
Image by: FASHIONSNAP

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ファッションとは何か⎯⎯これはあまりに大きな問いなので、そう簡単に答えを出せるものではありません。僕は一応、ファッション論の研究者だと自称していますが、誰もが納得できるような明快な回答は持ち合わせていません。この問いは僕にとってはライフワークのようなもので、一生かけてその答えを探していくつもりです。とはいえ、ファッションについてわかっていることもなくはないので、今回はその一端を紹介したいと思います。それは、ファッションがどのような特徴を持っているか、ということです。(文:蘆田裕史)
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「身につけたもの」が「可視化される」
前回触れたとおり、私たちは日々、衣服を身につけ、自分がどのような人間なのかを服装を通じて表現しています。「私はおしゃれに興味がないから何も表現していない!」と思う人もいるかもしれませんが、それはそれで「おしゃれに興味がない」とか「服装で目立ちたくない」という意図を表してしまっていることになります。いま「身につけたもので自分を表現する」という言い方をしましたが、このような言い方をすると、「アイデンティティを表す」ことが、いわゆるファッションにとどまる話ではないことが理解できるでしょう。というのも、私たちが「身につける」ものは衣服だけではないからです。
私たちはこの世に産み落とされた後、自分の生を生きるなかで、さまざまなものを身につけます。赤ちゃんのときは「あー」「うー」という声しか発することができないのに、成長するにつれて環境に応じた言語を身につけていきます。当然ながら、生まれたときから日本語や英語を話すことが運命づけられているわけではなく、周囲の人たちが話す言語によって身につける言語が決まってきます。
習慣もそうです。家で靴を脱ぐ、虹の色を7つに分けて認識する、食事を1日3回とる、といった習慣は、たとえ合理的な理由があったとしても、必然性があるわけではありません。それゆえ、こうした習慣は時代や地域によって変わります。
私たちはほかにも知識や技術、作法などを身につけますが、そうして身につけたものすべてが自分を(否が応でも)表現します。だからこそ、誰かが「そんなんあかん」と言っていたら「あの人は関西出身かな」と思うでしょうし、家のなかで靴をはいたまま生活している人を見たら「欧米出身の人なのかな」と想像したりします。それが当たっているかどうかは別として。

ファッションと言語はともに身につけるものであり、どちらも自分のアイデンティティを表します。その意味ではかなり共通点があるのですが、決定的な違いもあります。それは目に見えるか否か、です。私たちは街中ですれ違った人を見て、その人が何語を話すのか、どんな方言を話すのかを知ることはできません。言語だけでなく、その人がどんな習慣を持っているのか、どんな思想を持っているのか、どんな技術を持っているのかもわかりません。けれども、ファッションだけは違います。街中ですれ違った人がどんな服を着ているのかが分からない、ということはありません。社会のなかでは、私たちの身体は着衣の状態がデフォルトであり、私たちの身体はつねにファッションとともにあるのです。そう考えるならば、私たちが誰かと会話をすることなく(視覚だけで)自分のアイデンティティを伝えられるのは、ファッションだけだと言えるように思われます。
要するに、言語も、習慣も、ファッションも、そのいずれもが「身につけるもの」だけれども、それを「可視化する」のはファッションだけ、ということです。しかし、ファッションがもつこの特徴は、いま薄れつつあります。
ファッションとSNS:可視化の時代へ
毎朝、会社や学校に行く電車で見かける人がいるとしましょう。その人がどんな服を着ているかは見ただけでわかりますが、その人がどんなものを食べているか、どんな車に乗っているか、どんな部屋に住んでいるかを知ることはできません。けれども、Instagramでフォローしている見知らぬ人が、その人の生活をたびたび投稿していたとしたら、どんなものを食べているか、どんな車に乗っているか、どんな部屋に住んでいるのかを知ることができます。つまり、SNSは私たちの生活や文化を可視化させるのです。
言い換えるならば、SNSの普及によって、私たちが視覚的にアイデンティティを表現する手段がファッションだけではなくなったということです。もっと言えば、場合によってはファッションよりもSNSの方が効果的になったとさえ言えるでしょう。ファッションは時間と空間を共有している人だけを対象とするのに対して、SNSは時間も空間も制限されないからです。こうして、「視覚的にアイデンティティを表現できる」というファッションの固有性が失われ、ファッションの役割がSNSに徐々に奪われつつあるのです。SNSはあらゆるものを可視化させますが、それによってこれまで(アイデンティティの視覚的な表出において)優位に置かれていたファッションが、食事やインテリアなどと同じく、SNSによるアイデンティティ表出のための一要素になってきたとも言えます。

ファッションを「身につけたものが可視化されたもの」と捉え、それが展開されたものがSNSだとするならば、ファッションについてきちんと考える/論じることを避けてきた社会が、SNS時代に対応できるはずがないだろう、とも思えてきます。
可視化の時代におけるファッションの意味
歴史を振り返ると、ファッションは権力者による管理統制の対象になることがしばしばありました。歴史上、多くの国で発令された奢侈禁止令(贅沢禁止令)などはその最たるものです。分不相応に高価な服を着ることが許されないのは、それが目に見えるからでしょう。より身近な事例としては、学校の制服を挙げることもできます。学校制服のメリットとして、「格差が可視化されない」ということがしばしば言われます。これは、格差自体を問題とするのではなく、格差が見えてしまうことによる不都合を避けようとする態度です。つまり、これまでの社会は「身につけたものが可視化されること」に蓋をして、見えなくしさえすればよいと考えていたということです。
インターネットやSNSが普及する前は、私たちは他人の生活を目にすることがあまりありませんでした。せいぜい自分の身の回りの人か、新聞やテレビに登場する有名人くらいでしょう。けれども、いまや私たちはあらゆるものが可視化される社会を生きることになったのです。可視化されることの功罪をまじめに考えてこなかったにもかかわらず。
現在、多くの人がSNSで自分の習慣や価値観、政治に対するスタンスなどを表しています。かつては家庭内でも選挙で誰に投票したかを話さない方がいいと言われたりもしていましたが、いまはSNSで投票先を明示する人も少なくありません。けれども、ファッションについてまじめに考えてこなかった私たちの社会においては、他者の思想/文化/慣習が可視化される時代にどう振る舞えばよいかが分からなくなっているようにも思われます。
背景を想像することの大切さ
服装を根拠として「この人とは趣味が合わなさそうだな」と思ったとしても、それは事実と断定できるわけではなく、あくまで推測でしかありません。たとえば僕はすり切れて穴があきかけている靴下をよくはいているのですが、ひょっとするとそれを見た誰かは「なんてだらしのない人だ」と思うかもしれません。けれども、僕にとってその靴下は、「息子がプレゼントしてくれたものだから、限界がくるまでははきたい」と思うものであり、社会に向けて自分のアイデンティティを表すものではなく、「もらった靴下気に入ってはいてるよ!ありがとうね!」という息子との閉じた世界のなかでコミュニケーションを取るものなのです。

物事にはかならず背景があり、それは可視化されている部分からだけではわからないものです。そこにファッションの難しさ(と面白さ)のひとつがあるように思われます。他者を見た目で推測しながらも断定することを避け、その背景を想像しながら相手の態度や行為、そしてアイデンティティの表明を尊重し、その上で相手と言葉を交わすことをしなければ、相手を理解できるはずもないでしょう。
分断と対話
その結果として起きたのが、現代の特徴とされる「分断」なのではないでしょうか。昔は「野球と宗教と政治の話はするな」と言われていましたが、裏を返せば「話をしないと相手のアイデンティティ(趣味や思想信条も含みます)がわからない」ということです。けれども、いまはSNSによって私たちはあらゆる人のアイデンティティを目にすることになりました。たとえば仲のいい友人が、実は選挙で自分の嫌いな政党に投票していたことを知ってもやもやするということもあるでしょう。「支持政党の違い」という可視化された事実からだけでは、なぜその人がその政党に票を投じたのか、という背景まではわかりません(推測することはもちろんできますが)。もし理解したければ対話が必要なはずです。ファッションは重要だけれども、それがすべてを語るということはありませんので*¹。
ファッションを軽いものとして見るような価値観は、可視化されたものを短絡的に捉え、相手を自分の想像で決めつけてしまう態度につながります。僕の知り合いの編集者さんが雑談のなかで、「人類にSNSは早すぎたのかもしれない」となかば冗談で言っていたのですが、これはある意味で重要な指摘だと思います。ファッションという可視化を特徴とするものがこれまでずっと社会に存在し続けていたにもかかわらず、些末なものとして蓋をしてきた私たちが、同じく可視化を特徴とするSNSとうまくつきあうことは難しいと思うからです。
ファッションは重要です。それは間違いありません。それを前提としたうえで、ファッションはどのような特徴を持っているのか、ファッションにできることは何なのか、逆にファッションにできないことは何なのか、私たちはファッションとどう向き合うべきなのか、といったこと、つまりは「ファッションとは何か」という問いを考え続けることで、見えてくる社会の様相があるのではないでしょうか。
*¹ 少し前に行われた参院選の結果を受けて思想家の東浩紀さんが開催した座談会(さまざまな政党の支持者(投票者)を集めたもの)があるのですが、現代に必要なのはこういう態度と場だと思うのです。
「東浩紀が参院選の結果を見つつひとりクダを巻くだけの限界雑談特番 有識者の分析に飽きたらここだ!+自民から参政・共産まで、視聴者大討論会」
★今回のテーマをもっとよく知るための推薦図書
・アーヴィング・ゴフマン『日常生活における自己呈示』(中河伸俊・小島奈名子訳)、筑摩書房、2023年
・中村桃子『「自分らしさ」と日本語』筑摩書房、2021年
・與那覇潤『過剰可視化社会——「見えすぎる」時代をどう生きるか』PHP研究所、2022年
illustration: Riko Miyake(FASHIONSNAP)
1978年京都生まれ。京都大学薬学部卒業、同大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターなどを経て、2013年より京都精華大学ファッションコース講師、現在は同大学デザイン学部教授。批評家/キュレーターとしても活動し、ファッションの批評誌「vanitas」編集委員のほか、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。主著は、「言葉と衣服」「クリティカル・ワード ファッションスタディーズ」。
◾️ゆるふわファッション講義
第1回:ファッション論ってなに?
第2回:可視化の時代におけるファッションとは?
最終更新日:
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