誰もが安心して生きてゆくことのできる世界を作るために理解したい「フェミニズム」。本連載では、コロナ禍の2022年からニューヨークに滞在中のアーティスト、遠藤麻衣によるアートとアクティヴィズムが混じりあう「現在のフェミニズムの様相」をお届けする。独自の視点と切り口で綴られる連載の第3回。今回は、ネットフリックス(Netflix)で11月23日から公開されたオリジナルドラマ「ウェンズデー(Wednesday)」にフォーカス。
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ネットフリックス「ウェンズデー(Wednesday)」の週間視聴回数が、グローバルTOP10で首位をキープし続けている(2022年12月25日時点)。広報が「クィア・ベイティング(性的指向の曖昧さをほのめかし、世間の注目を集める手法)」として批判されたり、ラテン系アメリカ人の俳優のキャスティングが好意的に評価されたりと、賛否両論が巻き起こっている。
「ウェンズデー」は、「アダムスファミリー」に登場する娘ウェンズデー・アダムスを主人公としたスピンオフ作品。「アダムスファミリー」は、1938年に雑誌「ザ・ニューヨーカー」で連載形式の一コママンガとして登場して以来、幾度もドラマや映画、アニメといった様々なメディア化を繰り返し、親しまれてきた。この一家は、不適切な衝動や共感で連帯し、その理解不能であるが故の奇妙な怖さは、幸せで円満なアメリカの白人家族を基本単位とする社会の異端として描かれてきた。本記事では、「ウェンズデー」に関するいくつかのレビューを基に批判と評価の論点を整理しつつ、過去の「アダムスファミリー」との違いに着目しながら批判的に感想を述べたい。
ドラマ「ウェンズデー」が巻き起こした様々な議論
「ウェンズデー」とクィア・ベイティング
「ウェンズデー」は、社会から疎外されてきたクィアコミュニティの美学を宣伝材料に流用したとして強く批判された。ことの始まりは、公開に先立ったプロモーションとして開催されたアメリカ発の大人気リアリティ番組「ル・ポールのドラァグ・レース(RuPaul's Drag Race)」の卒業生が出演した「WednesGay」というドラァグイベントだ。そこに登場したパフォーマーたちはウェンズデーにちなんだ衣装に身を包み、「ウェンズデーはクィアなアイコン※1」と語った。更にはネットフリックスの公式アカウントで、ウェンズデーとルームメイトであるイーニッドの関係が、友情以上であるかのように感じさせるツイートを発信。こういった広報を受け、一部のファンの間では#Wenclairというフェムスラッシュも誕生し、SNSで盛り上がりをみせた。公開を目前に、ファンの間では「ウェンズデー」がクィアの人や関係を中心的に描くドラマになるのではないかとの期待が膨らんだのだ。
しかし、いざドラマが放映されるとこういった期待は裏切られる。ウェンズデーとイーニッドがルームメイトになったことをきっかけに、互いに正反対の趣味や性格でありながらもかけがえのない存在になっていく過程は描かれたが、それはあくまでも一線を越えることのない“友達”を追認するものだった。さらに、ウェンズデーもイーニッドも、それぞれ気になる異性との恋に悩んでいるようだ。彼らとのデートの成り行きが物語の見せ場としてフォーカスされ、よくある男女の学園ドラマの恋模様が繰り広げられる。
こういった広報からドラマまでの一連の在り方を、クィアな人々を餌で誘きよせるマーケティングの手法「クィア・ベイティング」であるとして、様々なメディアが批判した。カナダの総合エンタメサイトScreen Rant※2は「クィア・ベイティングとは、LGBTQ+の表現がかつてないほど増えている時代において、視聴者を維持するためだけにLGBTQ+の関係をからかう厄介な行為」と説明し、主要なメディアが未だにドラマの中心からクィアなストーリーを排除していると指摘。オーストラリアを拠点とするポップカルチャー専門のメディアJUNKEE※3も人間性よりも利益を優先させる陰湿な戦略であると非難した。
ドラマでは、ウェンズデーの数少ない友達、ユージーンの両親が同性のカップルであることが描かれるが、脇役として登場するだけで、物語の重要なストーリーラインに浮上することはない。こうした細部からも、アクセサリー感覚で性的マイノリティの描写を取り入れようとしているとしか思えない。
「家族の血には抗うことができない」という規範的な呪い
ユージーンの家族を別にすれば、「ウェンズデー」において「家族」は物語の中心的なテーマだ。十代の若者がその親との強いつながりや確執に悩む姿が描かれる。例えばウェンズデーで言えば、母モーティシアから遺伝した幻視能力が、民族的なルーツに接続すると知り、宿命論的な親子関係に対して「母と私は違う」と抵抗するが、物語が進むにつれてそれを受け入れる。他にも、セイレーンであるビアンカは、新興宗教に傾倒する母から逃げるように名前を変え、ネヴァーモア学園にやってきたが、「セイレーンは、鱗を決して取り替えることができない」という呪いのような母の言葉が、彼女の胸に重くのしかかっている。2人の抱える親子関係をはじめとして、本作の舞台となるネヴァーモア学園は社会の“のけ者”が集う寄宿制の学校として描かれるが、同時に、“のけ者”たちの間でさえも、親から子へ継承される“あるべき姿”という通念が強い規範として機能しているように描かれる。
このように、ウェンズデーやイーニッドのラブコメ的な異性との恋愛模様や、ビアンカを始めとした“のけ者”たちの親子関係など、思春期世代の学園ドラマにありがちな平凡なリアリティが浮き彫りになればなるほど、規範的な親密さが避けられない呪いのように全体に通底していることが見えてくる。
アンチ家族としてのアダムスファミリー
奇妙な愛
そもそも「アダムスファミリー」シリーズは、家族の縁や血の繋がり故の親密さを完璧に否定するものであった。1991年に公開された劇場版では、アダムス家の資産を狙って、25年間行方不明になっていたフェスターを名乗る男が現れ、新しく家族に加わることが物語の焦点となる。弟のゴメスをはじめとする一家の奇妙な愛に触れ、男は、アダムス一家を実母よりも本当の家族のように感じはじめる。つまり、母と息子の縦の繋がりを拒否し、偶発的な横の繋がりによって家族を再構成する物語になっている。家族として共にした時間の長さや、血縁関係の有無はストーリーの中で重要視されておらず、自分たちが、今日から“そうだ”と思ったら家族になれると、一般的なものさしでは測ることのできない親密な関係が描かれる。続編の「アダムスファミリー2」でも、規範的な家族に対するアンチテーゼは変わることがなく、官能的な結婚詐欺師の連続殺人者デビーと、殺し殺される関係であるはずのアダムス一家は、世間が理想とするような円満で幸せな家族からかけ離れた存在として共鳴する。
アメリカの植民地主義批判
「アダムスファミリー2」は、理想の家族なる規範が、アメリカの植民地主義の差別的な歴史といかに地続きであるかを痛烈に描き出す。それを象徴するのが、ウェンズデーが参加した「サンクスギビング(感謝祭)」の劇だ。結婚詐欺師デビーによって、ウェンズデーは弟のパグズリーとともに、両親の愛情をたっぷり受けた裕福な家庭の子供だけが集まるサマーキャンプに強制参加させられる。ウェンズデーは湖のほとりで、大人の社会の縮図とでもいうようなスクールカーストの下位に位置づけられ、キャンプのフィナーレを飾るサンクスギビングの劇で、アメリカ先住民のポカホンタス役を演じることになる。イギリス系入植者の娘役を演じるカースト上位のアマンダに、ポカホンタスとして感謝の意を示し、宴をひらかなくてはいけないことになったウェンズデーは、そんなクソくらえな社会の枠組みにあてはめられてなるものかと劇のエンディングを変えてしまう。「血の雨がふるだろう」と宣言し、入植者役の子どもたちやこの劇を作った大人たちを縛りあげ、火の矢を放ち、視聴者に「ここまでして良いの?」という驚きを与えるほど徹底的に劇をぶち壊す。アメリカ建国の歴史以来、白人の中産階級の家族たちが計画し、演じ続けようとする社会の正しさを、場違いな破壊衝動で台無しにするのだ。
「アダムスファミリー」シリーズの思想を象徴するかのようなこのシーンは、もちろん「ウェンズデー」でも印象的に引用されている。同作は入植者以外の視点からサンクスギビングを語り直すことの重要性※4を意識したドラマに仕上がっている。公開日が実際のサンクスギビングを意識した日程であったことや、アダムス一家のキャスティングからも伺えることだ。
内容に関してはぜひ本作をチェックして欲しいが、要約すると、人狼やセイレーンなどの“のけ者”というフィクションと、先住民といったアメリカ建国の歴史においての“のけ者”を「魔女狩り」で繋ぎ合わせ、幾重もの排除を描こうとしており、歴史の語り直しを試みようとしたものであると言えるだろう。アメリカのラテン系に関するニュースや文化を分析し発信するLatino Rebels※5では、「ウェンズデー」のヒットの要因は、現代的な感覚を的確に捉え、アメリカの物語が語り直されている点にあると評価する。
ダークヒーローになったウェンズデー
「ウェンズデー」では、彼女が人には理解されない暴力的で反抗的な行動をすることの動機を明確に説明することができる。ウェンズデーはドラマの中で、先祖代々受け継いできた幻視能力によって、祖先が“のけ者”として入植者に虐殺される瞬間を目撃し、歴史の真実を知る。さらに幻視能力によって、未来のネヴァーモア学園でこの歴史が繰り返されることを予見するのだ。ウェンズデーの行動は、それがたとえ反抗的に映るものであったとしても、真犯人を突き止め、学園を救いたいという正義につき動かされたものであることがわかる。
真実を探求し、悪を成敗したいという動機がウェンズデーにある点は、かつての「アダムスファミリー」との決定的な違いであると私は考える。かつての「アダムスファミリー」は、「ここまでして良いの?」と思わせてしまうような、社会の規則みたいなものが一家の不適切な動機によって悉く破られて逸脱してしまうところにジョイがあった。拷問されること、血を見ること、殺しのスキルが上達すること、生よりも死を好むこと、こういった反社会的で非人道的にもうつる行為に喜びを見出すのは、到底社会で受け入れられることではない。「ウェンズデー」では、これらの行いを真の悪である入植者の行為へと反転させ、ウェンズデーはその悪を告発し、歴史を正し、ネヴァーモア学園を救うダークヒーローの立場に立っている。
しかし、世の中で何が正しくて何が悪いのか、そういう判断の基準がどんどん覆されていくところが「アダムスファミリー」の魅力だったのではないだろうか。正義が勝つ物語ではなく、多くの人が考える正しさとはかけ離れた場所で、愛と美しさを育む家族の物語だった。いま、ネヴァーモア学園のなかでさえ、ヒーローにならなくては「ウェンズデー」には居場所がないのだとすれば、胸が痛い。
1984年兵庫県生まれ。民話や伝説などの史料や、ティーン向けの漫画、ファンフィクション、婚姻制度、表現規制に関する法律など幅広い対象の調査に基づき、クィア・フェミニスト的な実践を展開。身体を通じたおしゃべりやDIY、演技といった遊戯的な手法を用いている。主な個展に「燃ゆる想いに身を焼きながら」愛知県立芸術大学サテライトギャラリー SA・KURA(愛知、2021)。主なグループ展に「フェミニズムズ」金沢21世紀美術館(石川、2021)、「ルール?」21_21 DESIGN SIGHT(東京、2021)など。2018年に丸山美佳と「Multiple Spirits(マルスピ)」を創刊。2022年より文化庁新進芸術家海外研修制度でニューヨークに滞在中。
(企画・編集:古堅明日香)
【脚注】
※1、ウェンズデーはクィアなアイコン:Out「'Drag Race' Stars Explain Why Wednesday Addams Is a Gay Icon」
※2、カナダの総合エンタメサイトScreen Rant「Wednesday's Queerbaiting Allegations Fully Explained (& What They Mean)」
※3、ポップカルチャー専門のメディアJUNKEE「Netflix Wasn’t Queerbaiting With ‘Stranger Things’, But They Are With ‘Wednesday’」
※4、入植者以外の視点からサンクスギビングを語り直すことの重要性:NATIVE HOPE「The History of Thanksgiving from the Native American Perspective」
※5、アメリカのラテン系に関するニュースや文化を分析し発信するLatino Rebels「We Finally Have a Latino Hit in ‘Wednesday’ (REVIEW)」
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