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三宅一生の偉大なる遺産と今後の課題とは?

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「国立デザイン美術館をつくる会」第1回パブリック・シンポジウムに参加した際の国立西洋美術館の青柳正規館長と三宅一生(写真右)。
「国立デザイン美術館をつくる会」第1回パブリック・シンポジウムに参加した際の国立西洋美術館の青柳正規館長と三宅一生(写真右)。
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 広島原爆投下記念日の前日である8月5日にファッションデザイナーの三宅一生(1938.4.22~2022.8.5)が84年の生涯を閉じた。死因は肝細胞癌だった。まさに巨星墜つ、の感がある。森英恵(1926.1.8~)が切り開いた海外における「ジャパニーズデザイナー」という存在を確固たるものにしたのが三宅一生だった。一生の天才的な発想による布たちとのアスペクトは数々の「名作」「傑作」を生み出した。パリ・モード界に衝撃を与える存在だったとも言える。越境した革新者はその地のルールに自分を合わせようとはしない。自分のルールを創造する破壊者になる。まさに1970年代の三宅一生はファッションデザイナーという枠を超え、布を用いた創造作家と呼べるような異形の存在だった。沖縄の芭蕉布や日本の伝統素材である刺子を用いたクリエイション、インドの素材や合繊素材の新しい切り口の提案など、盟友とも呼ぶべきテキスタイルディレクターの皆川魔鬼子(まきこ)との共同作業による作品が世界を驚かせた。それは、1981年にパリコレ・デビューを果たす川久保玲(1942.10.11~)の「コム デ ギャルソン」、山本耀司(1943.10.3~)にも大きな影響を与えた。

 三宅一生の傑作の森からひとつだけ挙げるとすれば、商業的にも大成功を収めた「プリーツ・プリーズ」ということになるだろうか。一生の故郷の広島の街を彷徨う被爆した人々の焼けただれた皮膚のイメージが刻印されているなどという穿った批評もあるが、ありふれた素材とありふれたテクニックから全く新しい創造物が生まれるという三宅一生の真骨頂が発揮されている。

 その素顔ということになると、自信家で激情家の一生は、とくに日本のジャーナリスト間では、必ずしも評判が良かったわけではない。自分のコレクションに対して気に入らない記事を書いた記者に深夜電話をかけて詰問したり、パーティーである日本人ジャーナリストに「あなたの顔は見たくない」と面罵するような場面も目撃されている。もうデザイナーとして創作活動はしていなかったが、私も「引退した三宅一生」と書いて、三宅デザイン事務所から「三宅は引退しておりません」と厳重注意を受けたことがある。代表取締役会長として後任デザイナーたちの創作活動に対して目を光らせ、最後まで社内動向にも監督を怠らなかったようである。

 気になるのは、三宅一生亡き後のイッセイミヤケ帝国の今後だ。中核組織である三宅デザイン事務所の代表取締役社長は現在、一生をPR・広報面から支えてきた北村みどり氏である。まさに一生の分身とも言える存在だが、クリエイティヴ出身ではない彼女がクリエイション第一主義の同社の今後を支えることができるのかどうか注目される。森英恵、山本寛斎(1944.2.8~2020.7.21)、山本耀司など日本を代表したデザイナーたちは自社の破綻という事態に陥っている。世界に誇れる日本デザイナーたちの中で、デザイナーズブランドからラグジュアリーブランドへの転換を果たして生き長らえることができたのは、自社をLVMHに売却した高田賢三(1939.2.27~2020.10.4)の「ケンゾー」だけである。こうした転換を是非「イッセイミヤケ」には果たしてほしいものである。

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