Image by: FASHIONSNAP
コンピューターグラフィックスなぞの似非に慣れてしまった現代に於いて、別の方法を以て、我々のふやけ切った脳髄を刺戟し、我々、生の人間の想像力の優位を証明してくれる、そんな夜だった。雨、雨、雨。月夜を味方に付けた前回のショーにも似た演出。が、演出と云ったとて、大それたものではない。偶さかに大気の機嫌の為せる振る舞いに乗っかっただけに過ぎぬ。但し、澄み渡った夜空を背景にしていたら、この刺さる感覚は果たして生まれただろうか。そうだ。たまには雨天を喝采する夜があったって好いではないか。
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三月だと云うのに、その日は陽が落ちると更に冷え込んだ。そして「シンヤコヅカ」のショー会場は野外プールである。勿論、屋外だから屋根なぞない。開始時刻が迫っても、雨脚は一向に衰えることはない。慊りない気分は、私の隣に居座って動画を撮ろうとしていた馬鹿な若造の礼儀知らずの態度で助長される仕儀と相成った。エチケットを弁えぬ若造なぞ相手にするのは、この場合は得策ではない。私は、その男を睨み付けていた視線をやおら宙空に向け直した。すると、恰も眼前の雨粒が、水を抜いたプールに張り巡らされた紗のように私の眼に映り、照明に照らされた、薄い玻璃のような紗幕を伝う水泡が、さながら深海より立ち昇ってくる気泡のように思えてきた。ベンチシートに座して居ながら、私の心は海底(うなぞこ)を回遊していた。
寒さは、特段、こちらの想像力を萎ませたりはしない。寧ろ、この悪条件が奏効した。そもそも夜の八時を過ぎて、それも予想だにしなかった寒空が手にした巨大な如雨露より容赦のないシャワーを浴びせられ続け、それでも屋外に打ち捨てられて、濡れたベンチに凝っと座らされて居るこの状況は、だがしかし何故かしら不思議な心地好さを伴うところの、実は、既に定められていた事のようにも思えてくるのだった。雨に打たれながらショーを見ることの、はたから見れば何とも酔狂なこの場面を、端より彼は、用意周到、懐に隠し持っていたに相違ない。どうか降り続いておくれ。彼は心底念じていたに違いない。私は勝手にそう信じていた。
空っぽのプールのなかの竜宮。冷たい雨のカーテンが、私にかの浦島伝説を想起させたのだった。伊豆の岬に海市(蜃気楼)を見に出掛けるのとはわけが違うが、幻影と云う点では似たり寄ったりだろう。神秘の深海に愛される城に、ようこそ。少しくダークな幻想譚が心に沁み込んできた(断りを入れておくが、小塚信哉は浦島伝説に想を得たわけではない)。近代とは少しく異なり、かの物語は、古代に於いては、浦島子(浦島太郎)が、亀に身をやつした異郷の姫(亀比女=乙姫)に出会い、互いに夫婦になる縁だと唆され、異郷に誘われると云う筋書きである。鯛や鮃の舞に眼を奪われながら、日毎繰り広げられる饗宴。水のないプールは、まさしく異郷にて繰り広げられる幻想世界と化した。そこにあるのは紛れもなく今様のピースなのだが、大陸(中国)伝来の神仙思想的背景に根差した浦島伝説、もそっと云えば、鎮魂の祭儀に私は思いを馳せていた。繰り返し云うが、十中八九、小塚にその意図はないのだが、どうも秀でたファッション表現の空間には、リミットを超えたイマジネーションの遊離散逸を容易ならしめる構造が宿っているように思えるのである。表現する側に魂匣が備わっているか否か。それを玉匣(玉手箱)と呼んでも好いと私は信じて止まないクチなのだ。
この寒空の下で誰一人、斯様な馬鹿げた空想に耽る者なぞ居ないだろうと、私は独り、悦に入ったのであった。唯々私は、雨に打たれながら愉快だった。私が痴れ者のように(本人の失笑を買うかも知れないけれど)、彼もまた歴とした痴れ者だと、私は密かに確信している。
小塚は、この不思議な創作の謎を追って、東から西に至る民俗、現代と過去との接点、自らの趣味嗜好、セクソロジー、心理学、宗教学、古典などの諸領域を自在に飛び回り、事実とそれを捉える精神の働きとの間を機織りの杼(シャトル)のように幾度も往復しつつ、一つの想像力のテクスチャー(織物)を織り上げたのである。時には本筋を離れて道草を喰うことをも敢えて辞さない。否、この道草のように見えるモチーフが、テクスチャーの上に面白い模様を描き出すのであってみれば、彼は必ずしも決まり切った結構(目指すところの世界)を提示することのみを目的としているのではなく、寧ろ好んで道草を喰いながら、結構に至る道程そのものを楽しんでいるのではないか、とも思われてくる。インド刺繍を思わせる細密なビーズ表現とか、寒々としたノルディック模様のほっこりとする温もりとか、人魚を彷彿とさせる鱗柄も面白いではないか。尚と腕を上げた観があるぞ。
この作品群は、決まり切ったボキャブラリーだけに頼って書かれたエッセーとは別物である。と同時に、レトリシアンの創作、即ち軽快な遊びの創作のようにも見えるので、深刻好きな輩にはあまり馴染まないかも知れない。そもそも彼は、自らの中に汲み上げた詩と云うものを、ただ技術のジャンルの中に閉じ込めないで、凡ゆるものに通ずる純粋無垢な魂の状態と解しているのだと私は思う。そう云う認識が本当にあるのであれば、小塚は尊敬に値する人物だし、その仕事は凡てポエジーと呼んで憚かるものではない。それに引き替えズブ濡れになった私はと云えば、陸に戻れば、もう二度とこの竜宮へは戻ってくることは出来ないかも知れないことは分かっていたし、鯛や鮃の可憐な舞も、美味な晩餐も、夢のように泡の如く消えてしまうのは分かってもいた。夢のように...泡のように...軈て底冷えのする夜気に当てられてすっかり酔いが醒めてしまった私は、只管に地元の酒場を目指して帰路を急いだのである。(文責/麥田俊一)
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