

ラグジュアリーブランドの海外支社で働く――。そんな憧れを実際に叶えた、日本人男性・野﨑健太郎さん(ペンネーム)が綴るコラムです。日本人がグローバルで働く上で知っておきたいこと、海外のマーケット動向、キャリアアップしていくためのヒントとは……?これまでたくさんの挑戦と成功を重ねてきた野﨑さんだからこその視点や気づき、エピソードなどを交えながらお届けします!
日本の6月といえば梅雨。アジサイや春に芽吹いた新緑が、雨に濡れて一層美しく見える季節です。4月から新たに仕事を始めた方にとっては、2か月の学びを少しずつ実践で試すタイミングかもしれませんね。今回は、前回のVol.6の続きをお伝えしたいと思います。
時給800円の販売アルバイトからスタートした私のキャリアは、約9年後にオフィスのマネージャーになり、年収約1000万に到達することができました。その約7年後に海外へ飛び出し、現在は、シンガポールオフィスでシニアマネージャーを務めています。
円安や低税率、現地の給与水準といった背景もあり、収入面をさらにアップさせることができました。そして何より「海外で働く」という貴重な経験をしながら、自分の理想に近い環境で仕事をすることができています。今回はこのような理想のポジションをどのようにして得ることができたのか、詳しくお話させていただきたいと思います。
リージョナルマネージャーとしての挑戦
2015年1月、わたしは今も働いているヨーロッパ系ラグジュアリーブランドの東京オフィスで働き始めました。最初の1年目は会社で最も恐れられている“鬼上司”の下につき、毎日のように叱られる日々を過ごしていました。無理難題や無茶な命令にもなんとか対応し、乗り越えることができました。
後になってその“鬼上司”から聞いたのは、「店舗出身者はオフィスのメンバーから舐められるから、それに負けないように鍛えてあげたんだよ」という言葉。それを聞いたときは、この上ない感謝の気持ちが湧きましたが、「もう少し優しく教えて欲しかったなあ」とも思いました(笑)。
確かに、「店舗で売上をつくる仕事」と「オフィスで売上を作る仕事」には、大きな違いがあります。オフィスでは、コンサル出身のメンバーとディスカッションする機会も多く、最初はそのレベル感に圧倒される人もいるかもしれません。でも店舗を経験している人は、彼らにはない店舗の知識と経験を持っているので、あくまでもその視線で発言をしていけばよいのです。無理に彼らと同じような難しい言葉やロジックを使う必要はありません。リテールでは店舗が最も大切な場所であり、それを知っていることは、大きな武器になります。
2年目のジレンマと大きな決断
2016年、その鬼上司が会社を離れることになりました。悲しいような、解放されたような何とも言えない気持ちでした。担当していたカテゴリーが大幅にリニューアルし、会社の注目を集めるようなイベントを開催するようになり、鬼上司がいなくても毎日遅くまで残業するほど業務が増えてしまい、これまで経験したことのないような壁にぶち当たってしまいました。仕事をしてもしても終わらず、次から次へと出張が入り、家にもいることができないような状態が3か月ほど続き、気力も体力ももはや限界になりつつありました。そこで新しい上司に頼み込んで派遣のアシスタントをつけてもらい、ようやく業務を回すことができるようになったのですが、それでも忙しい日々が続きました。
2016年の終わり頃、疲労が溜まり、頭がぼーっとしてしまっていたある日、ある考えがアタマをよぎりました。「仕事に対して、本当に自分の本気を出しているのか」「3歳になる長男に対して、このままで仕事の事を誇りを持って話すことができるのか」と。そこで私は大きな決断をしました。それは、「自分の持てる力をすべて使って、周囲の力も借りながら、圧倒的な結果をだそう」というものでした。2017年の元旦から自分の行動と習慣を大きく変えることにしました。その結果、記録的な売り上げをあげ、自分の担当カテゴリーで、日本がリージョンとして世界一位という圧倒的な結果を残すことができました。
「成功」の先に待っていたもの
担当しているカテゴリーは、これまでずっと欧州が強かったカテゴリーで、売り上げのスケールも違うので、その売り上げを抜くとは、全く想像もしていませんでした。日本が世界一の売上と分かった時は、大声で叫びたくなるような舞い上がった気持ちでした。でも一方で、自分を追い込んで根詰めてやってきたので、「燃え尽き症候群」に陥ってしまいそうな、ちょっと危うい精神状態でもありました。様々なことが頭を巡ったのですが、その危うい状態から抜け出すことができたのは、「成功を得た最大の報酬は、次のレベルに挑戦できることだ」と考えることができたのが大きかったです。
オフィスのマネジメントポジション、これまでもらった事のないような高い給与、自由な仕事、圧倒的な結果という「成功」がもたらす一番の報酬は、自分が「ネクストレベル」に挑戦できることだと自分に言い聞かせ、成功に酔うのではなく、すぐに次の目標を模索し始めました。というのも、考えてみれば高い給与は、無駄に使ってしまえば、以前と何も変わらず大きな変化はありません。自由な仕事もサボってしまえば、何も意味を成しません。自分を奮い立たせ、本物の成功をもたらすには、自分自身が成長する事しかない、ということに気が付きました。この考え方に到達してからは、驚くほど仕事が楽しくなり、自分自身を成長へと追い込むことができ、何度も失敗を重ねながらも結果として大きく成長できたように思います。そして、2018年、2019年とパンデミック前まで3年連続で世界一という圧倒的な結果を残すことができました。
日本から世界へ羽ばたきたい
2018年、次の目標に据えたのは「日本だけでなく、世界全体の売上をあげたい」ということでした。本社とのMTGや研修があるたびに、米国や中国、欧州のカウンターパートに自分の経験談をシェアしたりして行動に移していきました。そして、韓国で同じプロジェクト立ち上げがあると聞き、「ぜひ自分も参加させて欲しい」とお願いをして、イベントにヘルプとして参加させてもらいました。本社の人が行うトレーニングをサポートしたり、接客をしたり、自分のできることは何でも積極的に行いました。ここでも店舗での経験があったからこそ、何をしたら業務がスムーズに進むか、が手に取るように分かったので、きっとイタリア本社の人から見ても役に立ったのではないかと思います。そして2018年の10月にシンガポールでこのプロジェクトの立上げをやる、というのを耳にして、「何が何でも自分が行きたい」と懇願して、シンガポールの立上げにもヘルプとして参加させてもらうことができました。
2019年、正式に「ノースアジア」担当というタイトルに変わり、日本と韓国を担当させてもらうことができました。そして、日本と韓国だけでなく、他の地域の売上にも貢献したい、という事を言葉として伝えながら、行動で示していきました。具体的には、T社の時と同じで、新しい業務があれば率先して取り組み、自分なりの答えを見つけて、PCでマニュアルを作ったり、それをイタリア本社や他の地域にシェアしたりしました。特に意気込んでやる、というよりかは知恵の輪を解くような気持ちで楽しみながらやっていました。特に手当などをもらっていたわけではありませんが、楽しかったので、まったく気になりませんでした。
2020年になり、T社以来の親しい友人だった本社のカウンターパートが会社を辞めてしまいました。精神的にも立場的にも、非常に難しい状況になったのですが、代わりとして新たに入社してきたディレクターは、偶然にも「新マーケットを開拓したい」という野望を持っていました。彼は前職でベトナムやシンガポールで大きな成果を上げていたので、すぐにでも担当者を常駐させたいという希望がありました。それは、僕の「日本以外の売上もあげたい」という希望と完全にマッチしていました。
1月中旬にミラノのレストランで彼ら本社の人たちとワインを飲みながらカジュアルに「自分は東南アジアへ行きたい」という話しをしてみると、「いいね、やってみようか!」という軽い感じで盛り上がり、トントン拍子で話が進みました。1月末にミラノから日本に戻って、家族とも話をして、妻からもポジティブなリアクションをもらうことができたので、ワクワクしながら、続報を待ちました。
しかし、2月になると横浜港にダイアモンドプリンセス号が入港し、新型コロナウィルスの集団感染が始まりました。そこからまた苦難の道が待っていたのですが、2021年の12月21日にシンガポールへ異動し、現在の職場で働き始めることができました。
このように振り返ってみると、入社3年目の2017年の1月を起点に、習慣と行動を大きく変えた事が、ターニングポイントだったように思います。具体的にどのように習慣と行動を変化させたのか、それはまた来月、詳しくお話させていただければと思います。
■著者プロフィール
野﨑健太郎
大学卒業後はモデルとして活動し、国内外のショーや広告などに出演。28歳のとき、大手量販店で販売のアルバイトを始める。その後、いくつかのラグジュアリーブランドでのストア、オフィス勤務を経て、2021年12月より某ブランドのシンガポール支社に勤務。趣味は高校時代から続けているサーフィン。
■ペンネームへ込めた想い
野﨑健太郎はペンネームで、尊敬する祖父の名前です。祖父は明治生まれで、西郷隆盛を思わせるような大きな体と味海苔をおでこに張り付けたような太い眉の持ち主でした。東京・五反田を拠点に京浜工業地帯で鉄を拾って歩き回り、町工場を営んでいた祖父。信条は「上天丼を食べたいなら、人の倍働け!」でした。残念ながら50代で亡くなり、直接会うことは叶いませんでしたが、この言葉は親戚を通じて私の耳に届き、私の心に深く刻まれています。祖父のハードワーク魂が自分に宿ることをこのペンネームに込めました。
最終更新日:
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