

ラグジュアリーブランドの海外支社で働く――。そんな憧れを実際に叶えた、日本人男性・野﨑健太郎さん(ペンネーム)が綴るコラムです。日本人がグローバルで働く上で知っておきたいこと、海外のマーケット動向、キャリアアップしていくためのヒントとは……?これまでたくさんの挑戦と成功を重ねてきた野﨑さんだからこその視点や気づき、エピソードなどを交えながらお届けします!
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5月の日本は、藤などの花々が美しい清々しい季節。いつも暑いばかりの東南アジアからすると羨ましい季節です。4月に始まった新生活もひと月が過ぎて、「順調!」という人もいれば、「イメージと違った」とか「全然馴染める気がしない」など、新しい職場や新生活に翻弄されてしまう季節でもあるかもしれません。
私はこれまでの職場で「なんか違うな」と思ったら、あまり我慢せずに上司に相談したり、思い切って転職して、自分の「理想の職場、働き方」を追い求めてきました。その結果、現在のヨーロッパ系外資系ラグジュアリーのシンガポールオフィスにたどり着き、理想に限りなく近い仕事に就くことができました。今回はそんな私の国内外の転職の経験談をお話したいと思います。一般的な転職のノウハウではなく、今回は私の個人の主観による“俺の転職談”をお話ししたいと思います。もし転職を考えている方、今の職場でモヤモヤしている方が居れば、少しでも参考になればうれしいです。
私がこれまで追求してきた「理想の職場」とはどんな職場なのか。それはこんな職場です。
- 「自分らしくいられる」場所である
- 時間と場所に縛られ過ぎずに、柔軟に働ける
- 楽しくも学びと成長があり、プロフェッショナルな集団である
- 安定して程々の収入が得られる
そして今、ありがたいことに自分が描いた理想に近い職場で働くことができています。自由で楽しく学びが多く、成長できるチャレンジがあり、時間にも余裕があります。収入も程よいどころか、期待していた以上。とはいえ、収入を最優先にするのであれば金融や不動産、起業などを目指すべきで、アパレルの仕事を選んでいる時点で、収入は二の次だと割り切ってこれまでやってきました。
「柔軟に働く」という点では、店舗勤務だと時間・場所の制限があるため、自然とオフィス勤務を目指すようになりました。また常に「成長や学び」を求めるため、未経験のことにチャレンジしていきました(飽きっぽいとも言うのですが…笑)。当時はまだ若かったので「チャレンジしよう」と鼻息荒く構えていたわけでもなく、新しい業務があると「面白そうだからやってみようかなー」くらいの軽い気持ちでなんでもやってみました。
「規模が小さい」もしくは「新規参入」のブランドで働く
私がアパレルのキャリアをスタートしたのは2005年の秋、28歳のとき。GAPグループのパートタイマー(時給800円!笑)でした。そこそこの大学を出ていたものの、ワーホリなどに出ていて、「本当に自分が好きなのはファッションに関わる仕事だ」と気がついたときは、すでに28歳になっていました。当時の「GAP」は店舗数も社員も多く、出世競争は激しそうに見えました。
その年、「GAP」の高級ラインである「Banana Republic」(以下、「BR」)が上陸し、私は銀座店のオープニングスタッフとして働き始めました。「BR」の店舗は銀座につづき、六本木、日本橋にもほぼ同時にオープンし、その後も順調に店舗を増やしていきました。新店舗にはマネージャーもスタッフも必要ですから、新たな空きポジションが発生し、同期で入ったパートタイマーやフルタイマーが次々と社員あるいはマネージャーにステップアップしていくのを目の当たりにしました。私はまだ販売職に慣れることで精一杯でしたが、この時「新規参入ブランドは出世するチャンスが多くある」ということを実感しました。
やがて、フルタイマーと呼ばれる契約社員(時給1200円!)になり約3年が過ぎ、店頭で販売をしている時にある転職エージェントの方に声をかけられました。某T社の日本参入に伴い、オープンする店舗の販売スタッフとして働かないか、と誘われたのです。大阪勤務が条件だったために丁重にお断りのお手紙を当時のCEOへ送りましたが、このことがきっかけで「自分には販売スタッフとして高い価値があるのかもしれない」と感じ、エージェントの方に相談しながら、初めての転職活動をスタートしました。
「BR」を辞め、「ZARA」、「APC」、「Van Cleef Arpels」などの面接を受けましたが、結果は不採用ばかり…笑。結局、某日系のアパレルで働いたのですが、カルチャーが合わなくて半年で退職。その次に働いたところも同じく合わず、半年で辞めてしまいました。そんな中、T社が東京に店舗を立ち上げるという話があり、以前送った手紙を覚えてくれていたCEOから直々に連絡をいただき、ついにT社に入社することになりました。
小さなブランドだからこそ得られた経験
当時のT社は新規参入であると同時に規模の小さいブランドでした。そのため、販売スタッフでも幅広い業務をこなさなくてはなりませんでした。英語をある程度話すことができた私は、毎月のVMDのセットアップとレポート、店舗でのイベントのサポートや海外からのヘルプのホスト役、PRイベントのサポートなどを買って出てやっていました。そうした仕事も楽しかったので、家に帰ってからもPCでマニュアルを作るなど、工夫しながら効率的に取り組みました。あるときは、北京と上海での新店舗立ち上げのお手伝いするチャンスをいただき、人生で初めての海外出張に行くこともできました。販売以外の業務について、特に手当などを貰っていませんでしたが、仕事自体が楽しかったのでまったく気にしていませんでした。
しかし、約3年が過ぎた時、店舗での勤務シフトに毎日残業が含まれたシフトが組まれたのです。店長に抗議しましたが受け入れられなかったので、すぐに転職することを決断しました。同僚たちはT社のカリスマ的デザイナーのファンの人が多く、「なんで辞めるの?」という感じでしたが、僕自身はあまり迷いがなく、2社の面接を受け、LVMHグループの会社に転職しました。今考えるとこの判断は正しかったと思います。
私はそのブランドのファンではありませんでしたが、歴史があり、レディースの販売やオートクチュールなど、これまで知らなかった世界を知る事ができ、前職よりも大きいチームで動くという経験ができました。販売のスペシャリストとしての面接だったのですが、入社の際、リテールマネージャーから「あなたなら未経験でもできると思う」と言っていただき、アシスタントブティックマネージャーとして入社しました。売り上げが伸び悩んでいた時期でしたが、英語を活かしてインバウンド客を取り込み、半年も経たないうちに担当カテゴリーの売上を前年比でプラスに持ち込むことができました。そして1年が過ぎた頃、売り上げは鰻登りに上がっていました。しかしその頃、頓挫していた販売プロジェクトがスタート。スペシャリストが必要となり、私はスペシャリスト職にオファーされました。マネージャーとして売り上げを伸ばすのが予想以上に面白かったので、スペシャリストになるには迷いがありましたが、「あまりこだわらずにやれることをやろう」と思い、引き受けることに。今考えるとこの経験も次の仕事の大きな糧となりました。
スペシャリストとして2年目に入った時、同じようなプロジェクトが別ブランドで始まり、日本のヘッドが必要だ、という話が舞い込みました。特に転職する予定はなかったのですが、転職エージェント・エーバルーンの皆様に背中を押していただき、面接を受けることに。すると、ヨーロッパ本社の責任者はT社の時に連絡を取り合っていた本社の人が転職して責任者になっていることが発覚。そして、自分がマニュアルをつくったりしたことを覚えていてくれて、日本リージョンのヘッドとして、オフィスのマネージャーのポジションをオファーしてくれました。彼との電話での最終面接は本当に友達との会話のような世間話のみでした。離職を伝えた現職のLVMHグループの会社からカウンターオファーもあり、最終的に給料は1.5倍以上に膨れ上がりました。
その後、この会社内で海外転職へと繋がっていくのですが、ここまでの国内で転職に成功したポイントをまとめると、
- 自分の理想を具体的に考えて躊躇せずにそれを目指した
- 小さな会社で積極的に業務を担当する事で、様々な経験を積めた
- 英語で本社が絡む仕事をした
- 新しいプロジェクトに挑戦した
などが挙げられると思います。また、信頼できるエージェントのあと押しなくしては、この案件は決まらなかったと思うので、エージェントの方とのご縁も大切だと思います。
このようにして、2005年9月に28歳で時給800円のアルバイトの販売員からスタートしたキャリアは、2014年11月までの約9年間で年収約1,000万に到達し、大きなブランドのオフィス職で、一部門の日本の責任者として自由に日本全国の店舗を駆け巡り、大勢の前でのプレゼンをしたり、ヨーロッパ本社への研修へ行ったり、自分が思い描いていた理想に限りなく近い職場で働き始めることができました。販売スタッフからオフィスのマネージャーになったので、次から次へと大きな壁にぶつかりましたが……。
次回、この続きをお伝えしたいと思います。
■著者プロフィール
野﨑健太郎
大学卒業後はモデルとして活動し、国内外のショーや広告などに出演。28歳のとき、大手量販店で販売のアルバイトを始める。その後、いくつかのラグジュアリーブランドでのストア、オフィス勤務を経て、2021年12月より某ブランドのシンガポール支社に勤務。趣味は高校時代から続けているサーフィン。
■ペンネームへ込めた想い
野﨑健太郎はペンネームで、尊敬する祖父の名前です。祖父は明治生まれで、西郷隆盛を思わせるような大きな体と味海苔をおでこに張り付けたような太い眉の持ち主でした。東京・五反田を拠点に京浜工業地帯で鉄を拾って歩き回り、町工場を営んでいた祖父。信条は「上天丼を食べたいなら、人の倍働け!」でした。残念ながら50代で亡くなり、直接会うことは叶いませんでしたが、この言葉は親戚を通じて私の耳に届き、私の心に深く刻まれています。祖父のハードワーク魂が自分に宿ることをこのペンネームに込めました。
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