beautiful people 2019-20年秋冬コレクション

Mugita Shunichi

モードノオト2019.03.23

麥田俊一

ファッションジャーナリスト

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beautiful people 2019-20年秋冬コレクション

 ショーや展示会に、少しく穿った視座(たとえば、売れるとか、売れないとかの、ブランドにとって、それこそ生命線とも云える重要な側面を殆ど無視した見方)を以て向き合っているから、所詮、私のちょっとした感慨などは、なんら説得力を持ち得ぬものと、端より十全に承知している。だが、それでも莫迦は莫迦なりと開き直り、自説を針小棒大に吹聴し、得手勝手に書き殴っているのは、取材者としての最低限のエチケットであると信じているからだ。然らば、出来るだけ掻い撫でにならぬよう、考えたことを能う限り、嘘、誤魔化しを排除して語るのが、作り手に対しての礼儀。炯眼を以て鳴る評論家(良い子ぶったクソったれ)であれば噯にも出さぬ、画餅的な持論を弄ぶしかないと、太々しく居直っても居る。

 今日も、ジェンダーレスやユニセックスなど、時流に棹さす安直な見せ方が眼に付いた。気になった。カジュアルやストリートに傾斜を深める服なら、その意図は明瞭だが、綺麗な服に軸足を置くブランドに於いて、女の服の設計を男モデルに着せたショーに懐疑的になっている。女の服の大人っぽい感じが台無しになっている。初手より男用の設計であれば違った印象だったろう。「男性でもどうぞ」式の提言をショーで見せておきたいとの思惑も解らなくもないが、男女で設計を同じくするのであれば、作り手の押しの強い提言よりは、それは、着る側の自由な裁量に任せておれば良いのではないか。やはり時流に寄り添う姿に映る。時流を捩じ伏せるだけの強さが服に滲み出ていれば、また違った見え方にもなっただろう。舞台裏で訊いたところ彼曰く「中性的な服をこれまでも作ってきたから」とのこと。醜悪な囲み取材が主役の登場を待っていたので、これ以上会話する時間はない。甲論乙駁を経ていないから敢えて作り手の名前は控えておく。閑話休題。

beautiful people 2019-20年秋冬コレクション

 「ビューティフル ピープル」が久方振りに東京でショーを見せた(東京のショーは2017年春夏が最後だった)。モデルを使ったプレゼンテーション(2017-18年秋冬)を経て、現在はショー形式で見せている。今回は、パリで見せた服をそのまま(着せ方に多少の変更はあったとしても)数名の男モデルを織り交ぜている。ここでの男モデルの器用には、前述のような違和感(最近の流行りであるところの違和感ではない)はない。寧ろ熊切秀典の意図が腑に落ちる気がしたからだ。彼の創作世界を表現するためには、まだまだ長い時間を必要としていた。それならば、彼は無自覚に彼の道を歩いていたのだろうか。否、そうではない。或る者は、服を作ることは、自分の世界観を再現することにあると、ただそれだけだと、固く信じている。こうした狭い視野の中に閉じ籠ることは、程度の低い理想に身を縛られたに等しい。作り手と云うものは、一度自分の言葉を所有してしまえば、詰まり、様々なメチエの中より自分の必要な表現手段を会得してしまえば、あとは自分の題材を過去のスタイルから借りようと、現在の流行から借りようと、自分の想像力から借りようと、最早、公然と自由であることを、古今の先達たちが証明しているではないか。完成には時間が必要だが、熊切は「自分の言葉」を発見するために研鑽を続けている。試行錯誤が彼の創作世界に恰幅を与え始めている。

 当初よりその仕事は彼には、ちと荷が勝っていると私は思っていた。パリにて「メークラブ」と題した作品群(2018年春夏)を見て、其れ式のことを仕掛けと云うのかと高を括っていた。みくびっていたらドヤしつけられたような衝撃を受けた。と云うのも、主題と服の構造を噛みしめれば噛みしめる程、アクの強い熊切の体臭が匂い立ち、それが脳髄を刺戟してくる。服は表が裏に変わり、左右、上下が入れ替わる、異なるピースからなる重層構造。二着以上の服が融合して一着となる設計だが、服の半身同士が、実は「融合」ではなくて「交わる」のであって「合体」ではなく最早、絡み合い「性交」しているのだった。以降、彼はこの仕掛けに固執し、偏執狂的な迄に、その仕掛けを様々な着方に拡張して現在に至っている。前回のパリでは、それを「side C」と題した。アナログ盤で云うところのA面でもB面でもない「C面」と云う新たな魅力を服の仕掛けで創出しようとする試みだ。AかBかを決める必要はなく、その両方か、どちらでもないCを見付けて服を着て欲しいと云う作り手の意図が、その仕掛けに込められている。故に、服地と裏地の間に身体を入れて着る設計もある。着方によって露わになるのだが、仕掛けのために、身頃や袖刳りに入れた切り込みからチラリとのぞく素肌のエロさも、実は、仕掛けの一部になっている。この場合は、構築と脱構築と云うのが定石だろうが、そんな手垢に塗れた形容こそ、まさにお利口バカな書き方の典型である。

beautiful people 2019-20年秋冬コレクション
beautiful people 2019-20年秋冬コレクション

 またぞろ極論ではあるが、優れたショーには、暗示以外のものはあってはならないと云うのが私の持論だ。(文字通りの意味で)物を表からも裏からも捉え、それをそっくり差し出すとする。その結果、神秘を欠いてしまい、それを見る人たちから、自分たちもまた(作り手と同じ視座に立ち)創作の現場に身を置いているのだと信じる心地好い悦びを奪ってしまう。一つの対象を名指すことは、少しずつ謎を解いていくことで成立する詩的な悦びの大半を殺すことに他ならない。作り手たるや、それを暗示すること、これが重要なのだ。暗示を構成しているのは、この神秘を自在に服の中に仕掛ける技巧なのだし、その技巧は余程精錬されていない限り、作り手が狙った暗示は活きてこない。逆に、それが巧みであれば、それだけ、一聯の謎解きが或る種のカタルシスを与えてくれることになる。どうやら熊切は、暗示的美学を「自分の言葉」に選んだようだ。パリに発表の場を移したことが彼に成果をもたらした。形を計算し、一つ一つの言葉を天秤にかけてその重さを量りながら、独創の仕掛けに余念がない姿が頼もしくもある。さて、服の構造的な仕掛けに巧く言及出来たか少しく心許ないが、この仕掛けにニヤリとするには、実際に服を手に取る以外には如何とも説明し難いものだから、最後に、もう一つの暗示について蛇足的に云っておく。時代を経た花柄は人体構造を、アースカーラーは様々な人の肌の色、筋肉や内臓、髪の毛の色などの暗喩だそうだ。なるほど、花と植物の柄が敢えて疎密になっていて、左右対称な箇所と非対称な箇所が共存している。確かに心臓は左右どちらかにあるのだし、それによって血流の模様も変わってくる。これもまた、熊切流儀の「暗示的美學」なのだ。(文責 麥田俊一)

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