエで作ってあげる」という提案を「マルキース」の佐々木康雄さんがしてくださいました。「アトリエを好きに出入りしていい」とも言ってくださったので、1年ぐらい毎日のように通うようになりましたよ。それが40歳ぐらいのときです。

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