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【対談】米原康正×小橋賢児、90年代の裏原ブームを本音で振り返る

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第6回「スナックよね。」開催! テーマは「ストリートカルチャーの黄金時代'90sの原宿」

編集者・フォトグラファーの米原康正さんが様々なゲストを迎え、原宿のストリートカルチャーをひも解くトークイベント「スナックよね。」。第6回のテーマは「ストリートカルチャーの黄金時代'90sの原宿」。ゲストは当時から数々のドラマや映画、舞台に出演し、現在はDJや映画監督、音楽イベントプロデューサーとしてマルチに活躍している小橋賢児さん。2人が振り返る、裏原ブーム全盛期の原宿とは?


"裏原カルチャー"、"藤原ヒロシ"が登場した90年代

米原「今日のゲストは小橋賢児さんです。小橋さんの原宿デビューはいつ頃だったの?」

小橋「小さい頃に親と一緒に行ったことはあったんですけど、通うようになったのは中学2年生のときです。原宿でバイトをしていたんですよね。実は僕のうち、当時借金を抱えていてすごく貧乏で」

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米原康正さん(左)と小橋賢児さん(右)


米原「そうだったんだ。当時はどこらへんに住んでいたの?」

小橋「大田区です。中学生になると、オシャレがしたいって思うようになるじゃないですか。でも僕の家は全然お金なかったんで、周りの友達みたいに好きな服とか買ってもらえなくて。好きなものを買いたいから、最初は新聞配達のバイトを始めたんです」

米原「そこから何で原宿に?」

小橋「早起きして新聞配達って、学校で悪ぶってる自分のキャラに合わないと思ってて(笑)。当時表参道口の前にテント村っていう広場があったんですけど、折り畳み式のテントが沢山並んでいて、そこでシルバーアクセサリーやTシャツ、芸能人のプロマイドとかクレープが売られていたんですよね。そこ行ったときに、たまたま『バイト募集』って書いてあるのを見つけて。しつこく頼み込んだら、シルバーアクセサリ―を袋に詰める内職をやらせてもらえることになりました。そのうち店頭で呼び込みもするようになって、原宿デビューしたんです」

米原「俺の渋谷デビューもね、109ができたときに、地下1階にシルバーアクセサリーの店があってさ。オーナーの人がポルノショップもやってたから、そこでシルバーアクセサリーとポルノ本の整理をするバイトをしてたのが、始まりだったよ」

小橋「そうなんですか! 渋谷といえば、原宿デビューした当時、僕はよく渋谷にも行ってたんですよ。そしたら渋谷で出会ったある先輩が、ナイキのダンクを履いていて」

米原「当時はデッドスニーカーブームっていって、エアジョーダン1とかの、古いスニーカーのデッドストック(売れ残り)に20とか30万の高値が付く時代だったよね」

小橋「その先輩は中1のときから、そういうのを海外に買い付けしに行ってるような人だったんですよ。僕はその人に古着のことも教えてもらったし、すごく影響を受けました。当時オールドスケーターの格好が流行っていたんで、エアウォークとかヴィジョンのデットストックが眠っているって話を聞いて、デカいカバンを背負って韓国に1人で買い付けに行くようにもなった。それを日本の業者に卸したりとか、僕も中学生でやるようになったんです」

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米原「それは何年頃?」

小橋「92、3年ですね。あとは代々木公園でフリマやったりとか。今の渋谷ヒカリエのところ、東急文化会館っていうのが昔あったんですけど、屋上がフリマの会場だったので、そこでも古着とかスニーカーをトレードしたり売ったりしてました」

米原「その当時はまだ全然、裏原っていうものはなかったんだもんね」

小橋「僕が裏原っていう言葉を聞いたのは、15、6歳になってからでしたね。噂では、Tシャツを買うのにめっちゃ並んでる人たちがいるってことは知ってたんですけど。でも僕ら東京生まれの人の感覚からすると、当時は『なんでTシャツにそんな並ぶんだよ、キモッ!』って思ってました(笑)。最初はね、まだ今みんながイメージするような、オシャレな裏原っていう感じじゃなかったんです」

米原「そう、全然違ったんだよね。裏原カルチャーは93年くらいに始まったんだけど、最初は本当に小さいコミュニティで。みんなが知り始めたのは95年くらいかな」

小橋「80年代はDCブランドブームっていって、高級ブランドが青山に沢山並んでいたんですけど、バブルが弾けてから、そういう店がどんどん消えて、原宿の家賃がすっごく下がった。原宿はもう表通りさえも人通りがなくなって、裏通りの家賃なんかは、学生上がりの人たちでも、ちょっと頑張ればお店を出せるくらいになったんです。こういう時代の流れの中で、自然発生したのが裏原だったんだと思いますよ」

米原「あとは、その頃みんなロンドンナイトに集まってたよね。ロンドンナイトは行ってなかった?」

小橋「僕はまだ行ってなかったですね」

米原「新宿のツバキハウスっていうクラブで、大貫憲章さんが、ロンドンナイトっていうイベントを始めたの。そこで大貫さんの助手をしていたビリー北村っていう人がいたんだけど。その人が『BILLY』っていうファッションブランドを立ち上げて。俺はそれが、裏原的な文化の始まりだったと思うんだよね」

小橋「僕は直接行ったことはないけれど、まさにそのロンドンナイトなしには、(藤原)ヒロシくんっていう文化はなかったと思ってます。ヒロシくんは、そのロンドンナイトのファッション・コンテストで優勝して、賞品としてロンドン旅行に行き、そこでヴィヴィアン・ウエストウッドやマルコム・マクラーレンと出会った。当時のパンクの精神やファッションを現地で学んだんですよ」

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KENJI KOHASHI。1979年生まれ。東京都出身。8歳で芸能界デビューし、数々のドラマや映画、舞台に出演。岩井俊二監督の映画『スワロウテイルバタフライ』や『ちゅらさん』など次々と話題作に出演し人気を博した。2007年、可能性を広げるため俳優活動を休業し渡米。帰国後はPV監督やDJ、イベントプロデューサーなど、俳優の枠を超えマルチに活躍中。

二十歳そこそこの若者が1人1ブランド立ち上げているのが当たり前だった

米原「そして彼は、帰りにニューヨークにも寄るんだよね」

小橋「ヒロシくんはそこでヒップホップというものも学び、日本に戻ってきて、ロンドンのパンクファッションに、そういったストリートをミクスチャーしたんです。そのファッションは海外の人々にも衝撃を与えたし、当時『宝島』を読んでいた、まだ田舎に住んでいた頃のNIGO®くんにとっても、衝撃だったらしいです」

米原「そうそう、当時『宝島』っていう雑誌は、そういった方面でものすごく影響力があったんだよね。田舎の人の頭の中では、『東京はこういうものなんだ』っていうイメージが、その雑誌を元につくられていた。僕は後にそれを反省して『egg』創るんだけどさ。『CUTiE』とかも、あえて本当の東京人ではない人を紙面でピックアップするんだよ」

小橋「逆にメインカルチャーを拾って、これがカッコイイ! って推してる雑誌はなかった気がします」

米原「きっとメディアの人たちにはカウンターカルチャーの要素があったから、ついついそっちばかりにフォーカスして、いいって言っちゃうんだよね。そして田舎の読者たちはそれを見て、『やっぱり東京はこうじゃなきゃ!』って思い込む。でもいざ張り切ってすごい恰好で東京に出て来ると、自分しかそんな格好していない、ってことが起こるんだよ」

小橋「そうっすね(笑)」

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YASUMASA YONEHARA。編集者、クリエイティブディレクター、フォトグラファー、DJ。世界で唯一チェキをメイン機材とするアーティストとして、雑誌、CDジャケット、ファッションカタログなどで幅広く活躍。中華圏での人気も高く、中国版Twitterである「新浪微博」でのフォロワーは250万人超

米原「だけど、その状況を田舎の人は『なんだ東京なんて大したことないな』って解釈するわけ。自分が頑張っちゃった分だけ実際の東京を下げて、『もしかして、東京は俺なんじゃない?』って思うの。そうすると、その自信に満ちた姿を見た別の田舎の人は、『あの人目立っててカッコイイ!』って、感じるわけよ。そうやってどんどん、東京を舞台にして、田舎の人が田舎の人に憧れていく劇場が出来上がる。あ、僕も田舎出身の側だから、決してそれを馬鹿にしているわけではないよ」

小橋「本当にそうだと思いますよ。今も原宿の前衛的なファッションを牽引してる人たちの中には、地方出身の人が多いと思うし。裏原ブームが起きた当時、僕は自分が出遅れたって感じたんですよ。東京生まれの自分は地元の人たちと、それなりに世界のファッションを取り入れてイケてるつもりだったんですけど、裏原の人たちの方がモノの掘り下げ方が上手かった。気づいたら、真面目なオタクにファッションで抜かされてたっていう感じ。絶対に、当時そう思った東京の人はいっぱいいたと思います」

米原「俺が80年代から『宝島』に関わってて思ってたのは、あの雑誌に出てる少年少女たちは、絶対にモテないだろうなってことなんだよね。でも何年か経つと、その人たちがいいって言ってたものが、メインカルチャーに拾われていくの。ただし原型の人たちはモテないままで、それをマネしたメインカルチャーの人たちがモテだすんだけどね。だから俺は、『これはわざと遅れた方がいいのかな?』って解釈してた。モテるってことを基準に考えてたから」

小橋「当時は、仲間と手作りで始めたようなものが、どんどん友達を介して、ときに芸能人も介して、大きなムーブメントになっていくような時代。20歳そこそこの若者が、1人1ブランドくらい持ってたんですよ。信じられないと思うけど、Tシャツブランドはやってて当たり前。だから23歳くらいでいきなり巨額の富を持っちゃった人たちもいました。裏原がバブルになったときはヤバかったですよ。みんなパーティーなんかもやってた」

米原「だいたいみんな、年商3億くらいまでいくんだよね。最近、その頃買った商品を値札がついた状態で見つけてびっくりした。普通の小さい財布が5,000円だよ。今見たら、『smart』の付録とかにありそうなやつ。これが5,000円で売れてたなんて、バブル以外のなにものでもないよね」

小橋「バブルを超えて崩壊してしまう人もいたし、のめり込んで狂っていっちゃうような人もいた。裏原でいろんな人間模様がどんどん生まれていった時代でしたね」

米原「うん、いろんな人を見たね。今はほとんどのブランドがなくなっちゃったけど。でも当時は、その3億をいかに5億にするかとか、5億を30億にするかとか、そんな話ばっかり、みんなしてたもんね」

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キムタクのCMでAPEが大ブレイク。NIGO®はファレル・ウィリアムスの先生

小橋「してましたね。僕はちょうどその流れが始まる頃、中3でKinKi Kids主演の『人間・失格〜たとえばぼくが死んだら』っていうドラマに出て。社会現象になるくらい視聴率が上がって、いきなり1日に段ボール箱2箱くらいのファンレターが届くようになったんです」

米原「1日に? まじで?」

小橋 「そうなんですよ。だからテント村でバイトしてたら、気づかれるようになっちゃって。テント村にはアイドルのプロマイドとかも売られてたんですけど、気づいたら僕のプロマイドもそこに並んでたりしました。竹下通りを歩いたら200人くらいに囲まれて、ダッシュで逃げるような状態で。結局15,6歳で、原宿にあんまり行かなくなったんです」

米原「そうなんだ。じゃあNIGO®くんたちに出会ったのは原宿じゃないの?」

小橋「そうなんですよ。僕はDJも好きだったんで、クラブとかにも行くようになったんですけど。その頃APEがどんどん流行ってきて、NIGO®くんたちも、クラブでパーティーとかしてたんです。だからそいういう場所に行くようになってから、出会ったんですよ」

米原「会う前から、もともと存在は知ってたんだよね」

小橋「はい。でも僕は天邪鬼だから、みんなが話題にしてると『APEなんて』って思ってたんです。なのに、実際にNIGO®くんと出会ったら、毎日一緒にいるようになっちゃった。APEがどんどん海外進出して、彼が初めて六本木ヒルズの上にアトリエ構えたときも、一緒に夕日を見たのは僕です(笑)」

米原「すごいね。確かスタイリストの野口強くんが、CMでキムタクにAPEのカモのジャケットを着せたくらいから、一気にAPEが大ブレイクし始めたんだよね」

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小橋「NIGO®くんに付いて海外に行ったとき、僕もインタビューとかしてたんですけど、ジェイ・Zとかファレル・ウィリアムスは、NIGO®くんを先生だと思ってたんですよ。特にどの部分に対してかっていうと、『ディスプレイ』なんだそう。どう配置するかの天才だって。これってすごく、日本人の得意なところだと思うんですよね。日本の文化って、『間』のとり方、置き方を大事にするじゃないですか」

米原「なるほど」

小橋「貪欲にアメリカやヨーロッパの文化を学んで、それをどう調和して、どう配置するのか、その能力にものすごく長けていたのがNIGO®くんだと思うんです」

米原「ヒロシくんがパンクとストリートを組み合わせたのもそうだよね。『これにこれを合わせるのか!』っていう驚きの発想は、1つの文化だけを見ていた人には、思いつかない」

小橋「でも裏原のムーブメントが過ぎた後は、日本発信にこだわりすぎて、世界のファッションをみんなが見なくなった気がしますね。今はまた若い子たちが、世界のものを取り入れ始めてますけど」

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米原「昔はさ、世界のファッションを取り入れて、それを自分たちなりに編集して、もう一度世に出すってことをしてたでしょ。でも今は、そのまんまを真似してるだけな気がする。編集してないの」

小橋「日本にいても、いろんな国の情報に触れられる時代なんですけどね。いろんなものを見た上で、自分たちだったらどうアウトプットするかっていうのが、本当のオリジナルだと思います。むしろそれって、日本人の得意なところなのに、もったいない」

米原「アメ車を真似していたら、いつの間にか日本車が越しちゃったっていうのも、そういう力だったのにね。K-POPファッションも今は、そのまんま真似してるだけじゃん。本物を越してないどころか、それよりも低いところにいる。そういうのは悲しいね」

小橋「90年代ってそういう意味でいうと、裏原の時代ともいわれているけど、スタイリストの時代だったんじゃないかな。スタイリストって、既にある服で、いろんな編集をするじゃないですか。当時は有名なスタイリストのコーディネイトが、ばんばん売れていくような時代だった。コーディネイトを提案するっていう意味では、ファッション雑誌もそうでしたよね」

米原「レディースでも、2000年代中頃まではそういう時代だったんだけどね。スタイリストが重要っていう、そういう価値観が、今はあんまりなくなったのかも」

小橋「今はSNSで個人が自分たちの服を世界に発信できるような時代だから、有名なスタイリストがどうこうよりも、近い存在の人がどんな恰好をしているかの方が、リアリティがあって重要なんですよね。そういう時代だからこそ、いろんな文化に触れて、自分の振り幅を広げていった方が、面白いものを作れると思うんだけどなぁ」

米原「そうだね。ということでみなさん、これからも『スナックよね。』に来て、自分の知らないカルチャーを勉強してね(笑)。小橋さん、今日はありがとうございました!」

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以上、裏原ブームをリアルタイムで体験していた2人のトークショーレポートでした。懐かしく感じたり、羨ましく感じたり、意外に感じたり...世代によって受け取り方が違ったのでは? OMOHARAREALは今後も「スナックよね。」を追っていきますので、乞う期待!!

Text:ORCA
Photo:Mizuki Aragaki

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