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【美を伝える人-企業編-】全日本女子バレー代表を経てビューティ業界に ラブクロム 下島千穂会長

 ビューティ業界で注目を集めるトップランナーとして走り続ける人たちの、幼少期から現在までをひも解く連載「美を伝える人」。企業編の第9回は全日本女子バレーボールチームでマネージャーとして活躍し、2011年にビューティブランド「ラブクロム(LOVECHROME)」を立ち上げたワイシー・プライマリー会長兼創業者の下島千穂氏。ヘアチェンジで性格が一変した小学校時代、ほぼ毎日3時間睡眠だったという全日本バレーチームでの経験、数奇な縁と行動が導いた引退後のキャリア、ラブクロムを立ち上げるまでのストーリーなどその素顔に迫った。

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下島千穂(ワイシー・プライマリー会長):1975年生まれ、北海道出身。1993年にNECへ入社し、2000年までNECレッドロケッツに所属。1996〜1999年は、全日本女子バレーボールチームでマネージャーとして活躍。2000〜2002年コスチュームナショナルジャパンを経て、アディダス ジャパンへ入社。2004〜2008年には、インタースパでリラクゼーションサロン「オリーブスパ」の立ち上げに携わる。2009年にワイシー・プライマリーを設立。プライベートではフルマラソンを完走するなど、さまざまなことに挑戦中。

ラブクロム
:2011年に設立。特殊加工技術「JP CHROME-TECH®(ジェーピー クロムテック)」によって表面を極限まで滑らかにした“美髪コーム”を中心とした美容商材を提案している。摩擦を70%軽減し、静電気を吸着拡散することでダメージやパサつきを抑え、髪を艶やかにまとめあげる特徴を持つというコームは、美容師や著名人による口コミから話題沸騰。近年では10代や20代の若年層の間でも支持されている。

ロングヘアをばっさりカット 活発な少女に 

⎯⎯幼少期はどんなお子さんでしたか?

 2歳年上の活発な姉の後をついて歩く大人しい子どもでした。次女特有の要領良く物事をこなすタイプで、姉が怒られているようなことは絶対にしませんでした。だから両親から怒られた記憶は一切ないんです。小学校でも友だちを積極的に作るというよりも、周りの様子を良く見ていました。

⎯⎯現在のはつらつとした下島さんのイメージとは違いますね。

 それが変わるんです。姉の影響で小学校3年生のときにバレーボールを始めたんですが、母に「スポーツをするなら邪魔だから切らないと」と言われて、お尻まであったロングヘアをショートにバッサリとカットしたんです。

 鏡に写ったショートヘアの自分を見て、変わった瞬間が分かりました。それ以降、急に活発な自分が出てくるようになって、全然違う人間になりましたね。

幼少期の写真

⎯⎯まさにターニングポイントですね。

 今振り返ると、あのときの髪は、自分の中で一つの区切りを象徴していたのだと思います。実はそのときにカットした髪を、母がずっと取っておいてくれていて。小学校3年生、9歳くらいの頃の髪ですね。それを約40年後、48歳になったタイミングでヘアドネーションしました。人生で初めてのヘアドネーションが、いちばん最初の転機の名残だったんです。

小学校の文章に書いた未来予想図を現実に

⎯⎯それからバレーボールに打ち込む日々が始まったんですね。

 そうですね、中学校ではコーチの先生がバレーボールと陸上の両方に力を入れていたので、自然と2つの競技に本気で取り組みようになり、毎朝6時から10km走るほど。正直きつかったですが、その結果、陸上とバレーボールで全道大会に出場することができたんです。スケジュールが重なった時は、もちろんバレーボールを選びました(笑)。

⎯⎯昔からバレー選手になることが夢だったんですか?

 夢というより、「こうなる」と決めていた感覚に近いかもしれません。小学校の時に書いた日記に、「20代でバレーボール選手に、30代で母に、40代で仕事に打ち込んで、50代は空白、60代で着物の似合うおばあちゃんになる」と書いていました。当時は、50代は想像がつかなかったみたいですけど、それ以外は不思議と未来予想図通りになっているんです。イメージするからこうなっているのかなと思います。

中学生の頃の写真

⎯⎯高校卒業後は進路が一気に動き出します。

 最初に就職先として決まっていた別のバレーボールチームが廃部になったということもあり、教師になるために大学に進むことも考えていたのですが、監督不在で代わりに相談した学園長から「NECの女子バレーボールチームに行きなさい」と。

 今違うかもしれませんが、当時は実業団の中で1番と言っていいほど厳しいチームかつ、中学校のころからずっと一緒で、いつか別のチームで対戦したいと思っていたチームメイトが進むことが決まっていたので、前向きには考えられなかったんですが「飛行機のチケットも取っているから今日の夜に行きなさい」と言われてしまって…。進路相談をしたその日の夜には東京に向かっていました。

⎯⎯かなり急な展開ですね。

 最初はもう泣く泣く飛行機に乗ったのですが、途中で「進路は変えられないから、チームをいかに早く、円満に辞めれるか」とスイッチを切り替えました。そのためにチームの中で、何かに1番になって、周りに認められて、「やり切った」と思えるように頑張ることにしたんです。もともと走ったり、飛んだりすることが得意だったので、そこで1番になろうと決心しました。

毎日3時間睡眠 日本代表を支えるマネージャーの仕事

⎯⎯その後、全日本でマネージャーをすることになりますがきっかけは?

 NECはとても強いチームだったので、監督が日本代表チームの監督にも就任しました。選手層が厚くなかなか出場の機会には恵まれなかったのですが、朝からランニングやトレーニングをしたり、他の選手のサポートをしたりする姿が目に留まったようで、19歳のときにマネージャーをやってみないかと声をかけてもらったのがスタートです。

⎯⎯マネージャーとは、どんなことをするんですか?

 ありとあらゆる雑務の全てです。海外遠征があれば飛行機や宿泊先の手配をしますし、選手に支払う日当の計算と支払い、メディア対応なども行っていました。当時は日当制で、その日の終わりに現金で支払っていたので、海外遠征では1000万円近い現金を持ち歩くこともありました。今でも、100万円の束がどんな厚みか分かります(笑)。

 なんでもやるのが当たり前で、マネージャーをしていた5年間は、ほぼ毎日3時間睡眠でしたね。

全日本時代

⎯⎯そんな日々から逃げ出したくなったことは?

 高校時代は上下関係が厳しい寮生活で一度も実家には帰れない環境だったので、何かから“逃げ出す”という選択肢はもともと持っていなかったように思います。もちろんマネージャーなんてやったことがなかったので、とにかく必死でした。60日間のヨーロッパ遠征が毎年あって、みんなのパスポートやお金を私が預かるので、もしそう思ったとしても逃げ出すことはできませんでしたね。

次はファッションの世界へ 「コスチューム ナショナル」に

⎯⎯バレーボール選手引退後はどんな道に進みましたか。

 ファッションが好きで休みの日といえば洋服を買い漁っていた私は、中でも「コスチューム ナショナル(CoSTUME NATIONAL)」がお気に入りでした。当時の青山店の店長がバレーボール好きだったこともあって親しくしてもらっていて、引退することを伝えたら、「うちで働いたらどう?」と言ってくれたんです。南青山4丁目が、私の第二の人生のスタートです。そんな思い入れのある場所なので、現在「ラブクロム」の旗艦店を構えています。

青山店

⎯⎯大きなキャリアチェンジですね。

  スニーカーからヒールで仕事をするようになって大変でした。コスチューム ナショナルは店舗(空間)デザインにも力を入れていたこともあり、働いていく中で次第にVMD(ビジュアルマーチャンダイジング)の仕事に興味を持ちました。2年ほど働いてから、空間デザインの勉強のために友人がいるニューヨークへ向かったんです。

 そして、ちょうどニューヨークから帰国したタイミングで、選手時代に全日本のトレーナーをしていた方からたまたま連絡があって、「勤務しているアディダス(adidas)でVMDを探している」と言うんです。

⎯⎯すごいタイミングですね!

 私の人生って、大体そうなんです。行動したら周りが縁を運んで来てくれる。バレーボール1本の生活が長かったので、「フリーランスで自由に働きたい」と一度は断りました。ですが、ご縁があってアディダスで業務委託で働き始めました。

 さらにアディダスで1年ほど働いたときに、知人から「マッサージの店をやりたいから手伝って欲しい」と声をかけてもらいました。選手時代からアロマオイルを使ってセルフマッサージをしていたので興味のある分野でしたが、この機会にしっかりと勉強しようとマッサージの専門学校に通って…。そうして27歳のときに知人と一緒に立ち上げたのが、アロマオイルトリートメントを提供する「オリーブスパ」です。

アディダス時代の頃

⎯⎯オリーブスパ時代を振り返って。

 私自身が当時、酵素風呂にハマっていて、汗をかくことがやみつきになると思ってそれで富士山溶岩浴を取り入れました。それが好評をいただき右肩上がりに売上と店舗数が増えていきました。多い時には月に100人、200人と採用面接をするほどでした。

 そしてオリーブスパの立ち上げから2年ほど経ったときに長女を出産して、3ヶ月で職場復帰。その2年後に次女が産まれました。ちょうどその時期にオリーブスパは24時間営業だったこともあって、勤務する女性たちが体調を崩す姿を目にすることが多くありました。このままでは娘たちに自分の仕事を胸を張っては話せない、と思ったんです。女性が長く健やかに働ける環境を自分の手で作りたいと考え、次の道へ進むことを決めました。

“逃げ出さないこと”“目標を作ること”

⎯⎯独立後は、どのようなビジネスを始めたのでしょうか?

 アロママッサージとネイルのサロンを始めました。従業員は6人ほどです。とくに最初の3〜4年は大変でしたよ。子育てをしながらなので時間が限られていますし、1人でやることがこんなに大変なのかと痛感しました。自分のお給料はまともに取ることもできず、時には保険を解約したり、貯金を切り崩していました。

⎯⎯これまでの経験が、当時を支えた部分はありましたか?

 逃げ出さないことと、目標を作ることですね。目標があれば達成するために頑張れるんです。これまでもそうやってきました。3年で軌道にのせるのが目標でした。

⎯⎯それだけ働きながら、4人のお子さんがいらっしゃることに驚きました。

 長女が20歳、次女が18歳で、三女は6歳です。実は長男は生後まもなく重い病気を抱え、他界しています。医師からはもって5年と言われ、毎日病院に通う日々でした。自宅介護か、施設かの二択を迫られたり…。自宅介護になると夫婦のどちらかが仕事を辞めないといけないと聞きましたが、従業員もいますし、仕事を辞めることはできません。

 違う方法を探して聞き込みをするうちに、プライベートナースという人に辿り着きました。知人の紹介で条件の合うプライベートナースにたまたま出会うことがで、大変お世話になりました。

⎯⎯想像を絶する経験だったと思います。

 当時は、夫と365日24時間一緒に介護していました。その時間があったからこそ、夫婦の絆もより強固になりましたし、今一緒にビジネスをやれているんだと思っています。すごく大変でしたが、不思議とそのぐらいのときからビジネスは上手くいき始めたんです。振り返ると全て息子が運んできてくれたのだと思っています。

 彼の亡くなった時間が、3月31日の3時33分だったんです。偶然だとは思いますが、不思議とどこかに出かける時、宿泊先の部屋番号は3になることが多くて。理屈で説明できるものではないですが、メッセージを送ってくれているような気がしますし、今でもいつも一緒にいる感覚があります。

コームで髪を整えることは整理整頓 「ラブクロム」立ち上げ

⎯⎯ラブクロムの立ち上げについて教えてください。

 次女を産んだときに抜け毛やパサつき、広がりがひどい状態になりました。また忙しさも相まって、髪の毛は結ぶだけ。そんな私を見た美容師の友人が、「髪の毛とかしている?」と言ったんです。

 感覚的にですが、40代以上はブラシを使うことはあっても、コームでとかす習慣はあまりないように思うんです。実際にとかしてみると、“ちゃんとした姿”になっていくのが分かるんですよね。髪をとかすことは整理整頓。日常的に素の自分をケアすることの大切さを感じました。

 そんなエピソードから構想はありましたが、サロンに力を入れていたので、ラブクロムを立ち上げるまでは5年ほどの期間があります。

⎯⎯サロンからラブクロムへと、ビジネスの軸を変えたのはなぜですか。

 あるとき、知人の女性社長に「これからの時代は通販時代。商品が勝手に動いてくれる時代」と言われたのが1つ目のきっかけです。当時はピンときていませんでしたが、サロンビジネスは人に支えられている分、どうしても不安定になります。エステサロンが全盛期で、銀座に新しい店舗を出したばかりの私が、相当大変そうに見えたのかもしれません。

 2つ目のきっかけが、東日本大震災です。避難所で大変な生活を送る被災者の方々を見て、コームを届けたいと思いました。髪をとかすことで、少しでも気持ちがほぐれたら、と。ラブクロムをやろうと決意し、銀座のサロンを閉め、ラブクロムに注力しました。

本物は世代や国を超えて愛される 目指すは世界

⎯⎯2011年にラブクロムを立ち上げてから、どのような戦略でブランドを成長させてきましたか。

 嘘をつくことなく、真摯にモノ作りをしてきました。使ってみればわかる、そんな自信をもって世に送り出せる商品たちです。長野の水と空気がきれいな土地で、製造しています。そういった歴史やストーリーに惹かれる方が多くいらっしゃいます。本物であること、100年続くものでありたいと思っています。

⎯⎯コロナ禍ぐらいからメディアやSNSで目にすることが増えました。注目を集めている理由をどのように分析していますか。

 ブランド立ち上げ当初は美容師に向けてサロンワークで使えるカットコームの販売から始めました。美容師たちからの好評を得て、物販ができるようにと現在の形をスタートさせたんです。一般的に、信頼するプロのおすすめが一番安心します。戦略は間違っていませんでしたね。

 その後ホームページを作って露出し始めたところ、バイヤーから問い合わせをいただきました。摩擦を70%軽減し、静電気を吸着拡散することでダメージやパサつきを抑え、髪を艶やかにまとめあげるコームは当時ほかにありませんでした。ブルーオーシャンだったと思います。

 立ち上げから2年後の13年前からテレビショッピング・ネットショッピング「ショップチャンネル」で取り扱っていただきました。そこで、40代以降のお客さまに見初められ、徐々にハイエンド層が使ういいものと認知されるようになりました。今では10代にまでユーザーが広がっています。

⎯⎯ラブクロムの人気は世代を超えて広がっていますね。

 SNSが広く使われるようになって情報を得ることができるようになり、40代〜50代のきれいな人が使っているものに若年層が興味を持っているんだと思います。また今の10代、20代の若年層には髪の毛を大切にする習慣があります。うまく時代の流れに乗れましたね。

⎯⎯世界のコレクションのバックステージで活躍する有名メイクアップアーティスト、パット・マクグラス(PAT McGRATH)氏とのコラボは印象的でした。

 みなさん本物に惹かれるのだと思います。彼女のアシスタントを長年務めた方がニューヨークで開催したポップアップイベントに来てくださり、その場でラブクロムの良さをマクグラスさんに電話で伝えてくれて、そこで決まりました。

⎯⎯海外への進出にも着手していますね。

 アメリカ進出のために現地法人を設立しました。現在は東京とハワイの2拠点で仕事をしています。ハワイは日本とアメリカ本土との時差がちょうど良くて仕事がしやすいんです。日本のマーケットが開く前に書類仕事をして、午後から打ち合わせができます。プライベートでは子どもたちの教育にもよい土地だと考えています。

⎯⎯進捗はいかがでしょうか?

 海外進出は2025年4月から本格化しました。アメリカではプランタン(Printemps)、ノードストローム(Nordstrom)、フランスではサマリテーヌ(SAMARITAINE)といった百貨店のほか、美容室での導入も進めています。そのほか中東やANSEAN市場にも進出していきたいですね。

⎯⎯日本のブランドはまずはアジアの市場から進出することが多いと思います。なぜアメリカから?

 やはりセレブが使っているものを使いたいと思いますし、どの国の人でもハリウッドが好きですよね。まずはアメリカに注力するのは海外の市場で認知を取るための重要なポイントだと考えています。

⎯⎯現在の規模と、最終的にラブクロムが目指すゴール地点は?

 誰もが知っている、手に取る、ブランドを目指しています。とはいえ、日本でも全国的にはまだまだです。2025年は関西では売り上げが伸びてきましたが、九州は伸び代があります。地道に種まきをしてきたものがコロナ禍をきっかけに花を咲かせ始めています。

 2025年度は前期比50%増の45億〜50億円での着地を見込んでいます。将来的には100億円規模を目標に、ブランド像としては「コーム界のエルメス」を目指したい。やはり本物には人を惹きつける力がありますから。

(文:米山奈津美、聞き手:福崎明子、編集:福崎明子・平松将)

最終更新日:

■ ラブクロム(LOVECHROME):公式サイト

F/STOREで「ラブクロム」の人気アイテムを販売中

ビューティエディター・ライター

米山奈津美

Natsumi Yoneyama

ヘアサロン業界専門誌を発行する出版社1社を経て、2019年にINFASパブリケーションズに入社。「WWDビューティ」「WWDジャパン」編集部記者として、主にヘアサロン業界と国内コスメ、フェムテックの取材を担当する。現在はフリーランスのエディター・ライターとして活動中。

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