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【インタビュー】少年兵からハリウッド俳優に ゲール・ドゥエイニーの半生とは

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Photo by Mike Mellia

ゲール・ドゥエイニーは1978年に生まれ、1980年代に第二次スーダン内戦で戦った「スーダンのロストボーイズ」として知られる子供の一人だ。彼は読み書きを覚える前に戦闘を覚え、思春期を迎える前にAK-47のマシンガンの部品すべてを覚えてしまった。14歳のときにエチオピアに逃げ切り、最終的にアメリカに渡り、そこでバスケットボールに熱意を抱き始めた。これにより大学の奨学金を獲得するが、ケガによって一年間休学するうち、ゲールはデヴィッド・O ・ラッセル『ハッカビーズ』(I ♥ Huckabees)にたまたま出演することになる。そこで、マーク・ウォルバーグや監督と親しくなり、この映画によりゲールは、モデルとしてのキャリアを。

2011年、ゲールが共同制作し、出演したドキュメンタリー『ゲール:別れ別れ』(Ger: To Be Separate) で、彼は約18年ぶりに帰郷し、 新独立国家南スーダンの選挙に参加し、母親と再会している。ゲールは、ディビジョンIIに所属する大学でバスケットボールの選手になれたことが、どれだけアメリカでの新生活に寄与したか、スーダンから逃亡してハリウッドのマーク・ウォルバーグと共に働くに至るまでの大転換、さらにはファッション業界では過去についてほとんど語らなかった理由、といったことを語ってくれた。

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Photo by Tarrice Love

スーダンを離れて「ロストボーイ」になった経緯を教えてください。

ゲール・ドゥエイニー:僕は、1986年にスーダンから逃亡した難民の一人でした。アフリカの角(と呼ばれる半島)で少しでもましな生活をするために、国から国へと裸足で何百マイルも歩きました。最後にはエチオピアのイタンにある難民キャンプに至り、そこで4年間すごしました。その後、エチオピアで戦争が起こり、難民たちはイタンからスーダンに戻りました。だから僕らは、1991年にはあちこちを放浪していたんです。その結果、少年たちはみんな、無理やり軍隊に編入されました。他の選択肢もあったのでは、と考える人もいますが、生き延びようとしたら軍隊に入るしかなかったんです。

1992年、スーダンの雨季でした。昨日のことのように憶えています。その年、僕は子供ながら戦闘員になったんです。14歳にして、僕は大人と看做され、銃を手にしました。それからすべてが変わりました。何もかもが変わってしまったんです。

家族は何人いるんですか?

とにかくたくさんいます。父には何人も妻がいました。正確にいうと9人です。ですから、僕には兄弟が63人います。父が僕をその中に数えていたかどうか定かでありませんが、ともかく、父にそう教えられました。みんな、南スーダンにいます。内戦を生き残ったみんなは、ケニア、エチオピア、ウガンダに難民として流れていきました。

スーダンが内戦、暴力で荒んでしまう以前の生活を憶えていますか。

南スーダンは、謙虚でおおらかに微笑む素敵な人たちが生活する、本当に綺麗なところです。豊かな大自然でいっぱいです。あなたを僕の国に案内するとしたら、ナイル川で、一生忘れないような経験をさせてあげますよ。緑の平野が広がり、土壌は僕の肌のようです。エチオピアは標高が高いので、そこに雨が降ると、南スーダンに雨水が流れ込み、それに含まれるミネラルが南スーダンの肥料になります。何でも育てることができます。国が飢餓に見舞われていますが、それは、土壌のせいでも、農耕技術のせいでもありません。僕らに足りないのは、やる気のある指導者、組織の長です。今起こっている紛争が飢餓の原因になるでしょう。というのも、戦争はあらゆる生命の源を踏みにじってしまいますから。

内戦があっても、汚されない思い出はたくさんあります。僕らは歌い、踊り、釣りや狩りをしました。実家では、牛の面倒を見たりもしました。内戦はスーダン全土に及びましたが、生活ができなくなるほどではありませんでした。内戦中であろうとも、僕たちは日常を築き、幸せに暮らしていたんです。

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モデル、ハリウッドでの俳優活動はどのように始まったのですか。

アメリカでの生活は、スーダンでの生活そっくりです。一つの場所に長い間留まることは全くありませんでした。一か所に留まるのは、この8年間で、今回のマンハッタンが初めてです。

1994年、アメリカに入国し、最終的にアイオワ州デモインとサウスダコタ州スーフォールズに、ロストボーイズと一緒に落ち着きました。その後、家族が1984年以来インディアナ州ブルーミントンに住んでいることを知りました。叔父のウォル・ドゥエイニー博士が、インディアナ大学で教授をしていたんです。彼に会い、その家族にも会い同じ年頃の子供たちにも会いました。

インディアナ州では、バスケットを始めました。従兄弟のドゥエイニー・ドゥエイニーがウィスコンシンでバスケットを、クース・ドゥエイニーがシラキューズのチームキャプテンを務めていて、2003年に全米チャンピオンシップで優勝しました。その二つがキッカケで、僕の人生は本当に始まったんです。今一度子供に戻り、叔父がこの国で暮らす方法を手取り足取り教えてくれました。サウスダコタに留まっていたら、僕の人生は別の方向に進んでいたでしょう。そこではみんな、警察の厄介になってましたから、バスケットボールが僕を救ってくれたんです。これは僕の精神療法であり、心的外傷後ストレス精神障害 (PTSD) を治す僕なりの方法だったんです。

その後、NBA入りを夢見るようになりました。今でもはっきり覚えています。イリノイ州のマトゥーンにある小さな大学でバスケットをするための奨学金も獲得し、ジュニアカレッジ選手として認められるようになり、LAのサウスウェストカレッジに通うための奨学金を獲得しました。卒業後、前十字靭帯 切断で、インディアナ州にひと夏戻り、傷を癒しました。大学を休学するしかありませんでした。これによって、奨学金全額を受け取るチャンスがなくなりました。悪夢です。その奨学金でしか教育を受ける術がありませんでしたから。

春になり、別の従兄弟、ノック・ドゥエイニーと一緒にジョージタウンに滞在し、ジョージタウン大学のジムでトレーニングするようになりました。そこで、コネチカットのブリッジポート大学が僕のことを聞きつけ、飛行機を手配してくれたうえに、奨学金も全額支給してくれました。大学2年目の終わりに、『ハッカビーズ(I ♥ Huckabees)』に出演する機会を得ました。演技のできるスーダン人難民を求め、スタッフが全米中を探し周っていたので、その夏、コネチカットに留まりオーディションを受けたんです。気が付いたら、飛行機でハリウッドに連れて行かれ、翌朝にはダスティン・ホフマン、マーク・ウォルバーグ、ジョナ・ヒル、ジェイソン・シュワルツマンなどのみなさんと一緒にリハーサルに参加していました。

そこは、バスケットボールの世界と完全に違いました。ハリウッドは、みんながすごく優しく、手助けもしてくれ、褒めてくれ、抱き合ったり頬にキスをしてもらうのがしょっちゅうでした。僕はデヴィッド・O・ラッセルやマーク・ウォルバーグに良くしてもらいました。3人ともバスケットが大好きだったんです。マークとは、彼の巨大な邸宅にある素晴らしいジムで2日に一度は、仕事のあとにバスケットをしました。二人とは兄弟のような間柄になりました。この二人は僕のことを、聞くに堪えない過去を持つ、わかりやすいロストボーイだとは思っていませんでした。

3か月の撮影のあいだ、僕はデヴィッドに、いつブリッジポート大学に戻ってバスケットを再開できるのか、と何度も尋ねました。奨学金をもう一度もらうには、戻らなければなりませんでした。9月末になり、大学に戻るチャンスを失いました。バスケットは、10年ものあいだ、僕の一部でした。どうしても大学に戻り、教育やソーシャルワーク (human services) に纏わる学位を取ろうと決心していましたが、手遅れでした。

夏の映画撮影で貯まったお金を使って1年の休暇を取り、それからニューヨークに移り、大学の授業が始まるまで、いろいろなオーディションを受け、モデルをして過ごしました。僕はモデルを始め、面白い人たちにたくさん出会いました。『ハッカビーズ』に出演していたので、マネージャーやエージェントの中には、僕の仕事ぶりに興味を持ってくれていた人もいました。2004年から今まで、ハイファッションの舞台や雑誌などで働いてきました。かれこれ9年近くやってきたことになります。

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Photo by Matthias Vriens McGrath

あなたは、自らがファッション業界の一員だと思いますか。

心の底から業界の一員だ、と思えたことはありません。とても厳しい世界です。ファッションウィークの仕事、ファッションショーへの出演、素晴らしいデザイナーと共同作業を経験しましたから、仕事には慣れることができました。本当にたくさんのチャンスをもらったので、いつでも感謝し、恐縮しています。でも、本当の使命は、ファッションよりもはるかに大きなものです。

ファッション業界いる僕の目的は、人間性を理解している人たちと関係を深めることです。つまりたとえば、ファッションと上水計画の組み合わせ、生活を変えるようなファッションなどです。デザイナーたちと関係を築けたのは喜ばしいことです。そのデザイナーたちが僕の成長を認め、ファッションを、僕の大きな目的と組み合わせようと手を差し伸べてくれています。業界の人たちにケチを付けるつもりは全くないので勘違いしないで欲しいのですが、人生はキラキラした華麗なモノだけを追いかけるだけではないんです。そのバランスを理解できて、僕は嬉しいんです。

服装を変えても、僕は変わりません。僕は、服装から個人が出来るとは思いません。僕はこれからもずっと南スーダン人で、それより重要なのが、これからもずっとゲール・ドゥエイニーなんです。

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Image by Jeff P. Elstone for INAISCE

バスケットボールをファッション撮影に持ち込んだことは?

(笑い)ファッション業界に入ったばかりの頃は、バスケットボールを持ってキャスティングに出向いていました。みんなは僕のことを、エキゾチックなアフリカ人としか見てくれませんでしたから、僕にバスケットが出来るなんて思ってもみなかったはずです。インディアナ州ではバスケットは宗教です!  ファッションウィークに出演するためにミラノに向かっていたあるとき、僕とは二人のモデルとバスケットをする機会がありました。二人の頭を越えて僕がダンクシュートをし始めると、二人は僕が侮れない人間だと悟ったんです。

周りのみなさんは、あなたが難民でロストボーイだったことを知っていたんですか。

正直な話、同僚たちは僕の過去を知りませんでした。それについては口にしたことがありませんでした。そのことは隠していました。

スーダンに住んでいた頃、鏡を見たことはありませんでした。鏡を持っていませんでしたから。見てくれを誉めてもらったこともありません。僕たちの文化に、見た目云々、という習慣がありませんでした。アメリカに来ると、周りが「すごくかっこいいな」と褒めてくれるので、僕はびっくりしたんです。美しさ、についての意味を知る必要がありました。

僕にとっては、高校や大学にいる他のあらゆる学生と同じ扱いを受けること重要でした。俳優業やモデルとしても同様でした。実際、僕の出自に関わらず、みんながそうしてくれたのは、とても喜ばしいことでした。でも、気楽ではありませんでした。あるとき、僕のそれまでの人生に話が及ぶと、当然のごとく、「家族はどこにいるんだ」と聞かれました。18年間家族には会っていない、と応えたのですが、そこから過去を語らざるを得なくなりました。

今の僕は、大学でバスケットをしていたころとは違う人間です。ファッション業界にいる頃とも違います。だから、2011年に故郷に戻り、僕と家族の違いを目の当たりにしたのが、とても面白かったんです。家族と離れ、長い間、違う経験を積み重ねましたから、ある意味で僕は違っているのです。僕が難民やスーダンのロストボーイとしての生活から逃れることができたのは、教育のおかげです。僕は自分のアイデンティティを探しています。でも向こうに戻ると、今でも僕は同じ人間であり、スーダンの人たちと同じやり方で付き合います。スーダン人たちは、僕が20年も離れていたなんて信じられず、僕は依然として昔のままなんです。

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あなたの創ったドキュメンタリーである『ゲール:別れ別れ(Ger: To Be Separate)』 について聞かせてください。

ワヌリ・カフイ監督と僕は、二人で2010年にスーダンに行き、そこで僕たちは、母親、家族、親戚を探しました。あまりに長いあいだ離れていたので、家族や親戚のほとんどは、僕は死んだ、そう思っていたようです。

18年も会えなかった母親を必死に探しました。その途中、内戦が南スーダン人に対し、いかに肉体的・精神的な悪影響を及ぼしていたか、ということを思い知らされました。ワヌリ監督は、それを必ず撮らえことを宣言し「お金のことは考えなくていい。ともかく家族を探してください。私は後をついていきます」と息巻いていました。そのとき、心強い味方がいるんだ、と知りました。

ドキュメンタリーのタイトルは、どうやって決めたんですか?

僕の名前は、ゲールです。ゲールという名前は、あらゆるものがバラバラになったりダメになったりするという意味ですが、母親と再会したとき、カフイ監督が母親に尋ねました「ゲールってどういう意味ですか?」。すると母親は「別れわかれということです」と応えました。

私は、あなたが今度リース・ウィザースプーンと制作し、発表する映画が、ロストボーイズの苦境に関するものだと聞きましたが。

この映画は、ロストボーイズについての実話をヒントに制作されたものです。それは、僕らにまつわる話をすべて集めて、素晴らしい作家マーガレット・ネイグルさんが作品にしてくれたものです。もし、僕が本を書くとしたら『グッド・ライ~いちばん優しい嘘~』のような映画に補足を加えるものになるでしょう。というのも、その映画は、僕のトラウマに満ちた過去を癒し、クリエイティブに解放してくれるからです。僕は内面を深く掘り下げ、その話を引き出さなければなりませんでした。人生は映画だ、とよく聞きますが、これが僕の映画だと思います。この映画は、単に僕自身のキャリアだけでなく、祖国にも役立つでしょう。僕らには、過去を視覚化して観じてもらえるようにするための、こういうプラットフォームが必要なんです。

南スーダンの先行きはよくなると思いますか?

2010年、僕はとても楽観していました。左右を見て「自由だ、やったー!」と叫んでいました。興奮し、喜びにあふれてました。僕が生きてるあいだにこんなことが起こるなんて、信じられませんでした。僕らは南スーダンが独立するなんて思いませんでしたけど、実際に独立したんですから!

僕らは、強い信念を持ち、最高に希望に満ちて楽観的な人間です。この内戦が最終的には落ち着き、その結果、僕らは一体となり、近い将来、南スーダンが新な局面をどう迎えるかについて考えなければなりません。僕は、祖国の人たちの幸せを願ってますから、楽観的である必要があるのです。希望を失うわけにはいきません。それがスーダンの象徴であり、僕らの拠って立つところです。僕らは目的を達成するんです。

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2015年10月2日から開催されるUNHCR難民映画祭にゲストとして、ゲール・ドゥエイニーが来日。インタビュー中、本人も言及した『グッド・ライ〜優しい嘘〜』上映時に登壇予定。

UNHCR難民映画祭
http://unhcr.refugeefilm.org/2015/