Image by: FASHIONSNAP(Koji Hirano)
今季の短期連載では、偶さかにメンズブランドだけに言及してきた。してみると、どうも偏り過ぎている嫌いがあるし、丸二年がとこ休止していたモードノオトを片手間に打っ遣るわけにもいかぬ。現に、青木明子とか砂川卓也とかの、或る意味で、東京らしからぬ欧州式の正調なプレタポルテ(この場合は、女性向けの既製服と云う意)を取材したのだから、本稿にてそのことに触れる必要があると思い立った。ジェンダーに抵触するところの、品格を備えたスタイルなら渋々ながら買うが、流行りものの性差の題目を一心に唱えるが如く粗製濫造式な中途半端なニヤケたスタイルは感心しない。それにだ、キッチリと感光して、こちらの心の印画紙に明確な像を焼き付けてくれるような、アダルト志向の歴とした女性向けの拵え(既製服の顔を持った服)は今も尚、東京には少ない、と思っている。
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だから、同じドレーピングの技法を用いながら、まったく対照的な味を見せた青木と砂川のショーは私の脳髄を貫いた。今季の中では特筆された出来栄えだった。両者の作品群(断りを入れておくが、二つのブランドには何ら連絡はない)を通貫するのは、独り善がりの造形表現とか、ありきたりの情熱とか、伝統的でステロタイプ化したものとは異なる、服の基本構造を突き通す眼力の確かさである。経験により蓄積された眼の力は、彼等の内面で絶え間なく変化し、変化することで自らを創造し、自らを創造することによって生き続けていくものだ。とりわけ、今回初めてキャットウオークをした砂川の醒めた情熱(唯クールなだけと云うよりは、心に迷いがないと云う意)については、他所で記事を書くことになっているから本稿ではその印象の一端に留めておく。
「アキコアオキ」のコレクションノートにあった「Kalevala(カレワラ)」と云う単語は私に、ほろ苦い過去を呼び覚ました。取るに足らぬ内省が進んだ結果が招いた自己嫌悪と自己懐疑と云う暗渠にドップリと嵌まり込んでいた青臭い高校生時代が脳裏を掠めた。とは云っても、此度の青木のショーに登場した「Kalevala」は、フィンランド発信のサステイナブルなジュエリーのブランド名であり、フィンランドの民俗叙事詩『Kalevala』とは別物である。一瞬、あの旋律が過ぎった。フィンランドの作曲家ジャン・シベリウスは『Kalevala』に想を得た作品を数多遺しているが、とりわけ、交響組曲『レミンカイネン 四つの伝説』を構成する『トゥオネラの白鳥』は私の愛聴する作品だった。その魅力は、イングリッシュホルンの悲痛な音色で奏でる旋律が、恰も我々を黄泉の国に誘うような、どうしようもないほどの悲しさにある。間違った聴き方をしていたのかも知れぬが、曩時の私の青臭さに、その旋律はピタリと呼応するものだった。本稿の題名のモードノオトは、モードのノオトブックとモードの音の意を重ねているから、時には斯様な脱線も好いと思う。
閑話休題。純粋に精錬された黒。暗闇の中に光の模様を集めて天使を作る時の白。凡ての色の鉱脈を含みながら、ニュートラルで、時に曖昧さを感じさせる灰色。透けて見える皮膚のウブな肌色。女性デザイナーが見せる女性のための服の官能には、捧げるだけの、女の実感の薄い男の作り手(逆に実感が薄いからこそ、その空隙を想像力が埋める面白みが生ずるのだが)にはない、或る種の厳しさが同居している。矛盾するようだが、官能に宿る厳しさは、作者のストイックな意志に基づく鍛練の過程より生ずる。青木の見せる官能は、今季に於いて、純粋な配色の管弦楽化(オルケストラシオン)を知るに至った。モノクロームに徹していたとて、彼女の服には、管弦楽のように鳴り響く色彩の輝きがある(またしても言葉の誤用であるが、意味は通ると信じて書いている)。但し、彼女は音楽的な主題を求めたのではなく、日常生活の風景の中にある服に係わる所作(脱いだり着たり、表を裏返しにしたりする普段の動作)を、作者の内部の精神に反映させることによって、純粋に音楽的に表現しただけである。服は身体を包み込むメディアであることの真を逆手にとった、身体より服を剥がす感覚を服の設計に定着させた。
唯それが結果として、一つの音楽的な情緒に昂まると云うことはあった。青木の場合は、彼女の音楽はそこに表現された以上のものを、常に望んでいる。彼女の作品は詩的な、或いは音楽的な何ものかを端より一つの効果として要求している。そのために、(彼女が意図しているか否かに拘わらず、音楽的な主題に相応しいモチーフが、平板な設計図の中に於いて必ず中心に置かれ、全体に亘ってデコラティブな装飾が施され、意地悪く拗れたドレーピングが二次元的な設計図より主張の強い立体的な造形を立ち上がらせ、一種の非現実的な空気を漂わせる。「現実を、少しずつ、辷らせて(スライドさせて)。その時、わたしはわたしであり、あなたでもあり、だれかであり、だれでもない」とコレクションノートは記している。それは夢見られた現実であり、彼女の(同時に我々の)謂わば突き抜けたところにある現実とは少しく異なっている。彼女は一見して平凡に見える普段の生活の風景や他人の日常的な生き方に、圧倒的な迫力を与えるように創作のタクト(指揮棒)を揮う。殆ど、眼を瞑って揮っているとも云えるほどである。だが彼女は、必ずや明晰な観察と豊富な空想とに基づいて、効果の計算された音楽を掻き鳴らす。
私は青木の特性について「服の基本構造を突き通す確かな眼力」と、曩に述べた。さしあたり今季の作品群は、メビウスの帯の持つ、裏を辿っていけば表になり、表を辿っていけば裏になる式の仕掛けが施されている。だがしかし、正直なところ、青木の創作に、誰にでも分かる、それなりの服の仕掛けの妙を探すのは、私には大して興味がない。唯々私が見定めたかったのは、デビュー以来創作の底流にある彼女の拗れた視点が曇っていないかどうか、その一点だった。今季に限り、それは少しく饒舌が過ぎるセクシーボムとの均衡を見事に保っていたように思う。「確りと服と向き合っていますね」の一言を、ショーを終えた青木に伝えてから私は会場を後にした。
メビウスの帯の何処かしら奇妙で観念的な体験ではなく、自らメビウスの帯を作って遊ぶと云う、そうした拗れた帯を弄る仕草そのものが、彼女の創作の世界を讃えている明快でありながら少しく欝屈した視点に直結しているのだろう。天の邪鬼な拗れと無邪気な愛らしさは、実のところは、一枚の硬貨の裏表なのである。青木の拗れた視線は、ありふれた現実を変貌させる個性的な物指しであり、従って作品群は、現実を彼女の主観によって変容させ、定着させた産物である。それは単に、表現主義とかフォービスム(野獣派)の激しさとかアブストラクトの晦渋さと云った流派に与するものではない。現代的なプレタポルテは、それを創造する人たちによってのみでなく、それを受け取る側の想像力によっても推進されていくことを、彼女の眼は見抜いている。本稿終わり。(文責/麥田俊一)
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