タクシー運転手やチキン店オーナーへ転身──香港の記者たちのいま
2021年に『蘋果日報』が廃刊になるまで、スタンリー・ライは26年間当紙のフォトグラファーを務めた。PHOTO: VIOLA ZHOU
2021年に『蘋果日報』が廃刊になるまで、スタンリー・ライは26年間当紙のフォトグラファーを務めた。PHOTO: VIOLA ZHOU
タクシー運転手やチキン店オーナーへ転身──香港の記者たちのいま
2021年に『蘋果日報』が廃刊になるまで、スタンリー・ライは26年間当紙のフォトグラファーを務めた。PHOTO: VIOLA ZHOU
独立系ニュースメディアが相次いで閉鎖し、数百人のジャーナリストが職を失った香港。その多くは、ジャーナリズムの世界と決別した。
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By Viola Zhou Translated By Nozomi Otaki
スタンリー・ライにとって、タクシーの運転は速報の写真を撮るのとよく似ている。どちらも徹夜で働き、確かな運転の腕と、香港中心部の入り組んだ道を迷いなく進める優れた方向感覚を必要とする。最大の違いはスピードだ。かつての彼は、ベストショットを捉えるべく、社用車のトヨタカローラを時速180キロで飛ばしていた。しかし今は、交通ルールを順守している。新聞の読者とは違い、乗客にとって、数秒の遅れくらいは大した問題ではない。
約30年間フォトジャーナリストを務めたライは、53歳にして転職を余儀なくされた。昨年の夏、ライの勤務先だった香港で最も有名な民主派新聞『蘋果日報(アップル・デイリー)』の編集室が国家の安全を脅かしているとして、警察が強制捜査を実施。本紙は廃刊に追い込まれ、数百人のジャーナリストが一時解雇された。
他のニュースメディアに就職した記者もいたが、ライは夜勤のタクシー運転手になることを選んだ。「今までずっと運転ばかりしていました」と彼は振り返る。「これが一番早く、一番簡単な転職だと思ったんです」
それから4ヶ月、ライは新しい仕事にすっかり馴染んだ。金曜の午後、彼は真っ赤なタクシーに乗り込み、ダッシュボードに3台のスマホを取り付けた。1台目はナビ、2台目はトランシーバーとして、3台目は音楽を流す用だ。この日のBGMは、政府をあざ笑う2005年の広東語ヒップホップ「WTF」だった。
「俺たちには揺るぎない意見がある/お前らは耳を貸さない/黙らせようとしても 俺は絶対に黙らない」と歌詞が続く。
私を日没1時間前に車に乗せた後、ライは2台目のスマホに「おはよう」と話しかけた。同業者と交通情報を共有し合い、長い夜をともに過ごすタクシー運転手にとって、挨拶は重要な儀式だ。ライのチャットのひとつは、『蘋果日報』の記者からタクシー運転手に転身した4人の仲間と繋がっていた。「今日の仕事も頑張ろう」
ライは、ここ数ヶ月で報道の道を諦めざるを得なくなった大勢の香港の記者のひとりだ。反対勢力への全面的な弾圧の一環として、中国当局は、つい最近まで臆することなく政府の悪事を暴き、反対派の意見を放送し、民衆を政治運動へと駆り立ててきた、活気に満ちたニュース業界に狙いを定めた。
香港でも特に影響力の大きい独立系メディアが相次いで閉鎖し、なかには資産が凍結され、編集責任者が投獄されたところもあった。ウェブサイトはダウンし、ニュースの更新通知が止まり、数百万人のフォロワーを抱えるSNSアカウントが消滅した。
政府官僚に鋭い質問を投げかけていた最前線の記者たちも、一斉に沈黙した。なかには数十年に及ぶ経験とともに、きっぱりと仕事を辞めた記者もいる。ライの場合は、特ダネを伝える場所が新聞の紙面からタクシーの車内へと変わった。
かつて英国の植民地だった香港は1997年、この地区が中国本土にはない市民的自由を享受するという約束のもと、中国に返還された。他の場所には存在しない報道の自由のもとで、のびのびとしたメディア業界が育まれ、その結果、非常に競争心が強く、攻撃的で、読者獲得のために熾烈な戦いを繰り広げることで有名な記者たちが誕生した。元国家主席の江沢民も、香港の記者の質問は「ナイーブ」だが、ネタを得るための足だけは誰よりも速い、などと皮肉を飛ばした。
報道が国によって厳しく規制される他の地域とは異なり、香港の記者はしばしば政府高官を風刺するミームを作り、反体制派を取材し、政界やビジネス界のエリートに関するスキャンダルを暴いてきた。
このような記者たちは、常に恥ずべき歴史を消し去り、情報を統制しようとしているこの一党独裁国家にとっては非常に不都合な存在だったが、自由な経済の中心地や中国の世界への玄関口としての評判を損なうことなしに彼らの口を塞ぐことは、簡単ではなかった。返還当時、香港の経済規模は中国の18%だった。現在その数字は2%未満で、自信を取り戻した中国は、ついに煩わしいジャーナリストたちを黙らせる方法を見出した。
このように無慈悲な効率性をもって、多くの記者が永遠にペンとカメラを置くことになった。そのひとり、チャン・サンチンは、代わりに揚げ網を手に取った。
チャンは『蘋果日報』の経済記者として、10年間おとり捜査、香港の億万長者の資金調査、スタートアップ企業に関する映像制作などを行なっていた。
今年1月、フライドチキンの脂っこい匂いが充満している小さな店で彼に初めて会ったとき、35歳の彼はエプロンを身につけ、忙しなくレジを打っていた。しばらく待っていると、チャンは時間を見つけ、ソーシャルディスタンスのため透明なプラスチックの板で仕切られたテーブルの前に座った。
「もうジャーナリストであることに何の意味もありません」
チャンは昨年6月の『蘋果日報』の最後の日、同僚と一緒に泣き、支持者たちに挨拶したことを振り返った。警察に資産を凍結され、国家の安全を脅かしたとして幹部が告発された後、同紙の最終号が印刷された。社員たちは、最終月の給料や退職金を受け取ることなく解雇された。
日々増していく検閲の圧力に落胆し、チャンは記事を書くことから稼ぐことへと焦点を移した。「もうジャーナリストであることに何の意味もありません」とチャンは打ち明ける。「香港は生活する場所ではなく、稼ぐ場所です」
チャンは2週間出前の仕事をした後、近所の繁華街に豚ひざ肉、トマト麺、ミルクティーなど、香港の定番料理を出す小さな飲食店をオープンした。看板メニューは地元のレビュアーから「人の顔より大きい」と評判のフライドチキンレッグだ。
競争の激しい香港の飲食業界において、彼の店は元『蘋果日報』の報道記者が経営する店として、特に注目を集めた。私が店にいるあいだ、チャンは何人かのお客さんに「加油」と声をかけられた。この言葉は、香港の民主化運動の支持者たちがよく使う、連帯を示す表現だ。彼の店に軽食を買いにきた、近所で働いているという記者にも出くわした。「俺は同僚なんだ」と彼は広東語でいい、小さなiPadほどの大きさのチキンレッグを片手に去っていった。
香港のニュースメディアが突然の終焉に追い込まれたのは、数十万人が民主改革とより高度な自治を求めた2019年の抗議運動の後、北京のあらゆる反対勢力に対して行なわれた弾圧の一環だった。中国よる騒動鎮圧の中心となったのが、あらゆる反対勢力を効率的に逮捕し、多くのアクティビストを国外追放に追いやった国家安全維持法の強行だった。
その後、当局は市民の不満に火をつけた人びとへ目を向けた。記者たちだ。
昨年夏に大規模なデモが何度か実施されたあと、民主派メディアはここ数十年で最大規模かつ最も激しい社会運動を取り上げた記事を掲載した。ボランティアが運営する小規模な独立系ウェブメディアは、FacebookやInstagramで抗議運動をライブ配信し、さらに警察がデモ参加者に武力を行使する瞬間を捉えた、大きな影響を及ぼした写真も公開した。
事実に忠実な報道を誓うと同時に、明らかにデモ参加者の側についたメディアもあった。例えば『蘋果日報』は、デモ参加者が集会で掲げていた抗議運動のスローガンを第一面に印刷した。当局に対する直接的な挑発によって、同紙は市民から寄付金を集めたが、同時に彼らは中央政府側の目の上のたんこぶとなった。
中国の国営メディアと政府官僚は、香港のメディアが誤った情報を流し、デモ参加者を援助し、暴力を助長し、中国への憎悪を煽っていると非難した。
12月、警察は別の有名な民主派メディア〈立場新聞(スタンド・ニュース)〉の編集室を強制捜査し、扇動的な出版物を発行した疑いで幹部を逮捕した。フォロワーが100万人を超える同紙のInstagramも突然閉鎖された。その数日後、世界中で広く読まれているネットメディア〈衆新聞〉も、社員の安全を理由に閉鎖を発表した。
抗議運動を追っていた〈Rice Post〉〈癲狗日報〉〈白夜〉などの小さなメディアも、ここ数ヶ月で相次いで運営を停止している。
コミュニケーションを専門とする香港浸会大学の閭丘露薇(ルーウェイ・ローズ・リーチョウ)教授は、香港では記者たち自身が社会運動の政治勢力となり、その影響力のせいで当局に目をつけられたと指摘する。「特定のメディアをターゲットにすることで、萎縮効果が生まれます」と教授は説明する。「その結果、主流メディアのオルタナティブな意見がどんどん消えていき、一般市民の情報アクセスが制限されることになりました」
2022年を迎えた香港で、代表的な中国語メディアが相次いで消滅したメディア業界は、すっかり静まり返っていた。ある調査によると、1115人のメディア関係者、すなわち香港の中国語メディアの5人にひとりが、昨年職を失ったという。
立て続けに解雇された記者もいれば、新たな職場に出社する前、オフィスに足を踏み入れることも叶わずに勤務先がなくなってしまったひともいた。ある意味、運転手のライは別の民主派メディアに就職できなくて幸運だったともいえるだろう。
30歳の元『蘋果日報』フォトグラファーは、それほど幸運ではなかった。彼は1月3日に〈衆新聞〉で働き始めるはずだったが、2日の夜、同社は社員の「安全と幸福の確保」を理由に閉鎖を発表した。
『蘋果日報』の最終週、2019年の抗議運動中に同紙に勤めていた20代後半のライターが、編集室にアップルケーキを持ってきた。その頃の彼女は〈立場新聞〉に勤めていて、『蘋果日報』の追悼記事のために元同僚にインタビューを行なった。
12月、彼女の勤務先がさらなる青天の霹靂で同じ運命に苦しむことになったとき、彼女はもう自らの悲しみを吐き出す機会やプラットフォームがないことに気づいた。
「出版物が死んだときも追悼記事を出すべきだと思います」と彼女はカフェで語る。「(〈立場新聞〉の)閉鎖はあまりにも唐突で、追悼記事も出さずに、このまま諦めることなんてできません。だから今ここであなたに話しているんです」
法的リスクを心配し、匿名を条件に取材を受けてくれたフォトジャーナリストのハリーは、『蘋果日報』での職を失った後、出前配達からビーチのゴミ回収、カフェのウェイター、引っ越し業者、エアコン清掃まで、食べていくためにあらゆる仕事をしているという。
「『蘋果日報』が閉鎖したときは、家族全員が死んでしまったような気分でした」
10月、〈立場新聞〉からオファーがあり、ハリーは元の仕事に復帰することができた。しかし、新しい勤め先が再び強制捜査を受けたときの悲しみは、それほど耐え難いものではなかったという。「『蘋果日報』が閉鎖したときは、家族全員が死んでしまったような気分でした」と29歳の彼は打ち明ける。「〈立場新聞〉のときは、どちらかといえば、彼女と別れたときみたいな感じ」
香港の林鄭月娥(キャリー・ラム)行政長官は、いくつかのニュースメディアが閉鎖しても、香港の報道の自由は損なわれないと宣言した。中央政府駐香港連絡弁公室は、〈立場新聞〉をメディアを装った政治団体と呼び、暴動を後押しし、法の支配を損なっていると非難した。さらに、扇動は報道の自由とはなんの関係もない、と主張した。
しかし、香港民意研究所の世論調査では、〈立場新聞〉と〈衆新聞〉が閉鎖を発表した後、住民の62%が香港の報道と情報は「自由ではない」と思うと答え、54%がこれらの閉鎖は政府の説明責任の低下を招くと考えていると回答した。
反対勢力への弾圧は、穏健派とみなされていたニュースメディアをも揺るがした。
2020年に香港で新たに施行された国家安全維持法に抵触することを恐れ、著名な中道派新聞『明報』は、コラムやオピニオン記事で「政府や他の団体に対する憎悪、不満、敵意をあおる意図は全くない」との否認声明文を掲載した。
当局の機嫌を損ねないよう、自己検閲する編集者や記者も増えている。
中央政府寄りの中国語ニュースメディアに勤めるある記者は、会社が政府にとって都合の悪いニュースを報道したくないため、自分と同僚がライバル社に独占情報を流している、と打ち明けた。しかし最近では、スクープネタを渡す記者を見つけるのに苦労しているという。かつて一番に特ダネを掴もうと奔走していた香港の記者たちが、今では特ダネから逃げ回っているのだ。
ほとんどは自由にインターネットにアクセスできるということは、香港のニュース業界は、まだ独立系ニュースメディアが存在しない中国本土と同じではないということだ、と閭丘教授は説明する。しかし、民営メディアへの政府の規制が強まるなか、香港のメディアシステムは、自由主義から権威主義へと根本的に変化しているという。
この変化によって、中国語圏の話題を決定するという輝かしい実績を残してきた業界全体に、絶望感が広まっている。元ジャーナリストたちは、安定した収入もなく、法的リスクが日に日に増していき、自己検閲を強いられるなかで、果たして報道を続ける価値があるのかとジレンマに陥っている。
ハリーは、年下の熱心なジャーナリストたちに、夢を諦めるよう説得しているという。彼らが逮捕される姿を見たくないからだ。「昔は仲間のジャーナリストを『加油』と励ましていました」と彼はいう。「でも、今はいくらかお金を貯めて、他の仕事を探すべきです。もう『加油』とは言いません。もう僕たちの〈油〉は残っていないから」
『蘋果日報』に勤めていた40歳のベテラン記者、アルヴィン・チャンは、他のメディアでフリーランスとして働く傍ら、自身のFacebookページでニュースや自身の分析を公開し、以前の10分の1の給料を稼いでいる。最近の投稿では、彼は海外の研究を引用し、新型コロナウイルスに感染したハムスターを処分するべきだとか、感染を防ぐためにマスクを2枚つけるべきだという地元の微生物学者の主張に疑問を呈した。
私にはこれからも記事を書き続けてほしいと励ましてくれたが、彼はもう記者の仕事を続ける方法がわからない、と告白した。「闇の中に少しでも光を生み出せるなら、いいことだと思う」と彼はいう。「でも、自分の店をやってもなんの解決にもならない。はっきりしているのは、この仕事を永遠には続けられないということです」
インタビューの最後に、チャンはプレゼントがあると言い、彼の『蘋果日報』の名刺を手渡した。彼曰く「限定版」だそうだ。
タクシー運転手のライは、反政府プレイリストの他に、車内にもっと婉曲的な政治的メッセージを掲げていた。それは踊る黄色の獅子の人形だ。中国語の〈黄色の獅子〉の発音は、今や行き詰まった民主化運動の支持者を指す俗語である〈イエローリボン〉と同じだ。私の頭上には、デモ参加者に人気の豚のキャラクターのミニポスターが貼られていた。ライはよく、反体制派を支援するタクシー配車プラットフォームで注文を受けているという。
これらの〈シグナル〉を解読できる乗客との会話は、大いに盛り上がった。ライは、興奮して袖をまくり、上腕の抗議タトゥーを見せてくれたある乗客のことを、こう振り返る。「香港のひとには、気持ちを吐き出す場所が必要なんです」と彼はいい、当局に密告されるかもしれないという恐怖が大勢の人びとの口を塞いでしまったと語った。「私はセラピストみたいなものです」
ライは、乗客に『蘋果日報』で働いていたことを明かさないようにしているという。あるとき、彼の過去を知った乗客が、多額のチップを払うと言い張った。そんなことは2度と御免だ、誰にも同情されたくない、と彼はいう。
ライは夜遅くに香港の華やかなオフィス街を走りながら、自らのジャーナリズムのキャリアを振り返った。
彼は大学には通っていない。1990年頃にメディア業界に入り、香港の英字新聞『サウスチャイナ・モーニング・ポスト』の英国人編集長のお抱え運転手のような仕事をしていた。空き時間に同僚から暗室でフィルムを現像する方法を学び、すぐに自らカメラを手に取るようになる。1995年、『蘋果日報』の創刊1ヶ月後に入社し、廃刊になる日まで勤めた。
スクープやゴシップをふんだんに取り上げる同紙の戦略は、商業的成功へとつながった。そのおかげでライは地震から市民の暴動、香港の悪名高い犯罪組織まで、さまざまな速報の最前線に立ってきた。彼は米国、フランス、北朝鮮を訪れたときの写真を見せてくれた。ドローンが普及する前は、海で発見された遺体を撮影するために、会社にヘリコプターを貸し切ってもらったこともあったという。
ライの習慣は、転職してからも変わっていない。中身はカメラから小銭や車用洗剤に変わったものの、記者時代と同じ重いバックパックを背負い、のど飴を食べながら一晩中起きている。フォトジャーナリストたちが愛用していた同じ店で食べ物を買い、以前はテレビ局のバンが停まっていたヴィクトリア・ハーバーを臨む駐車場で食事をする。
私たちが中環(セントラル)の海岸沿いで立ち止まると、彼はそこでカメラに向かってためらいがちにポーズをとった。以前の彼は、カメラの反対側に立つことに慣れ切っていた。成人期の大半をジャーナリストとして過ごしたにもかかわらず、彼はもうニュースを読んだり聞いたりしないという。「もう自分にはなんの関係もないことです。ニュースを聞いても何も変わらない」と彼はいう。「政府が言うことが全てだから」
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