ファッション業界、広告業界でのさまざまな経験を活かし、新たなビジネスに挑戦し続ける松尾氏。仕事へのバイタリティーのベースとなっているもの、そして、50代を迎えたからこそ見えてきた「人生観」についてお話を伺った。
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松尾 考哲さん/株式会社サブマリーナ 代表取締役社長・株式会社カラフリー取締役会長
1968年大阪府生まれ。幼少時代はインドネシアで生活したのち帰国。高校卒業後はアメリカの大学へ留学。新卒でバーニーズジャパンへ入社後、外資系広告代理店を経て、博報堂にてコカ・コーラをはじめとする大手外資系企業のブランドマーケティングに従事。博報堂グループ企業のコスモ・コミュニケーションズ(現 博報堂Gravity)では、専務執行役員として経営手腕を発揮。2020年4月に起業。現在はマーケティングプロデューサーとして、ブランドコンサルティング、EC事業運営、グローバルビジネス等に幅広く携わる。
多感な時期を海外で過ごすことのメリット
―20代までの生活の拠点が、インドネシア、日本、アメリカというのは、なかなか経験できないことですよね。こうした稀有なご経験が、松尾さんのその後の仕事にも影響しているのでしょうか。
まさに数々の海外生活での経験が、僕の生き方や仕事観につながっていると思います。日本で生まれ育って、といういわゆる一般的な環境で子ども時代~大学までを過ごしていたとしたら、仕事のスタイルも経歴も、まったく違っていたと思います。
―今でこそ帰国子女はたくさんいますが、松尾さんの世代ですと、まだまだ少ないですよね。
最初に海外生活を体験したのは、父の仕事の関係で行ったインドネシアでした。しかもジャカルタとかではなくて、ものすごく田舎の町。お湯も出なくて、水をためて水浴びをするような生活をしていました。インドネシアも当時は発展途上国で、貧しい国でしたしね。そんな土地で現地の人たちに囲まれて生活するわけですから、すべてがカルチャーショックの連続でした。
― その後は、日本に戻られて。
インドネシアには4年ほどいて帰国し、中高時代は暁星国際中・高で学びました。帰国子女を多く受け入れている学校で、いろいろな国で生活していた仲間ばかり。当時、あれほど多様性のある環境はなかったでしょうね。欧米はもちろん、僕のようにアジア、そして中東などの国々から帰国した友人も多く、しかも寮生活でしたから、個性豊かな仲間とずっと一緒に生活していました。
みんな普通の日本の学校に行っていたら、ちょっと浮いてしまうような奴ばかりなんですが、暁星国際では「変わっている」「個性的」が普通でしたから、楽しかったですよ。今でも当時の仲間との交流は続いています。
アメリカ時代の「刺激」は、すべて自分のなかに吸収した
―高校卒業後はアメリカの大学に進まれましたが、日本の大学に、とは考えなかったのですか。
まったく考えませんでした。アメリカの大学を選んだのも、実は少なからずインドネシアに起因しているんです。インドネシア時代、カナダ人の家庭にホームステイする機会があって、そこで英語圏の生活に触れたんですね。僕も英語力は多少取得していましたが、もっとちゃんと学びたいという気持ちもあって、アメリカの大学に進むことを決めました。
―どんな学生生活でしたか。
最初の2年間はペンシルベニアの大学の寮で生活していました。ルームメイトは黒人で、そこからまた世界が広がりましたね。2年間はとにかく勉強が大変で、今思い出してもあれほど勉強した時期はありません。
一方で大学時代は勉強だけではなく、アメリカの文化も存分に楽しみました。大学があったフィラデルフィアは、どこに行っても絵になる街で、ブラックカルチャーも盛ん。楽しかったですね。でもフィラデルフィア以上に大好きになったのが、ニューヨークでした。当時はジュリアーニ氏が市長になって、それまで最悪だった治安を何とか立て直そうとしていた時期。それでも危ない場所はたくさんありましたよ。ブルックリンなんて、今ではお洒落で人気のエリアになっていますが、当時はとても危険な場所でしたしね。
でも、そんなニューヨークの負のオーラがすごく魅力的でしたね。有名人やトップモデルが普通に歩いていて、どこに行っても映画のワンシーンのような華やかさがある一方で、危なさもあるし、人種のるつぼだし。街を歩くだけで圧倒されていましたよ。
海外で「生活できた」ことに感謝
―旅行ではなく、アメリカに住んでいたからこそ感じられた刺激でもありますよね。
そこなんです。旅ではなく、海外に住んで「生活していた」ことから得られた刺激とか感性や経験が、その後の僕のベースになっているんです。
―卒業後はどのような流れでバーニーズニューヨークで働くようになったのですか。
バーニーズニューヨークは、憧れの店でした。ボストンのキャリアフォーラムにも行って様々な企業を受けたのですが、やはりバーニーズに興味があり受けたら採用されて、横浜店の立ち上げから参加することになったんです。
バーニーズニューヨークは、当時の日本でセレクトショップという形態を牽引するような存在で、人気はものすごかった。僕は販売を担当していましたが、バーニーズにいた約2年は目の回るような忙しさでしたね。
―その後、博報堂にキャリアチェンジをされましたが、なぜ広告業界に?
もともとマスコミにも興味があったんです。なかでもメディアよりも広告に興味があって。あらゆるところに広告があふれているニューヨークが好きだったことも影響していたんじゃないかと思います。
英語力よりも、経験から養われた対応力を活かす
―博報堂では、コカ・コーラやティファニーなど、有名外資系企業をご担当されていらっしゃいましたが、外資系=松尾さんというのは、やはり海外経験がものを言ったということでしょうか。
英語ができることもそうですが、外国人のやり方を理解しながら対等にやりあえたというところが重宝されたのだと思います。海外で生活していた経験がまさに活かされたんですね。
―なかでも印象に残っている仕事はありますか。
コカ・コーラですね。当時、やりとりするコカ・コーラの上層部がほぼ全員外国人になったんです。グローバルな会社ですから、いろいろな国の人がいて、日本人対日本人という感覚では仕事にならない。互いにバンバン主張するし、言葉は悪いですが、交渉というよりケンカですよ(苦笑)。とはいえ相手はクライアントで博報堂は受け手ですから、いかにうまく話を進めていくかが難しい。ビジネスを進め、お金を得ることの難しさを痛感しましたね。ストレスもすごかったですよ。
―そんなときに役に立ったのが、「海外での経験」でしょうか?
まさにそうです。アメリカで生活したとき、たとえば寮でルームメイトとやりあったりした経験、ものごとをはっきり伝えなければ相手には理解してもらえないといった失敗や経験がとても役に立ちました。
―博報堂で長年、名だたる外資系ブランドのマーケティング業務に関わったのち、コスモ・コミュニケーションズで新たな挑戦をしようと思ったのはなぜなのでしょう。
規模が小さなところで勉強したいという想いがありました。でもやってみるとこれがまた大変で。たとえば博報堂ならスタッフが足りなければ別の部署から呼べばいいけれど、小さな会社だと人材がいませんし、採用となるとコストがかかる。オフィスの家賃はどうやって払っていくか、社員のモチベーションをどう高めていくかなど、博報堂時代は考えもしなかった悩みがたくさん出てきました。でもこうした経験から、経営者側の立場もよくわかるようになりました。
人生は1度しかない。だから挑戦したい
―さらに松尾さんの挑戦は続き、今度はコロナ禍で独立されて。
今の時代は、社会に出てからひとつのビジネスだけに関わるって少なくなりましたよね。僕もつねに転職や独立のことは頭にありました。ただ独立となるとなかなかタイミングが合わなかった。で、たまたま「今しかない」と踏み切れたのがコロナ禍だったんです。ちょうど50歳を迎えて、年齢的にも独立するなら今が最後のチャンスだ、と思いましたしね。
コロナ禍で独立するというと、無謀なことと捉えられがちですが、実はコロナ禍があったことで、ビジネスのあり方や働き方が大きく変わりましたよね。大変なことはたくさんあったけれど、視点を変えれば活躍の場も広がっているんです。
―松尾さんが起業した「株式会社サブマリーナ」では、ブランドマーケティングをメインに、コンサルティング、EC事業運営などさまざまなビジネスを展開していますが、ビジネスのベースになっているものは何でしょうか?
自分がやりたいこと、興味があること、そしてこれまでの経験が活かせることです。ただ、単純に興味があることをやりたいと思っても、その道のプロでなければできないことがたくさんあります。たとえばサプリや化粧品に興味があっても僕はそうしたモノづくりはできません。だったらどうするかというと、その道のプロと組むんです。自分でゼロから立ち上げようとはせずに、強い者と組む。プロがつくったものをどうプロデュースしていくかは僕がこれまでやってきた本業的な部分でもありますから、タッグを組むことでひとつのビジネスが生まれていくわけです。
―できること、できないことを見極めることが大切なのですね。
そうです。自分が得意なことは伸ばして、あとはプロと組む。若い頃は自分は何でもできるんじゃないかと思ってしまいがちですが、いろいろな仕事を経験して修羅場もくぐってきたからこそ、自分にできること、できないことの領域がわかってきました。
一方で、今は予期せぬことが突然起きる時代です。コロナ禍、戦争、円安…。誰も予想していなかったことが次々と起こっていますよね。予測できないことに不安を感じても仕方がないので、とにかく自分が大切だと思っていることをやる。そんなスタンスで仕事をしています。
自分にしかできないことって必ずあります。それを組織の中でやるか、独立してやるか、そこはどこでやったっていいんです。
そしてもうひとつ大切にしていのが、「自分が心地よくいられるスタイル」を重要視すること。経験を積んで年を重ねた今だからそれができます。精神的にリラックスできると、仕事のパフォーマンスもアップしますからね。
―自分にとってのチャンスって、意外に近くにあるのかもしれませんね。
頑なに固執することなく、違ったアングルで見てみると、チャンスは広がると思います。ただ、それをどう捉えて伸ばし、突き進むかは自分で考えるしかないんです。
大変な時期を経験したことが、「自分らしく生きたい」という想いにつながった
―松尾さんにとって、自分を突き動かす原動力って何でしょう。
経験ですね。海外生活、がむしゃらにやってきたこと、すべてが今のエネルギーにつながっています。
そして今は人との出会いがとても楽しいです。これまでの人生・仕事にもたくさんの出会いがありましたが、独立してからはもっともっとたくさんの人との出会いが増えました。会う人すべてが魅力的で、学ぶことがたくさんあるんですよ。
―仕事やキャリア、生き方で悩みを抱えている人はたくさんいると思います。そのような方々に向けて最後にメッセージをいただけますか。
この歳になるとね、ああ自分は生かされているんだなあ、と思うんです。仕事をしていると、どうしても人と比べてしまったり、もっと稼ぎたいって思いがちですよね。でもそんなときこそ「自分がどうありたいか」を考えてほしいと思います。
だから僕も成功の秘訣だとかを伝えるのではなくて、「生き方」を伝えていきたい。そのうえで、悩んでいる人がいたら助けたいし、少しでも「ああ、こんなことで悩まなくていいんだ」と思ってくれる人が増えたら嬉しいな、と思っています。今ある場所だけが全てではなく、見方を少し変えたり、違ったアングルから見てみれば、もっと実は自分に合っている道もあるかもしれないんです。今ある場所だけで発揮するのではなく、どんな人でも様々な場所で可能性を秘めているのではないでしょうか。人生は一度しかありません。もし、今の環境で悩んでいる人がいたら、こんな時代だからこそ、一度、違う見方をしてみてはいかがでしょうか?
文:伊藤郁世
撮影:Takuma Funaba
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