有名ラグジュアリーブランドとのコラボレーションやSNSでの発信など、モデルやインフルエンサーとして活躍するKawaK氏。自身で弱みと捉えていた義足を自分にしかない個性という強みに変え、唯一無二な存在に輝かせている。そんなKawaK氏が、絶滅危惧種の動物をデザインインスピレーションとしたファッションブランド「REDLIST(レッドリスト)」のアンバサダーに就任。スニーカーやデジタルアートの売上の一部は環境保全活動にあてられる。競泳選手でアジア記録を更新したアスリートでもあるKawaK氏が、ファッション業界に飛び込んだきっかけとは?“ファッショナブル” をキーワードに世界へアンテナをはりめぐらせ、がむしゃらに突き進むポジティブな精神性に注目。
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KawaK/モデル・インフルエンサー
1997年生まれ、兵庫出身。幼少期に水泳を始め、2019年のバイク事故により右膝下を切断したが、その後もパラ競泳選手として活躍し、国際試合でアジア記録を更新。前向きな性格と持ち前の明るさを武器に義足を唯一無二の個性としてSNSで発信。TikTokでは、100万人以上のフォロワーを持つ。2022年、水泳競技から引退し、現在はモデルとして活躍中。2022年GQメン・オブ・ザ・イヤー インスピレーショナル・インフルエンサー賞を受賞。
水泳の試合で注目を浴びる感覚に取り憑かれた学生時代
―兵庫県姫路市出身のKawaKさん。水泳をはじめたきっかけを教えてください。
水泳をはじめるきっかけになったのは、小学校3、4年生の頃に家族旅行でバリ島へ遊びにいったとき。プールが深すぎて溺れかけてしまい、「これは泳げるようにならなきゃだめだ」と思ったのがはじまりです。当時は水泳があまり好きではなかったのですが、中学校に入るとみんな部活に入るので、そのまま水泳を続けることにしました。3年生になる前に、姫路市の強豪が集まる強化合宿に参加し、他の生徒と会うようになって「負けたくない」という闘争心がやっと芽生えて。最後の夏には近畿大会に出場し、声をかけてもらった姫路商業高校でも競泳を続け、高校生最後の年は優勝することができました。
―水泳を中心とした学生時代だったんですね。水泳を続けた理由は何ですか?
幼少期から前に出て目立つのが好きな、リーダータイプ。好奇心旺盛で、やりたいと思ったらすぐ行動に移すような子どもでした。当時から「水泳がめっちゃ好き」というよりは、レースに出て人から視線を集めて、ゾクゾクするような緊張感がたまらなく好きで。勝ち負けよりかは、試合でみんなをざわつかせたくて試合に出ていた部分があるのかもしれない。パフォーマンスに近い感覚で、観戦しているみんなを驚かせてやろうというのが楽しみでした。
―推薦で国士舘大学に入学し、東京に上京されました。大学生時代について教えてください。
国士舘大学は、コーチがいるような本格的な部活で、朝4・5時に起きて始発で朝練に行くような学生生活。大学3年生の年明けのある日、テスト勉強の期間だったので、「勉強しに行こう」と寮からバイクを走らせていました。信号を直進しようと停止線をこえて、反対側の車が来ていないことを確認して走ろうとしたら曲がってきた車が衝突。車もスピードを落とせず、自分もブレーキを踏めずに車とタイヤに足が挟まれたままガードレールまで引きずられていました。看護師の方が声をかけてくれて目を覚ますと、もう自分の足は変わり果てた様子になっていて。そこからが地獄のはじまりです。
―事故に遭ってから、どのように心を持ち直したのでしょうか?
もう、泣けるだけ泣いたっていうのはあるかもしれません。1ヶ月間泣き続けましたが、「泣いても何も変わらない」と気付いたので、今となってはその期間は無駄じゃなかったと思います。事故に遭う3ヶ月前から友達とスケートボードにはまっていたのですが、足がなくなって絶望して、義足もどういうものかわからない、これから一生車椅子かもしれないという状況で。お医者さんに「スケボーってもうできないですよね」と半ば諦め半分で聞いたとき、「僕はもう60歳過ぎているけど、今両足あってもスケボーできないよ」と返されました。そのときに「やろうとしないから、できないんだ」とハッとして。100%以前のようにはできないかもしれないけど、なんでも挑戦してみようと何かが吹っ切れました。「夢を持つ」ってバカにする人もいるかもしれないですけど、すごく大事なことだと思います。
事故を乗り越え、パラ選手として活躍しながらSNSでの発信をスタート
―気持ちが吹っ切れて、最初にスタートしたことは何でしょうか?
退院する前には気持ちも前に向きはじめて、歩けるようになりました。歩けるようになるまでは足も辛くて車いすがないと不安でしたが、歩けるようになってからは少しずつ希望を持つようになりました。そのときにYouTubeをはじめとするSNSを見ていたのですが、「義足」や「片足切断」と調べてみても、若者に向けて希望を持たせてくれるような動画がなかったんです。何かしらの形で自分の障がいを発信したいな、と思っていて、それを最初に表現できる場所が、得意な水泳でした。競泳でお世話になった恩師の監督さんが「もう1回やらないか」と声をかけてくれて、再度プールに戻ることを決意。練習を再開してから1回目の大会で新記録を更新し、さらにそこから3ヶ月後の大会でも記録を更新しました。
―続けて新記録を更新されたのは素晴らしいですね。そのまま競泳の道に進むのでしょうか?
そこから目標になるのが、2020年の東京オリンピック・パラリンピック。しかし、コロナで外出自粛の期間に入り、練習場所がなくなってしまったんです。プールは全て閉まっていたので、次の試合があるまでは実家のジムでトレーニングを続け、少しプールで練習してから半年ぶりくらいに試合に出場しました。「これだけ耐えたから、絶対に記録を出すぞ」と意気込んだものの、会場には誰もいない。観客に応援されたいというゾクゾク感が好きだったのに、それを体験できないことが悔しくて。そこから、少しずつ水泳に対して熱が冷めたような感じがします。
―コロナによって、観客も含めた競泳への関心が薄れてしまったのですね。そこからSNSでの発信に関心が向いていくのでしょうか?
試合がある少し前、コロナに入ってすぐのタイミングで、後輩から「TikTokでバズっている義足の人がいるよ」と連絡がきたんです。そのときTikTokがどのようなアプリなのかすら知らなかったのですが、教えてもらった人を調べてみたら、「自分にもできそう」と思って2週間後には動画を投稿。10本も投稿していないのですが、そのうち1400万回再生を超える動画が出てきて、再生数もチャンネル登録数も鰻登りで増えていきました。今ではTikTokは110万人、Instagramは10万人のフォロワーがいます。自分のなかでは、競泳の大会に感じていた緊張感やゾクゾク感が、SNSの再生数にシフトしたんだと思います。画面を見ているだけなのに、試合に出ているみたいに「どこまで伸びるんだろう」と夢中になって。バズっていくときの高揚感が自分には合っていて、すごく楽しいんです。
―水泳をやりながら、SNSでの発信も積極的に行なっていました。長年続けた水泳を辞め、自らの発信を1本に絞った理由を教えてください。
2022年4月にドイツのベルリンではじめて海外遠征し、海外の国際試合に出てアジア記録を3つ更新しました。さまざまな問題はあったものの、自分のなかでは、これが限界だと区切りをつけたかったのが、水泳から離れた1番大きな理由です。義足をもっとたくさんの人に知ってもらいたいと思ったとき、障がい者スポーツをはじめるのがセオリーですが、障がい者スポーツを観ている人は、障がい者の方か周囲の家族がほとんどで、ワールドカップみたいな盛り上がりは少ない。自分の義足をもっと観てもらうためには、自分が健常者のステージに入っていくことだと思い、ファッション業界やモデル業界に飛び込んでいくことに決めました。
―まさに、フィールドや壁を越えていくような活動ですよね。義足や障がいを知ってもらうには、どのようなことが重要でしょうか?
どこで障がいを感じるかと言うと、健常者と障がい者の心の間に感じるんですよ。「申し訳ないから話題に出さない」とか、「近寄らない方がいい」みたいな。自分からすると遠ざけられているほど、どんどん差別されているような感覚になるので、もっと近寄ってきてほしいし、気になることがあったらなんでも聞いてほしい。義足が気になるなら、子どもたちにも「これどうなってるの?」と素直に聞いてもらえるような環境にしていきたいです。
自分だけの個性を活かし、モデルとして躍進
―モデル活動もスタートして、フォロワーも着実に増えていきますが、有名ラグジュアリーブランドとコラボレーションを実現したきっかけを教えてください。
最初はパラリンピック選手として、DIESELが記事を書いてくださいました。サングラスをかけて、レザージャケットを羽織って、全身決めたスタイルで撮影に行くと、印象が変わって気に入っていただけたみたいで。さまざまなイベントに呼んでいただき、義足も丸出しにして目立ちに行っていました。それが、ファッションと融合して、弱みだった部分が強みになった瞬間。「強み」というと、自分のいいところを探そうとしがちですが、みんなと違う恥ずかしい部分も、個性として強みにできる部分だと思うんですよ。たとえば、杖をついている人も、その杖を金ピカのドラゴンみたいに、悪魔が使いそうな杖にアレンジしてみたり。弱みは強みに変えられるポイントなんだな、と実感。そのイベントを皮切りに、さまざまなブランドから声をかけていただく機会が増えていきました。
―今回、レッドリストでのルックも最高にかっこいいですよね。どういった経緯でコラボレーションが実現したのでしょうか?
撮影に誘ってくれた方が、元々自分のファンの方だったんです。希少な存在でもある義足の自分が、絶滅危惧種にインスパイアされたスニーカーを履くかっこよさを見い出してくれて。レッドリストをきっかけに、いろんなお仕事に呼んでいただけるようになりました。自分自身も絶滅危惧種の動物をさほど気にしてきませんでしたが、そんな環境を作り出しているのは、わたしたち人間。目を向けていきたいと思っていたので、レッドリストからお話をいただいたのはすごく嬉しかったです。ファッショナブルに希少動物の保護を啓蒙する姿勢が、自分に響いて。とっつきにくい社会問題も多いですが、レッドリストは「おしゃれにアプローチしてもいい」と表立って言える代表的なブランドです。偽善という人もいるかもしれませんが、善なだけいいと思っています。やれることはどんどんやっていきたいし、ボランティアでも取り組めることは積極的に参加していきたいです。
―活動の幅をどんどん広げ、2022年GQメン・オブ・ザ・イヤーでインスピレーショナル・インフルエンサー賞を受賞されましたね。心境はいかがでしょうか?
パラスポーツでの実績や、ファッション業界で「義足」という新しいジャンルをファッショナブルに切り開いたところを評価していただいたと思います。最初受賞の連絡を受け取ったときは、緊張して体が固まりましたね。今後も活動のスタンスは変わりませんが、自分の義足を表に出すことに確証が得られました。自信を持ってやっていたのですが、「本当にこれでいいのかな?」と不安になることもしばしば。今回の受賞で「これで良かったんや」と、ファッション業界の道を目指してよかった、と思えるきっかけになりました。
―今後の活躍も楽しみです。今後やってみたいことや展望を教えてください。
コレクションのランウェイを歩くのが、トップにある夢です。あとは、小規模でも子どもたちが自由に生きられるような環境を与えたい。大人が子どもに勝てない部分って、夢の数だと思うんですよ。子どもの頃は「スーパーマンになりたい」と自由に夢を描けるのに、大人になると「収入が少ない」「家族もいるし」と、選択肢を狭めて夢の制限をかけてしまう。ずっと夢を持っていてほしいと子どもに伝えるようなことができればと考えています。親や先生に何かを言われても、まだまだみんなも人生という旅の途中。誰も答えはわからないので、自由に自分の好きな人生を歩んでほしいです。
―最後に、KawaKさんを突き動かす原動力を教えてください。
失敗を重ねること。「どうせ失敗するから辞めとけ」と、だんだん自分の失敗を数えはじめるのですが、そんなことよりどんどん失敗を重ねて、挑戦した方が最後は豊かな人生になると思うんです。傷ひとつない武士よりも、訓練して傷まみれの方がかっこいい。今後も泥臭くいこうと思います。
KawaKさんが積極的に参加されている環境活動REDLIST IMPACTS(レッドリスト・インパクト)動画
【REDLIST】
公式Instagram:https://www.instagram.com/redlist.official/
公式Twitter:https://twitter.com/RedlistOfficial
公式LINE:https://lin.ee/QFY1MpK
文:Nana Suzuki
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