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【インタビュー】日本でアウトドアを確立させた油井昌由樹とは?

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All Photo by Taijun Hiramoto

アメリカを起源としながら、世界からは日本のデザイナーが生み出すアメカジスタイルが評価されるという不思議な現象が起きている。ミリタリー、スポーツ、ワーク、アウトドアというソースをもとに街着として成熟させたこのスタイルは、どのような形で発展してきたのだろうか?
今回は1960年代石津謙介氏が定着させたアイビースタイルに続き、70年代ベトナム戦争の裏側で起きたヒッピーカルチャーと連動したアウトドアスタイルを、日本で提唱し根付かせた男をクローズアップ。現在当たり前のようにマウンテンパーカやマウンテンブーツ、バックパックなどが愛用されているが、それもこれもスポーツトレインの油井昌由樹氏がいたからの文化と言っても過言ではない。さらに、ここ数年モンクレールやウールリッチウーレンミルズなどにおいて、日本人が手がけるコレクションラインが発表されたりと、アウトドアをソースとした日本のハイカジュアルスタイルが、世界の市民権を得ているが、それもこれも先人たちが築いた文化があってこそ。
1970年代日本でアウトドアを確立した男、油井昌由樹氏のストーリー。

1947年神奈川県生まれということですが、物心がつく50年代後半から60年代前半はどのような幼少期を過ごすのですか?

父親が外科の開業医だったんだけど、それとは真逆というか、かなり開けた家だったんだよね。高校生の頃には、お袋が煙草をカートンで買っておいてくれたりね。一応医者の家だよ(笑)。しかもコンドームも一緒に買い置きされてて(笑)。普通に考えたら信じられないけど、そういう家で育つんだよね。また、横浜で育ったということもあって、屋台というか露店が近所に並んでいるわけ。おそらく米国の軍人、通称GIの人が着る用とか、軍の払い下げ品の露店だと思うんだけど、そこで売ってたA1みたいな皮ジャンとデニムパンツを中高生くらいのとき買ったのを覚えてるね、何の予備知識もなく。1960年代前半くらいかな。まだ日本でジーンズなんて一人も見かけなかった時代だから、かなり、ませた幼少期を過ごしたんだと思う。

雑誌や映画、音楽などはどんなカルチャーが入ってきていたのですか?

雑誌に関して言えば、ドイツの『ボーネン』というインテリア誌みたいな物が家にあったから、それは一般的ではないかもしれないけど身近にあったよね。後は、テレビでアメリカのドラマが放送され始めたのが59年くらいで、アメリカの文化がどっと入ってくるんだよ。『ルート66』とか『うちのママは世界一』、『サーフサイドシックス』だとか。俺にとっては『拳銃無宿』のスティーヴ・マックイーンだよね。そんなものを観てると、本当にアメリカを体験したような気分になれるほど、当時のテレビは強烈な媒体。音楽でいうと、カール・パーキンスとかが出ていた『マッチボックス』というロックンロールを中心とした音楽ランキング番組が気になってた。世の中ではロックが不良って言われる時代。ギターもダメ、エレキギターなんていったらもっと不良な時代だから。だけど、うちは、そういうことにも寛容な家庭だったんだよね。

確かに、お母さんがコンドームをストックしてくれる。今の時代に置き換えても、かなりぶっ飛んだ家庭ですよね(笑)。

そうだよね。バイトもしてたしね。七里ケ浜でコカコーラのバイトをするんだけど、近代サーフィンの父と呼ばれるデューク・カハナモクが4メートルくらいある大きなサーフボードと一緒に写っている写真を観て、なんだスゲェカッコイイって思っちゃて、建築現場にある足場の板とかを盗んできて、見よう見真似で削って、赤く塗っちゃたりして。それで海に入っても当たり前だけどすぐに沈んじゃう。仕方なくバイトで売っていたコーラを入れているアイスボックスのような容器の前に置くんだよ。そしたら女の子が寄ってきて、俺のコーラが、ものすごく売れて流行っちゃって。当時は下半身で物事を考えてますからね(笑)。

今も昔も若者は変わらないんですね(笑)。戦後は、もう少し硬派というか貞操観念が強かったというイメージでした。ファッションは、その後どのようなスタイルをしていたのですか?

ファッションに関しては、俺の場合はめちゃくちゃだったね。西部劇や西海岸のドラマみたいなものを、悔い入るように観てたけど、そのままウェスタンな格好はしてなかった。それこそVANの石津先生が提唱するアイビーは一時期ハマったよね。みゆき族みたいなブームは、俺よりひとつ上の世代にあたるんだけど、マドラスチェックのボタンダウンシャツにバミューダパンツ、髪型はシチサンで、細い傘持って、靴下はくるぶしから何センチじゃなきゃダメだとかやってた。その後60年代後半は髪が長くなってパンタロンだよ。まさにベトナム戦争に対する反戦、ヒッピーの時代になっていく。ただ、日本では70年代になるまでは、本当の意味で文化は開けてない印象が強いよね。

なるほど。60年代後半というと日本の社会情勢では学生運動が盛んになっていく時代ですね。油井さんも参加していたのですか?

俺が大学生の時は盛んだったね。ただ俺はまったく興味がなかった。ファッションに興味がある奴なんて、みんな女の子にもてたい、そればっか考えてるんだから。まさに正反対。全日本服飾連盟って全国の40校くらいが加盟していた団体の企画部長をしていて、ファッションショーやったりしてるわけだからね。オンワード樫山とかに行って予算を引っ張ってきたりして。その時が人生で1番稼いでいたかもな(笑)。サンケイホールでズー・ニー・ブーを呼んだりして、大妻女子の女の子にゴーゴーガールやってもらって、大流行り。パー券が飛ぶように売れてってやってたからね。だから、全共闘と自衛隊が神田で衝突してるんだけど、当時石畳になってる床を、全共闘は砕いて投げたりしていたから、警察が放送で、「危ないから逃げてください」なんて言ってる中、俺はベレットGTで「失礼」なんていって睨み合ってる真ん中を走り抜けていくわけ。ファッションばっかだったよね、もてたい一心。

やっぱりそこですよね(笑)。

ただ、その頃の友だちは全然会わなくなっちゃたね。当時みんなで電車に乗ってて、ちょっと混んでくると、サラリーマンに向かってでっかい声で「こんな生活できねぇよな」なんて言ってたやつが、3、4年になるとみんな就職活動し出して、普通に就職していくんだよ。そんなやつら信用できないでしょ。だから学校の友だちとは後半遊ばなくなっちゃって、それで赤坂の踊り場に入り浸るようになるんだよね。同時に横浜の踊り場にも行ってたよ。横浜はGIでも下級将校の黒人がほとんどなんだけど、レッドシューズとか、コルト45とか、イタリアンガーデンなどの踊り場に集まっていて。時代はモータウンだから、黒人音楽全盛。もちろん踊りもステップありきだから、全部黒人から習うわけ。それを覚えて赤坂に繰り出すんだよ。そうすると東京は上級将校で白人が多くて。そこで、覚えたステップを披露すると、みんな付いてきて、それが面白くて毎晩ムゲンとかビブロスとか当時できたばかりの踊り場に行ってたんだよね。68年から71年くらいの時代。ただ、ベトナム戦争が終息に向かうに連れて、だんだんGIの人がいなくなっちゃって。赤坂が電気のスイッチをオフッたように静かになっちゃうんだよ。

当然次の遊びに移行していくんですよね(笑)。

そうそう。そこで次は世界一周だよ。西洋かぶれでずっと育ってるからさ、赤坂にGIの軍人がいなくなって、じゃあ、どこに外国人がいるんだって考えたら、あっ海外ねって。それでGIを追っかけるように世界一周の旅に行くんだよ。最初はオランダに行こうと思ってて、当時はソ連の上空を飛行機で飛ぶと打ち落とされちゃう時代だから、北回りで行くんだけど、そうすると給油のためにアラスカに寄る。実際にアラスカに到着するその日、俺の人生の中で1番天気が良かった日だね。マウントマッキンリーの山あいが綺麗でさ。しかも六月、超白夜。いたるところがリアス式海岸になってるんだけど、そのどこの湾にも色とりどりの原色のボートが停めてあるように飛行機から見える。それが鮮やかで、ブルーとか赤とかオレンジとか、こんな光景絶対日本じゃ見れないからさ。それで段々空港に降りて行ったら、そのボートだと思っていたのがフロート付きの自家用水上機でさ、セスナだよ。もう絶対ここ行きたいって思っちゃて。アラスカはトランジットのはずなんだけど、アメリカのビザも持ってたから無理やり交渉して、飛行機降りるわけ。もう絶対ここ行くって。何が何でも降りるってごねたら降りれたんだよね。

ここで転機になるということですね。

そうなんだよ。カルチャーショックだらけでさ。景色はもちろんなんだけどさ、降りたら、あれ日本人ばっかじゃんって思ったらイヌイットでさ。なにせ、はじめての海外だから。とにかく何から何まで驚きながら、ホテルに行くんだけど、そしたらその隣にアウトドアショップというより、雑貨が多い今でいうスーパーがあって。ここで転機だよね。今まで履いていたパンタロンを脱ぎ捨て、リーバイスの501だよ、アメリカの生活にリアルに溶け込んでいるように感じられてワクワクしながら履き替えて、しかも、いきなりダンガリーでボタンダウンみたいなシャツを見つけちゃって着替えて、カウボーイがしてるやつねとか思ってバンダナ巻いて、ワッチキャップも被って、レイバンもかけてって、全部変わるんだよ。持ってたバッグも、今でいうバックパックだよね、背負子に変えたりして、ケルティーの。足元はワークブーツ。ソールは電気を通さないために厚みがあるビブラム社のもので、つま先にスティールが入ってるスティールシャンクというガチンガチンの8インチのワークブーツ。それに履き替えて。本当に全部変わるんだよ、ここで。

後のヘビーデュティーと呼ばれるスタイルの先駆けということですね。71年ということは、もちろんベトナム戦争の影響がアラスカにも広がっているんですよね?ヒッピーの文化が。

当然。特にアラスカ鉄道の終点のフェアバンクスって街で、それこそ北極圏に近いところがヒッピーたちの溜まり場で、みんなパンタロンに、髭ボウボウで髪長くて、裸の赤ん坊をリュックに乗っけて、奥さんとアラスカ鉄道で逃げてくるって時代だからね。それにも衝撃を受けちゃうんだよ。それもアウトドアにハマっていくきっかけになる。なんていったってヒッピーは徴兵に連れて行かれるのが嫌で逃げてるわけだから、当然家もないわけで。そうするとホームレス同然。だから、電気も何もない自然の中で、まさに言葉通りアウトドアで暮らしているわけだよ。やっぱり影響受けるよね。

なんか不思議ですね。軍人を追いかけて行くんだけど、軍人になりたくない人に魅了されるっていう。

本当だよね。でも、そこで一気に全部変わっちゃう。手に入れたそのままの格好でヨーロッパに行くんだけど、そしたら憧れていたはずの白人のお姉ちゃんやお兄ちゃんが、みんな俺が着ていたものを見て、「どこで買ったんだ、カッコイイじゃん」ってなって、「あれ、俺結構センスいいかもしんない」なんて思っちゃうわけ。自信ついちゃうわけ。勘違いするんだよ、若いから。それで調子に乗って、いろいろ買うんだよ、自分の目で見た感覚だけで。それが、ほとんどアウトドアの道具だったんだよね。東京では都会っ子で育っているから、日本のナタなんて知らなかったからだと思うんだけど、スタンレーのアックスなんかに出会って感動しちゃうんだよ、なんて美しいフォルムなんだって。見る道具すべてが本当に美しく見えたんだよね。もちろん、アラスカでのヒッピーとの出会いもあったけど、どちらかというと、道具の美しさからだよ、アウトドアに魅了されていくのは。

なるほど。一方でヨーロッパでは、当時どのようなファッションがトレンドだったのですか?

ファッションの中心は、レディースはロンドンのBIBAだよね、茶色の爪と茶色い唇みたいな、カジュアルでエッジィーなブティック。ロンドンは当時他にもツイッギーがミニスカートを世界的に流行らせたり、日本では化粧品が人気のあるマリークヮントとかが生まれた時代。だからロンドンにも行くんだけど、ポーターを作った吉田克幸、かっちんといっしょに部屋を借りて住んでたんだよ。かっちんとは最初ドイツで会うんだけど、当時日本の元町に通っているショップがあって、そこでドイツに行くなら常連でドイツにいるやつがいるから、訪ねてみたらってことで行くわけ。それで住所を頼りに行くんだけど、そしたらアパートの前で、あれ俺と似たような風貌のやつがいるなって思って声をかけたらかっちんで。それで意気投合して、その後ロンドンでしばらくいっしょに住むことになるんだよ。

では、その後は2人で世界一周に回るのですか?

いやいや、かっちんはそのままロンドンに残るんだけど、俺はその後またアメリカへ戻るわけ。ただ、いっしょに部屋を借りてるもんだから、毎週俺に手紙よこしてたよ、早く戻ってきてくれよって。だって当時1ポンド900円の時代で、アパートの家賃が週で9ポンドとバカ高いから、そんなの一人じゃ払えないよね。その後、一回もロンドンの部屋には戻ってないから(笑)。大変だったと思うよ。そんなかっちんを残してアメリカに戻って、ロスとかサンフランシスコとかに行くんだよ。それで本屋に行ったらホールアースカタログが山積みになっててさ。

スティーブ・ジョブスで再び脚光を浴びた、ヒッピー文化から生まれた伝説のカタログですね。

そうそう。やっぱり影響受けるよね。すげえな、この本って。それで行くんだよ、編集部に。そんときに高校生くらいのスティーブ・ジョブスがいたと思うんだよね。スティーブっていう子が来てたから(笑)、本当にジョブスだったかはわからないけど、でも、そういう編集部なんだよ。誰でも出入りできるデタラメっていうか、自由気ままっていうか。それで編集部のやつらと話してみたら、俺と同じ気持ちだって事がよくわかったよ。こっちはこっちで、すでに道具にダイレクトに出会ってるからさ。ホールアースカタログはのちに、日本でもバイブルみたくなるんだけどね。

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ホールアースカタログについて、油井氏が寄稿した記事。

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帰国後、どのようなきっかけでお店をオープンするのですか?

世界一周から帰ってきて、アウトドアの道具だらけじゃん。それを持ってたら、みんな目がビヨーンってなって欲しがってさ(笑)。「えっ、こんなの東京にあるんじゃないの」って思って探したんだよ、ミニクーパーで東京中を。東京優れもの探索委員会とか名付けてさ(笑)。そしたらないんだよ。東京にはコールマンとか売ってないんだよ。そんな風に東京を探索してるうちに、ティムコっていう釣り道具屋があったの。今あるスポーツトレインの場所に。そこの女の子の店員が、そこを売りに出してるって話をしてるから、じゃ、居抜きで釣り道具屋をやろうかなって思って、銀行で金を借りて始めたわけよ。そのときに釣り道具のカタログを見るようになって。そこで気付く。東京中いろんな店を探索しているなかで、神田の古本屋も必ず寄っていたんだけど、その中にエディーバウアーのカタログがあって、ページをめくってたら、一番最後にオーダーシートがあるわけ。そこには軍の奴らの名前とか所属とか書いてあって、彼らが古本屋に出してたカタログだよね。それを思い出してカタログを引っ張り出してきて、オーダーしてみたんだよ、エディーバウアーを。親父が使ってたレミントンのタイプライターですよ。へミングウェイが使ってたやつと同じ。バッチンバッチンと打って、貿易英語の基礎知識なんか読みながらさ。それでを送ったら、本当に届いたんだよ。当時は国際郵便局に届くから取りに行くんだけど、そしたら驚いたよ。エディーバウアーのロゴ、あの鳥が飛んでるマークが段ボールに印刷されているわけ。そんなの日本にないんだよ。オシャレなんですよ、それが。感動しちゃってさ。

カタログを使って輸入するって手法で始めるんですね。エディーバウアーというと有名なのはダウンのアウターとかですよね?

そっか。今の人はエディーバウアーっていうと洋服のイメージかもしれないけど、当時エディーバウアーは道具が8割で洋服は2割くらいの感じで展開していたんだよね。ブローニングっていう鉄砲屋が作ってるワークブーツとかさ、ナイフとかいろいろ取り揃えていたから、道具屋のイメージの方が強い。そのときは洋服なんて1枚も買ってないしね。とりあえず、エディーバウアーが届いたもんだからさ、俺が世界一周で買い集めたものを、みんなが欲しがってるのも知っていたし、俺輸入できるんだけどいる?みたいな感じで、釣り道具屋から、アウトドア全般のアイテムを展開し始めるんだよ。ただ、当時はすぐにみ・せ・し・め・のためと張り紙をして、釣りとかキャンプばっか行ってたよね(笑)。アメリカで買い集めた道具とか、輸入したものとか使いたくて使いたくてしょうがないんだもん(笑)。釣りもさ、フライフィッシングだと日本の渓流みたいな狭いところじゃ、できないんだよね。それでも、とにかく道具を使いたいからさ。ゲームフィッシングでイワナとかヤマナとかを狙うわけ。イワナは獰猛でなんでも食いつく習性があるんだけど、それでも中々釣れない。ただ楽しかった、道具を使うのが。俺は絶対キャッチ&イートだから、たまに釣れたのを調理するのも楽しいし、食べても旨いしね。それでそのまま一泊キャンプ。そのうち、魚は買って行けばいいかってなって(笑)、キャンプ一辺倒になっていくんだよね。

なるほど。スポーツトレインはオープンから、すぐに成功するのですか?

いやいや1年目は全く売れなくて。なんせアウトドア・イクイップメントって看板掲げていたけど、みんなアウトドアって何?って感じだから。当時釣具店とか、スポーツ用品店はあったけど、アウトドアショップなんてないし、そもそもアウトドアって言葉自体がなかったわけだからさ。2年目もほとんど売れなかったんだけど、オープン当初から平凡企画センター、現マガジンハウスの木滑良久さんとか石川次郎さんとかが、良く来てたんだよ。それで2人に誘われて74年の真夏に『スキーライフ』って本を作ることになる。アメリカに、ノルディックスキーとかスケートボードとかを取材に行ってページを作ったりして。後の『ポパイ』に繋がる雑誌だよね。そこで編集を覚えるんだけど、ページを作る時も写るもの全部をコーディネートするのが俺のやり方で、例えば自転車があってスキーがあったら、スキー板を自転車に括り付けるにはどうすれば良いか、それにはどんな道具が必要で、どんな洋服が良いかってことを想像して、取り揃えてページを作ってた。お店の商品構成と似てるよね。キャンプに行くにはどんな道具が必要で、どんな洋服でってやってるわけだから。その『スキーライフ』が出てから、お店のものが動くようになってく。そして76年に『ポパイ』が創刊されてからは、俺も記事を書いてたし、取材もたくさん受けていたから、飛ぶように売れたよね。

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スポーツトレインのオリジナルアイテムのアイコン、3ウェイバッグ。この日はキャンプに行っていた道具がそのままバッグに。写真右上から覗くのは吹き矢。

例えばどんな洋服が売れていくんですか?

カナダのおばあちゃんが作ってるカウチンニットが売れた時は大変だったよ。当時カシミアのニットが4万円くらいで売られている時代に、5万5千円で売ってたんだから。かなり高いけど売れたよね。レジが溢れかえるくらいで、毎日レジを閉める時に1万円くらい計算が合わないんだけど、ある時、レジの奥を掃除しようとしたら、大量の1万円札がオイルまみれで出てきて。それくらい売れていたんだよね。あとは、ダウンベストね、オービスってブランドの。最初は俺がダウンベストを着て六本木に遊びに行ったら、「船で来たの?」とか「どうしたの、救命胴衣なんて着て」とか言われてたんだから。誰もそんなの着てないからさ、「バカやろう、暖かいんだよ」なんて言ってたりしてたのにさ、カウチンに負けず劣らず売れたよね。

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油井氏が手がけていた連載にてレッドウィング、コールマンについて書いた記事より。

レッドウィングやLLビーンも日本で最初に展開したのはスポーツトレインですよね?

そうだね。レッドウィングには手紙を出したんだよ。アウトドア系の『フィルド・アンド・ストリームス』とか『ボーイズライフ』とかアメリカの雑誌に乗ってる広告を見て。ただレッドウィングは売れなかったね。値段も高いし、『ポパイ』でも白い靴下は色が映るからNGなんて書いたからな、自分で。LLビーンはカタログで注文してさ。フィールドコートとトートバッグと、メインハンティングシューズ。この3つだよね。ただLLビーンは姿勢も好きだったな。道具好きとしては、物の善し悪しが重要だから、ブランドの看板なんてどうでも良いんだけど、ビーンだけは別で。24時間365日困ってる人がいたら、いつでも修理しますっていう姿勢が好き。創業者のレオン・L・ビーン自身が、メインハンティングシューズを自分のために作ったんだけど、それを履いていたら、友達のハンターが欲しがるから注文をとって販売したんだけど、靴なんて、そう一人一人にピッタリ合うものなんてないじゃない。履いてもらってて、なんかあったら治すよっていう意味で、24時間365日いつでもどうぞって店を構えてる。いいね、カッコイイねって思って俺も行くんだよ、わざと夜中に。そしたら本当に明かりが点いててさ。カッコイイなっ、ビーンのじいさんって。商売じゃないよね。アウトドアが趣味の人が始めているブランドだから、キャンプで困った経験がある人がやっているわけで、きっと同じような原因で他の人も困るだろうから、それを手助けしたいってお店をやる。その考え方がプロフェッショナルだと思うんだよね。真っ当だと思う。ショップの店構えもカッコ良くてさ。夏は釣りに行くため、冬はハンティングに行くための、川とか海とか山の入り口にあるんだよ。都会の中に自然の入り口があるようなイメージの店。スポーツトレインを大きくするんなら、そういう店にしたいなって思ったな。

確かにすごくカッコイイですね。

あと、LLビーンでもう一個カッコイイエピソードがあるんだけど、そのうち日本でもLLビーンの代理店ができるって話があがったとき、お前がずっとやってたんだから、どうせならやらないかって誘ってくれるんだよ。そういうのも嬉しいよね。だけど、俺はその契約のテーブルにはつかなかったな。なにせ、ビーンが扱ってるアイテムが、全部良いかというとそれは別だから。俺は本当にフィールドコートとトートバッグと、メインハンティングシューズ。この3つだけが欲しいわけだからさ。代理店契約で向こうが求める、年間のグロスで何でもかんでも扱うことが、やりたいわけじゃないからね。ただ、結局日本に代理店ができても、俺の店だけはこの3点のアイテムを扱い続けられるようにしてくれたんだよ。そういう心意気もカッコイイなって。

そんな風にLLビーンとの関係をしっかり築いていく中で、70年代後半、さらに好調で売れていくんですよね。

うん。街中ではアウトドアの格好の人も増えてきて、リュックにマウンテンパーカにチノパンみたいな。だけど本当のアウトドアのブームが来るのは80年代に入ってからだよね。77年くらいに小林泰彦さんが『ヘビーデューティーの本』を出版したりして、シーンは確立されていくんだけど、本当のブームは、俺らの年代の人が子供ができてからで、それまでディスコでサタデーナイトフィーバーしていた連中なんかも子供とどこ行くのってなったとき、みんなキャンプに行くようになる。それが本格的なブーム。それまではゴルフファッションみたいな俺の趣味じゃない感じの人が結構いたよね。だから、そのシーンの先人的な扱いで良く取材を受けていたな。なにせ、こっちは78年頃からランクルに子供とラブラドール・リトリバーを乗せてってやってたから。トラックに乗ってるのも俺くらいだったし、家が代々木上原だから原宿を通って麻布と行き来してて目立ってたんだろうしね。その反面、お店も安定しているし、従業員も増えてきて、コールマンとか企業もできてきて、お店をやることに飽きてきちゃって、その後数年間、本屋にしちゃうんだよ。スポーツトレインブックスっていうカタログ専門店。コンセプトは世界中のものが何でも買える店。今でいうとインターネットみたいなことだよね。そしたら『ウォールストリートジャーナル』が1面で取り上げてくれたりしてびっくりしたよね。その後は俳優。黒澤映画のオーディションを新聞で見つけて応募したら受かっちゃって。映画の撮影現場にも大分アウトドアを持ち込んだよ。映画監督が座ってるイメージがあるようなパラマウントチェアなんかは象徴的かもね。

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『24 -TWENTY FOUR-』のジャックバウアーでお馴染みの俳優、キーファー・サザーランドとの1枚。

同時にスポーツトレインを、ずっとやっていくわけですね。そんな中、ショップをやる上でどのようなショップが理想だと、今思いますか?

お店を始めた時は新しくて面白いものにドンドン出会うわけだし、男の仕事は人に頼まれて手伝うのが日本の本来の仕事だと思ってるから。みんなが欲しがるから、それに答えるのが楽しくてやってたんだけど、あとになって気付くんだよ。お店に来てくれる常連さんが、みんな友だちになってるって。それは今でも変わらない友だち。だから、同じ趣味の人が自然と集まるのがショップで、同時に友だちを作る場所だと思うんだよ。自分が好きなものを、同じように好きだって言ってくれる人が集まる。それって素晴らしいことだなって。だから、俺が考える真っ当なお店っていうのは、例えば、お店に立っている店長が一生変わらないとか、その店長が本当にやりたいことで商売するとか。俺はそういうお店にするべきだと思うかな。スポーツトレインは少なからず、そういう自覚でやってきてるよね。

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麻布にあるスポーツトレイン。

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今でもキャンプに行かれてますが、道具を使う楽しみやアウトドアを通じて、どのようなものが得られるのでしょうか?

キャンプに行って夜焚き火をしていると、その火だけしか明かりがないから、自分を隔てて後ろは真っ暗闇。そうすると闇と自分が一体になっている感じがして、自分が宇宙の一部だと実感できる。つまり宇宙の原理みたいなことを考えるんだよ。自分の意思とは関係なく心臓も動いてるし、息もしているのが自然なことだと。自分が生きている、存在していることは、俺の力や意思だけで生きている訳じゃ決してなくて、あくまで宇宙や自然の摂理の一部であることが感じられる。つまり、勝手に心臓が動いて、存在していることだけで本来は充分なんだって思えるんだよね。あとは夕陽評論家っていう肩書きも持っているんだけど、31歳のときに、ニューヨークのグラマーシーパークホテルに泊まったとき、日本語を話すのが好きな外国人から電話がかかってきて、バッテリーパークっていう夕陽が綺麗に見える場所があるんだけど、雨だけど夕陽が見えるから行かないかって誘われて、そこで日本語を話すことが好きな外国人が別れ際に、「あとでね」って片言の日本語で言うんだよ。そのとき気づいたんだよ。あとで会う、つまり未来のことはあとなんだと。今が一番最先端で、未来は先じゃなくて、あとからやってくるんだって。だから、今、この瞬間瞬間こそがすべてなんだって。今この瞬間を、こうしている間を丁寧に味わおうって。明日のことや、これから起こるだろう不安や悩みで頭がいっぱいになるのは違うだろって思ったんだよ。確かに本当にショックな出来事があっても、いずれ忘れたかのようになる、虚しいほど。どうせ過去のことは忘れていくわけだからこそ、今の一瞬一瞬を大切に生き味わないともったいないよとも思うよね。

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右はベスト&トートバッグにもなるレザーのアイテム。左上は常に持ち歩いているカメラとジッポ付きベルト。左下はバックに収納されていた救急具など。

キャンプなどを通じて、哲学的な考え方を持つようになるのですね。

そうなんだよね。さらに言うと人間が自我を確立するという発想はあってもいいんだけど、それがないと人間として認められないっていう風潮が違うんだよね。つまり、自分がこうなりたい、こうでありたい、こうしたいって思うのは良いんだけど、期待や不安で縛られすぎてしまうと今を生きれなくなっちゃうよね。そういうことに誰しも左右されちゃうんだけど、そこで大事なのが、サバイバルの第一義的な意味。まるでそこで生まれ育ったかのような態度でいられる精神状態であり続けられる強さだよ。森の焚き火の前でも、銀座のクラブで素晴らしく綺麗なおねえちゃんに会っても、同じ心持ちでいられる、まるでそこで育ったかのような心持ちでいられるような人間になるってことだよね。そういう心持ちであれたら、自我とか不安から解放できて、今をしっかりと生きることに繋げられると思うんだ。それをアウトドアで学んだし、俺の場合は、そういう心持ちでいるために、それを道具に委ねている部分も大いにあるんだよね。

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油井氏が常に常備しているという、十徳ナイフやジッポなど。

道具に委ねるというのは具体的にどういうことですか?

俺はファッションは娯楽、機能、生き様の投影、私はこういうものでありますっていう表明だとも思っているけど、同時に人間の1番外側にある皮膚って考えているわけ。だから一義的な意味は体を守るってことだと捉えていて。そこは徹してるよね。アウトドアもヘビーデューティーであることも基礎だよね。都会だろうが、いつもそういう格好をしている。道具もずっと何十年も身につけているものがあって、いつ使う状況か来るかわからないけど毎日持っているのが、ジッポや十徳ナイフ。自分の体ひとつじゃ、どうにもならないことが起きても、道具があれば対応できるという意味で委ねているということだよね。もちろん自分もそうだけど、人を助けることができるかもしれないからね。人それぞれなんでも良いと思うけど、年を重ねるにつれて、道具が知恵という形に変わってきても良いだろうし、自分が今をしっかり楽しめる心持ちを持てたら道具なんていらないだろうし。俺の場合はアウトドアを通じて、自我に捕らわれすぎず、今を噛み締めて生きる。そのために何があっても動じない心持ちを持って生きれるようになれてるから、道具のおかげで随分気楽に生かさせてもらってるって実感があるよね。

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海外に行くごとに常に買い足しているというハットと、トニーラマのブーツ。

油井昌由樹

1947年神奈川県生まれ。72年にスポーツトレインをオープン。LLビーンやレッドウィングなどを初めて輸入し広めることで、日本にアウトドアという概念を定着させる。その後ヘビーデューティーというスタイルや、現代ても定番とされるメンズスタイルの礎を築くことに大きく貢献。編集者としても『スキーライフ』、『メイドインUSAカタログ』、『ポパイ』などでも活躍。また、俳優としても、黒澤明監督の『影武者』をはじめ、多くの作品に出演するなど多彩な顔を持つ。