3年後に法人設立120年を迎える専門商社のモリリン。そのルーツは江戸時代までさかのぼる文字通りの老舗企業だ。長い歴史の中であくまでも繊維を主力事業として成長してきた。「本業を大切にすることが代々の経営者に引き継がれてきた」と語る8代目社長の森正志。災害や戦争、世界不況などの苦難を何度も乗り越えて発展してきた。「理解できない事業分野には手を出さないことで大きな失敗もなかった」と堅実な企業体質を語る。120年企業がどのようにつくり上げられたのか、ひも解く旅に出かけたい。
■綿と糸の仲買が第一歩
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森家に伝わる記録によると、織田信長の家臣だった森八郎右衛門の子孫が郷里の尾張の国、現在の一宮市に戻り、その子孫の平兵衛が農業の傍ら、綿作りを手掛けた。その後、三代目林右衛門が兼業としてきた米穀商から綿と糸の仲買に専念し、モリリンの歴史の第一歩となった。
天保の凶作(1833~1837年)で綿生産が深刻な不作に陥り、それに伴って価格が高騰した時、糸不足を解消するために古布団のわたを抜き出して糸にするところが増え、それに必要な轆轤(ろくろ)の販売に乗り出した。一宮は優秀な轆轤の産地で、林右衛門が目を付けた轆轤販売は好成績を収め、さらに綿や糸の価格高騰の恩恵もあり、商売の基盤を確立した。轆轤はその後、外国産の綿糸が大量に流入したため国内の綿作が衰退していくにつれ姿を消していったが、製造技術は尾西の繊維工業の発展に寄与した。
5代目の明治初期に至り、飛躍的に発展した。背景には綿糸紡績業界が機械紡績へと脱皮し始め、従来の手紡の地糸や輸入綿糸に加え、近代的な工場で生産された綿糸の扱いを始めたことがある。特産の手織り縞を買い集めて他県へ卸売りする仕事にも手を広げた。鉄道がまだない時代、重い荷物を担いで得意先を回る地道な努力と、糸屋に加えて縞屋を兼ね、商売は順調に伸びていった。
1881年(明治14年)の「松方デフレ」で売掛金の大量焦げ付きと手持ち在庫品の価格暴落に見舞われる。しかし、物価下落はいつまでも続かないと読み、持てる限りの資金を投じて織物を買い集めた。これが的中し、1年後には赤字を埋め、大きな利益を得た。濃尾大地震(1891年10月28日)の災難を乗り越え、日清戦争後の好景気にも乗った。
積極的な市場開拓で関東から東北地方にも新しい得意先が数多くできた。尾州縞、中でも佐織縞が好評で、先染めの木綿糸に薄いのりを引いて織った畝の丈夫さを特徴とした。この過程で従業員も急速に増加し、個人経営から企業経営になっていく。
■染め糸販売に乗り出す
1903年(明治36年)3月25日、合名会社森林商店が誕生する。東京支店の開設や業容拡大に伴う移転、東京周辺の機業産地のほか、桐生・足利・館林などからの仕入れ、販売先も関東一円から東北、北海道、関西へと拡大した。後の主力商品となる染め糸の販売にも乗り出し、1907年には売上高の7割を占めるまでになった。糸商への転換である。
第1次世界大戦による好景気の中で、ロシアからシルケット加工糸の大量の受注が来た。しかし2月革命が起こったロシアは混乱を極めた。現地の状況を実際に見てロシア向け輸出の中止を決めたことで多額の損害が予想されたが、返品を含めた在庫処分をうまく行い、想定外の利益をあげた。
入れ替わるように香港や広東、天津、南洋諸島向けの輸出が伸び始めた。戦後、綿紡の多くが天津や上海、青島などに進出するなか、モリリン(当時は森林商店)は遼陽の商社を通じシルケット糸の取引を始めた。その後商社とのトラブルから自社の営業拠点を置くことになり、1918年(大正7年)、奉天に森林洋行を設立した。「鳩美人標」のシルケット糸が他の競合品を抑え、現地のユーザーに浸透するなど南満州に根を下ろした海外事業は、満州事変や上海事変で引き上げを余儀なくされるまで大きく展開した。
1920年(大正9年)3月15日、株式市場が大暴落し、4月になると商品市場も暴落、繊維業界始まって以来最大とされた混乱で大阪支店が多額の損失を出した。本店の援助で非常事態を乗り切ったが、以後相場によって大きく左右される商売から撤退し、本来の加工糸専門の業態に戻り堅実な商売を続け、漁網用撚糸にも活路を見いだしていった。漁網用撚糸の販売はその後順調に伸び、国内ばかりでなく満州、関東州、フィリピン、シンガポールへと拡大していった。
恐慌、そして関東大震災(1923年9月1日)で東京支店が消失し商品も全て灰になった。その後、日本の織物は為替相場の低落を背景にして輸出に活路を見いだし、中国以外のアジアやアフリカ、南米、中近東へと広がる。染め糸から縫い糸まで、ほとんど綿糸の販売一筋だったが、毛糸にも着手、新たな主要商品に育っていく。撚糸工場や紡績工場、海外での生産事業などを広げるが、第2次大戦によって多くが無に帰してしまう。(敬称略)
モリリン
2020年2月期の売上高は990億円。商品別では原糸・原綿が95億円(構成比9.6%)、テキスタイルが57億円(5.8%)、アパレル製品534億円(53.9%)、リビング製品185億円(18.7%)、資材113億円(11.5%)など。独自の素材開発、それを軸にした製品への展開に力を入れている。120周年に向けて、2021年度(2022年2月期)を初年度とする中期経営計画を実施する。コロナ禍で縮むファッション市場、その一方で新たに需要が膨らむ市場の創出や開拓に向けた対応を急ぎ、赤字事業の撤退や見直しを大胆に進めながら、厳しい経営環境下での戦略を全社で策定中だ。
(繊研新聞本紙20年10月26日付)
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