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【連載:ゆるふわファッション講義】第6回 私たちは“二つの身体”を持っている──ヌード、義足、厚底シューズ

スポーツから考える「ファッションと身体」

ゆるふわファッション論のトップ画像

Image by: FASHIONSNAP

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 「ゆるふわ大明神」の異名を持ち、長年京都を拠点に大学でファッション論を教える傍ら批評家・キュレーターとしても活動してきた京都精華大学デザイン学部教授の蘆田裕史氏が、「ファッション」や「ファッション論」について身近なものごとから考えるコラム連載。1990年代~2010年代のインターネット以後の日本ファッションの流れをたどった前回に続く第6回は、スポーツとファッションから考える「衣服と身体の関係」について。

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 僕は子どもの頃から運動が得意ではなく、そのせいもあってか、ふだんからスポーツをしたり観たりすることがあまりありません(なぜか『アオアシ』や『ジャイアントキリング』のような、スポーツをテーマにしたマンガはわりと好きなのですが)。けれども、スポーツは身体の問題にかかわるために⎯⎯言うまでもなく、ファッションも身体と切っても切り離すことができません⎯⎯、いくつかの点で興味を持っていたりもします。こんな話をしようと思ったのは、つい先日行われた箱根駅伝について、ちょっと面白い観点からの記事を見つけたからです。

 この記事で書かれているような、「アスリートが何を着るか(履くか)」についての話は、まさにファッションと身体の問題にかかわるために、スポーツに縁のあまりない僕でも興味を持っていたりします。

 たとえば、少し前に、陸上競技において「ナイキ(NIKE)」の「ヴェイパーフライ」(ナイキの厚底レーシングシューズ)が物議を醸したことがありました。ヴェイパーフライを履いた選手が軒並み良い記録を出したために、靴に関してある種の規制がされることになったのです。アスリートがさまざまなブランドの靴を履いているということは、みんな同じ靴を履いて競技しているわけではないということを意味します(あたりまえですね)。なぜ違う靴を履くことが許されるのに、履いてはいけない靴が出てくるのでしょうか。(文:蘆田裕史)

ナイキの「ヴェイパーフライ 3」

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義足の選手が勝つのは「ずるい」?

 ところで、さきほど僕はスポーツをあまり観ないと言ったのですが、実は関心を持っているアスリートもいます。それは、ドイツのマルクス・レーム(Markus Rehm)という義足のアスリート⎯⎯走り幅跳びの選手⎯⎯です。レームは、2021年に東京オリンピック/パラリンピックが開催されたときに日本のマスメディアでも取り上げられていたので、記憶に残っている人もいるかもしれません。

 そのときにレームが話題になったのは、端的に彼の記録がずば抜けているからです。どの程度の記録を出しているかというと、2014年のドイツ国内の陸上選手権で、健常者と一緒に競技に参加し、優勝したくらいです。通常であれば、この選手権で上位に入賞した選手がヨーロッパ選手権に出場するようなのですが、レームはそこへの出場が認められませんでした。理由としては、「義足が有利に働いている」とみなされたからです。

東京オリンピックで走り幅跳びに出場した際のマルクス・レーム

Image by: Carmen Mandato/Getty Images

 僕の素朴な素人意見で言えば、「健常者も靴を履いているんだから、義足をつけていても問題ないんじゃない?」と思ったりするのですが、どうもレームのような義足のアスリートが結果を出すのは「ずるい」と思う人も多いようです。僕はスポーツ研究者ではないので、この問題に対する結論を出すことまではできませんが、ここではファッション論の立場からひとつの視点を提供しようと思います。それは衣服と身体の関係についてです。

なぜ人は公共の場で裸になってはいけないのか

 少しスポーツから離れることになりますが、みなさんは「なぜ公共の場で裸になってはいけないのか」と考えたことはあるでしょうか(ちなみに僕はずっとこの問いについて考え続けているのですが、まだ明確な答えを出すことができません)。この問題を考えるにあたって、ヒントを与えてくれているのが、美術史家のケネス・クラーク(Kenneth Clark)という人です。クラークは『ザ・ヌード』という本のなかでこんなことを言っています。

英国語は、巧みに幅広くその語彙を活用し、はだか(naked)と裸体像(nude) とを区別している。はだかであるとは着物が剥ぎ取られているということであり、そこにはたいていの者ならそんな状態になれば覚えるはずの、当惑の意が幾分か含まれている。*¹ 

 西洋の古典的な絵画では、しばしば女性の裸体画が描かれてきました。こうした絵画は「ヌード」と呼ばれますが、それを観るときに恥ずかしさを覚える必要はないと考えられています。一方で、ある種の裸体画は観るのがためらわれたり、実際に物議を醸したりもします。美術史で言えば、マネの『草上の昼食』や『オランピア』などがわかりやすい例でしょうか。これらはクラークの言葉を借りれば「ネイキッド」であり、「着物が剥ぎ取られた状態」だと言うのです。つまり、同じ「裸体」であっても、その意味合いは二通りあるということです。

*¹ ケネス・クラーク『ザ・ヌード』(高階 秀爾、佐々木 英也 訳)筑摩書房、2004年、18頁

ザ・ヌード

ザ・ヌード

著: ケネス・クラーク 翻訳: 高階 秀爾、佐々木 英也
ブランド: 筑摩書房
メーカー: 筑摩書房
価格: ¥2,451(2026/01/22現在)

私たちが持つ“二つの身体”⎯⎯「社会的身体」と「生物学的身体」

 私たちは、生まれた直後から⎯⎯本人の意志とは無関係に⎯⎯衣服を着せられます。物心がついてからも、自宅以外では基本的に服を着て生活し、それが死ぬまで続きます。つまり、私たちの身体はデフォルトとして着衣の状態で存在しているのです。そのため、裸でいることはけっして自然の状態ではなく、クラークが言うように「衣服が剥ぎ取られた」不自然な状態なのです。私たちが社会生活を送る上での前提がこの状態になるので、これは「社会的身体」と呼ぶことができるでしょう。

 一方で、私たちの生活のなかで、着衣の状態がデフォルトとみなされない場合もあります。病院で患者としてふるまうときがそのわかりやすい例でしょうか。私たちは治療を受けるときに、必要であればお医者さんや看護士さんの前で服を脱ぐことを拒みません。通常の社会生活であれば、人前で服を脱ぐというのは恥ずかしさを覚える行為のはずなのに、です。このとき、私たちも医療従事者も、身体を生物学的なものとみなしていると言えるでしょう。衣服という社会生活を送るための道具は、医療行為にとっては不要であり、身体を社会的なものと見ることもしません。つまり、「生物学的身体」としては脱衣の状態がデフォルトなのです。

 こうした「二つの身体を持つ」という考え方は突飛なものではありません。歴史家のE・H・カントーロヴィチ(Ernst Hartwig Kantorowicz)は『王と二つの身体』という著書のなかで、中世のイングランドでは王が「自然的身体」と「政治的身体」の二つの身体を持っているとされていたことについて、詳細に論じています。前者は人間としての身体で、王といえども年老いたらその身体は死を迎えます。けれども、政治的には王というものは不滅のものであり、肉体が滅びようともその身体は続くものだとみなされたわけです。言うまでもなく、私たちは王ではないので政治的身体を持っているわけではありませんが、身体を生物学的な(自然的な)ものとみるか、社会的なものとみるか、二つの場合がありうるというのは王の場合と類似していると言えるでしょう。

王の二つの身体 上 (ちくま学芸文庫)

王の二つの身体 上 (ちくま学芸文庫)

著: カントーロヴィチ 翻訳: 小林公
メーカー: 筑摩書房
発売日: 2016/10/14
価格: ¥1,705(2026/01/22現在)

 さきほどのクラークの話に戻ると、二種類の身体があるというのは「ヌード」と「ネイキッド」という二種類の裸があるということとパラレルです。私たちが身体を生物学的なものとみる場合には、そこに性的な含意をくみ取ったり恥ずかしさを覚える必要はありませんが、身体を社会的なものとみるのであればその逆になります。手術台の上では裸になっても罪にならないけれども、街中で裸になると罪になるというのは、前提とされる身体のあり方が異なっているからなのです。

メガネはOKで、義足はNG? スポーツと身体の境界線

 さて、ここでスポーツの話に戻りましょう。スポーツを行うのは、生物学的身体と社会的身体のどちらなのでしょうか。もし前者であれば脱衣の状態、つまり衣服を身につけていない、まさに「裸」の状態がデフォルトのはずです。そうだとすると、服を着ることも、靴を履くこともしない、生身の身体で勝負をするべきだということになるでしょう。実際、古代ギリシャのオリンピックは裸で競っていたそうです。もし後者、つまり社会的な身体で勝負をするのであれば、生身の身体、つまり生物学的身体で争うという考え自体が不要なはずです。服を着るのも、靴を履くのも認められる⎯⎯というか、それがデフォルトです⎯⎯し、もっと言えば、義足をつけるのも問題ないはずです。

 それでも、「やっぱり靴と義足はちょっと違うような気がする」と思う人もいるかもしれません。そういう人にはメガネ(あるいはコンタクトレンズ)のことを考えてもらうとよいように思われます。「義足をつけて好記録を出すのはずるい」と思う人はいても、「メガネをかけて好記録を出すのはずるい」と思う人はほとんどいないのではないでしょうか。

 視力の悪い人はメガネをかけないと生活に支障が出てしまいますし、野球やサッカーをうまくプレイすることもできません。そして、おそらく走り幅跳びの記録にも影響が出るでしょう。メガネと義足はどちらも生活のための道具であって、どちらも社会的身体の一部です。違うことがあるとすれば、利用者数が圧倒的に違うことくらいでしょう。もし、義足がメガネのようにマジョリティのための道具だったとしたら、おそらく使用が認められていたにちがいありません。もしスポーツを行う身体が生物学的身体ではなく社会的身体なのであれば、衣服のように生活のために身につけるものはすべて認めるのが合理的な判断なのではないでしょうか

……と、身体についてさも色々わかっているように書いてきたのですが、実は、ここで書いた二つの身体の話はごくごく最近思いついたアイデアなのです(『王の二つの身体』のことはずっと頭の片隅にひっかかっていたし、クラークのヌードについての記述も前から授業で扱っていたことなのに!)。なので、まだまだ検討の余地がある話だと思いますし、議論のたたき台くらいに考えてもらえたらありがたいです。

★今回のテーマをもっとよく知るための推薦図書
佐藤岳詩『心とからだの倫理学』筑摩書房、2021年
「それでもやっぱり義足はなんかずるい気がする」という人は、この本のドーピングについての章を読んでみてください。ドーピングも一般的には「ずるい」とされますが、肯定する意見もあったりするのです。

菅俊一・田中みゆき・水野祐『ルール?本 創造的に生きるためのデザイン』フィルムアート社、2024年
「ルール上、義足は問題がある」と考える人には、「そもそもルールって何のためにあるのか?」「どのようにルール作りをするべきか?」を考えてみてほしいです。

荻上チキ『社会的な身体 - 振る舞い・運動・お笑い・ゲーム』講談社、2009年
「社会的身体」という概念は僕の独創ではなく、すでに色々な人がこれについて考えています。この本はファッション論的な観点とはまったく違いますが、生物学的身体と社会的身体の違いを考える上で参考になると思います。

edit: Erika Sasaki(FASHIONSNAP)
illustration: Riko Miyake(FASHIONSNAP)

京都精華大学デザイン学部教授

蘆田裕史

Hiroshi Ashida

1978年京都生まれ。京都大学薬学部卒業、同大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターなどを経て、2013年より京都精華大学ファッションコース講師、現在は同大学デザイン学部教授。批評家/キュレーターとしても活動し、ファッションの批評誌「vanitas」編集委員のほか、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。主著は、「言葉と衣服」「クリティカル・ワード ファッションスタディーズ」。

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