セツ・モードセミナー閉校前に現校長が語る「長沢節」という人生

セツ・モードセミナーの長沢秀校長 Photo by: FASHIONSNAP

 ア ディユー(A Dieu.) さ よ な らーーー川久保玲や山本耀司といった日本を代表するデザイナーや芸術家を数多く輩出してきたセツ・モードセミナーが、そのホームページで"伝説の自由学校"の最後を告げている。創立者 長沢節の生誕から今年で100年。その功績からカリスマと称された長沢節が、セツ・モードセミナーで伝えたかったことは何だったのか。2017年4月をもって閉校することが決まった同校の軌跡と長沢節の人生を、長沢秀 現校長へのインタビューを通じて振り返る。

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長沢節の誕生からセツ・モードセミナー閉校まで

 長沢節(本名 長澤昇)は1917年、会津若松市出身。文化学院在学中の20歳(1938年)の時に、挿絵画家としてデビュー。「スタイル画」の第一人者としてファッション業界をリードする存在となっただけではなく、エッセイストや映画評論家としても活躍した。

 セツ・モードセミナーの歴史は、前身となる「長沢節スタイル画教室」から始まった。当時、弟子入りを志願する若者が節の自宅に押しかけていたため、プライバシーを保つ手段として西塚庫男の帽子専門教室「サロン・ド・シャポー」を間借りする形で1954年6月に開校。授業は毎週土曜日の3時間のみでカリキュラムはなく、モデルを囲みデッサンをするという内容だった。デッサンには節も生徒たちと肩を並べて参加。第1期生には穂積和夫や河原淳ら優秀な人材がそろっていたことから、節はいつしか彼らと仲間になり、土曜日を心待ちするようになったという。

 3年後の1957年には、麻布笄町にある寺院境内に併設された幼稚園の2階に教室を移転。週1回だった授業を週3回に増やし、穂積和夫や河原淳らを教師に迎えた。名称を現在の「セツ・モードセミナー」に変更し、小さな教室が学校として発展していった。

 新宿区舟町にある現在の校舎は1965年に建設され、節が自ら設計を担当。この時点で学校が暮らしの中心となり、生徒との会話から性差を超越する概念「モノ・セックス」が生まれるなど「自由の精神」を伝えてきた。しかし1999年に大原でのスケッチ旅行の最中、自転車による事故により82歳で死去。甥の長沢秀氏が校長を引き継ぎ現在まで運営してきたが、節の生誕100年を機に「節先生の魂(自由の精神=セツ・モードセミナー)をそろそろ天国に送り届けてあげたい」という想いから、閉校が決定された。

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節を囲む川久保玲や山本耀司、花井幸子ら

節の愛情と情熱に溢れていたセツ・モードセミナー

 セツ・モードセミナーの校長を継いだ秀氏はそれまで、クリエーティブ業界や教育の分野に身をおいた経験はなかったという。一部のスタッフからは「長沢節がいないセツ・モードセミナーなんて意味が無い。続けられないのではないか」という意見もあったが、節の教え通りにデッサンに没頭する生徒らを見て「閉校するとは言えなかった。在校生だけはとにかく卒業させなくちゃいけないという思いがあった」と存続を決めた。

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長沢秀氏

 節がいた頃のセツ・モードセミナーと同じように運営に取り組む努力をしたが、一つだけ全く出来なかったことがあった。毎年企画していたヨーロッパの写生旅行だ。秀氏も1998年に一度だけ同行したことがあり、当時の旅行についてこう振り返る。

「絵の道具って重いんですよ。スペインの古いお城に行くには坂道があって、そこに絵に使うための水はないというので、ペットボトルで2リットル分も運ぶんです。初めてのヨーロッパでどこで描いたら良いか分からない子もいましたが、節先生は描きやすい場所から太陽の方角までよく知っていて、アドバイスしていました。外せない街だったのは南フランスのコートダジュールで、海の方を見ても山の方を見ても1枚描けてしまう。節先生は、絵を描く生徒の為に全て予習していたんです。旅行会社の人にはそんな説明は出来ない。"絵を描く人"のアドバイスなんですよね」

 節がいたからこそできたその旅行は実施されることはなくなったが、千葉の大原で行っていたスケッチ合宿は継続された。

「長沢節の自転車事故という悲しい思い出はあったけれども、何十年も続けていた学校行事でしたから。現地の漁業組合や民宿組合の方とも仲良くしていました。千葉県の大原では夏に裸祭りがあるのですが、学校行事は毎年6月に行っていたので『生徒さん達が来ないと夏が来ない』と言われていたんです」

職員の高齢化、形骸化、そして"アウトサイダー"ではなくなった

 セツ・モードセミナーの運営は出来る限り、節が生きていた頃と同じように続けたが、ヨーロッパ旅行だけではなく出来なくなったことが次第に増えていった。しかし、閉校を決めた理由はそれだけはない。職員の平均年齢が上がり続けていること。それから毎年開催している展覧会「セツ展」で、開催を知らせるためのダイレクトメールのデザインに新しさが見られなくなってきたことから、「これはダメだな」と感じたという。

 職員との意識の差にも変化が起こった。2004年に節をテーマにした「〈セツ神話〉 秘密に迫る 長沢節展」の開催に合わせてセツ・モードセミナーの公式ホームページを作ることになったが、秀氏としては「宣伝なんかしなくても生徒がどんどん応募してくるようでないと、存在価値は無いのではないか」と意見した。また、秀氏がホームページに載せるための挨拶文を作成した際に「セツ・モードセミナーは永遠のアウトサイダーです」と最後に締め括ったが、職員から「アウトサイダーではなく、すでに主流になっています」と戻された。その時、存在意義に限界を感じたと振り返る。

「主流には東京芸術大学や既成の大きな美術団体があり、それらにダメでもともとで食らいついて、攻撃的に反抗しているのがセツ・モードセミナーだと思っていた。『永遠のアウトサイダー』であるべきだったんです。でも有名になりすぎて、大きくなり過ぎて、あるいは歴史が長過ぎて、このままではセツ・モードセミナーが若いイラストレーターや芸術家などの成長を妨害する"重し"のような存在にもなってしまうかもしれない。そんなの芸術の敵じゃないですか。節先生も望まなかったはず。だからなんで、生きている時に自分でセツ・モードセミナーを壊して辞めなかったのか、とも思っていました」

 秀氏は節の甥だったが、亡くなる前に養子に入っていた。息子となった以上は「親が出来なかったことを、子どもがしてあげるべきではないか」と義務を感じたことも、決断を後押ししたという。

卒業生に受け継いで欲しい節の「自由の精神」

 節が亡くなってからまもなく18年の歳月が経つ。先日は17回忌があったそうだ。「自分に厳しい人でした」と秀氏は在りし日の面影を偲ぶが、学校での様子からは、生徒への愛情に溢れているのがわかる。

「晩年は朝5時から活動していました。セツ・モードセミナーは3部制で、朝10時に最初の授業を開始する鐘が鳴ると、すぐにデッサンが描ける心と体の準備をして、プライベートルームの屋根裏部屋から完全にドレスアップした姿で降りてくるんです。自分で決めたモデルなのに『今日のはカッコイイなあ』なんて言いながら、生徒と一緒に描く。たいてい午後は銀座の映画の試写会に行き、一日1本、13時か15時の回に行って、道草を食わずに学校のコーヒータイムが終わるまでに帰ってくる。生徒が待っているからです。夜間の授業にも出て、20時の休憩の頃には眠くなる。そして生徒から『先生おやすみなさい』と言われて、屋根裏部屋に戻っていく。そんな毎日でした」

 1ポーズでも多く生徒と一緒にいることを心がけていたという節は、一緒に描くことを「生徒へのサービスであり教育」と考えていた。「生徒といる時が一番楽しそうで、活力がありました。きっと若い人からエネルギーを貰っていたのでしょう」。

 節が愛情と情熱を注いだセツ・モードセミナーで伝えてきたものとは何だったのか。「自由の精神です」と代弁する秀氏は、ここから飛び立っていった多くの卒業生に向けて「それを受け継ぎ、実行してほしい」とメッセージを送った。セツ・モードセミナーは閉校するが、節の魂はこれからも、芸術と真摯に向き合うクリエーターの心に生き続けることだろう。

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