
ⒸSimon Emmett
全く異なるジャンルでありながら、古くから蜜月関係にあるファッションと音楽。ここ十数年でその結び付きはさらに強くなり、今やファッションメディアでなにがしのアーティスト名を見ない日は無いと言ってもいいほどである。だがアーティスト名は目にするものの、彼/彼女らがファッションシーンへと参画した経緯や与える影響力、そして何よりも楽曲に馴染みが薄く、有耶無耶の知識のまま名前だけを認知している人も少なくないだろう。
そこで本連載【いまさら聞けないあのアーティストについて】では、毎回1組のアーティストをピックアップし、押さえておくべき音楽キャリアとファッションシーンでの実績を振り返り、最後に独断と偏見で「まずは聴いておくべき10曲」を紹介。約半年ぶりの連載再開となる第16回は、昨夏に15年ぶりの再結成を電撃発表し、10月には世界ツアーの一環で日本公演も行うUKバンド、オアシス(Oasis)についてお届けする。(文:Internet BoyFriends)
目次
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マンチェスターの夜明け、オアシス前夜
オアシスといえば、作詞作曲とギターを担当するノエル・ギャラガー(Noel Gallagher)とヴォーカルのリアム・ギャラガー(Liam Gallagher)という兄弟のイメージが強いが、実は既に存在していたバンドに2人が参加したのが事の始まり。まずは、そのオアシス前夜の話から。
イングランド北部の工業都市マンチェスターにて、アイルランド系の両親のもとノエルは次男として1967年5月29日に、リアムは三男として1972年9月21日に生を受けた。一家は、いわゆるブルーカラーの労働者階級で、兄弟は共に学校から退学処分を受け(リアムは復学)、ドラッグを嗜み、何度も警察の世話になるなど、荒れた少年期を過ごしていた。
そんな日々を送る中、ノエルはローティーンの時にTV越しで観たザ・スミス(The Smiths、ギャラガー兄弟と同じくマンチェスターの労働者階級出身のロックバンド)のパフォーマンスに感銘を受け、音楽への興味を示すように。その結果、退学後に就職した配管工での仕事の合間に作詞やギターの練習を行い、この時に浮かんだフレーズやメロディーの多くが、後にオアシスのデビューアルバムに収録される楽曲の基盤になったという。
そして、21歳の時、1988年5月にマンチェスターで行われたザ・ストーン・ローゼズ(The Stone Roses、1980〜90年代のUKロックシーンを牽引したマンチェスター出身のバンド)のライブ会場にて、インスパイラル・カーペッツ(Inspiral Carpets、1980年代後半〜90年代前半に人気を博したマンチェスター出身のUKバンド)の面々と知り合い、後に開催された同バンドのヴォーカルオーディションに参加。残念ながら加入とはならなかったが、楽器の搬入や機材の管理などを行うローディーの職に就き、約2年間バンドに帯同していた。
一方リアムは、10代前半までフットボールに夢中で音楽への興味は全く無かったが、ある日、他校の生徒にハンマーで頭を殴られた日を境に音楽を好きになったという(諸説アリ)。当時は、ザ・ビートルズ(The Beatles)、ザ・ジャム(The Jam)、ザ・フー(The Who)などを好み、その延長線上で兄ノエルと共に既述のザ・ストーン・ローゼズのライブを観戦。後に「俺の人生そのものを変えたライブ」と言わしめる衝撃的な体験だったようで、この日からバンド活動を夢見るようになった。
その後、リアムの学友だったギタリストのポール・“ボーンヘッド”・アーサーズ(Paul “Bonehead” Arthurs)、ベーシストのポール・“ギグジー”・マッギーガン(Paul “Guigsy” McGuigan)、ドラマーのトニー・マッキャロル(Tony McCarroll)の3人が、既に活動していたザ・レイン(The Rain)というバンドのヴォーカルに彼を勧誘。この時、リアムはバンド名の変更を加入条件に提案し、これをメンバーが承諾する形でオアシスが結成された。1991年のことである。
ちなみに、オアシスというバンド名は、イングランド南部の街スウィンドンにある複合施設「オアシス レジャー センター(Oasis Leisure Centre)」が由来。なんでも、当時ノエルとリアムの相部屋に貼ってあったインスパイラル・カーペッツのツアーポスターに、同施設が会場のひとつとして記載されていたからだという。
ギャラガー兄弟を擁するオアシスの誕生
こうしてザ・レイン改めオアシスとして活動を開始したバンドだったが、リアムの天性の歌声と人並み以上の演奏技術を持ち合わせていたものの、真剣にメジャーデビューを目指していたわけではなく、ソングライティングの面でも歯車が噛み合わずにいた。そんな中、依然としてインスパイラル・カーペッツのローディーだったノエルをマネージャーに引き入れる狙いもあり、ライブに招待。すると、彼はいたく感銘を受け、逆に「1. 自分(ノエル)がソングライター兼リーダーになること」「2. 商業的な成功を目指すこと」を持ち掛け、ほどなくしてギャラガー兄弟を擁するオアシスが誕生したのである。
それからのオアシスは、来たるデビューに向けて1年以上もの時間を費やして腕を磨き、1993年5月にスコットランド・グラスゴーで行ったライブにて、プライマル・スクリーム(Primal Scream)も所属していたインディーズ・レーベル「クリエイション レコーズ(Creation Records)」の創設者アラン・マッギー(Alan McGee)と邂逅。その数ヶ月後、見事メジャー契約を勝ち取ったのだ。
そして、1stシングル「Supersonic」のお披露目も兼ねた全英ツアーを行い、翌年4月に同曲で晴れてデビューを果たすと、全英チャートで31位を記録。勢いそのままに6月に2ndシングル「Shakermaker」を、8月に3rdシングル「Live Forever」を発表し、同月に満を持してデビューアルバム「Definitely Maybe」をリリースした。
当時、マンチェスターの仲間内で流行っていた「Definitely…Maybe(間違いない...多分だけど)」という言い回しが名付けられた同作は、ブリットポップ(1990年代に発生したイギリスのポピュラー音楽ムーブメント)の追い風もあり、全英1位を獲得するだけにとどまらず、同国史上最も速く売れたデビューアルバムとなり、瞬く間にバンドを新時代のロックンロール・スターの座に押し上げた。蛇足だが、ジャケットのアイコニックな部屋の写真は、ボーンヘッドの自宅リビングで撮影されたという。
なお、驚くべきことに初来日公演は「Definitely Maybe」のリリースから約2週間後に東名阪で行われており、チケット発売にいたってはリリースの1ヶ月以上前だったにもかかわらず、全5公演が即完売したそうだ。
しかし、「Definitely Maybe」での鮮烈なデビューによる過密日程はバンド内に不協和音を生み、来日公演直後のアメリカでリアムがノエルと兄弟喧嘩を起こし、見限ったノエルがバンドを離脱する危機が訪れる。それでもスタッフによる説得の末すぐに合流し、同年12月にリリースした5thシングル「Whatever」はバンド初の全英シングルトップ5入りとなる3位を獲得し、デビューイヤーを締め括った。
国際的なロックンロール・スターとなった人気絶頂期
1995年4月に6thシングル「Some Might Say」でついに初の全英シングルチャート1位を獲得した翌月、バンドは創立メンバーだったドラマーのトニー・マッキャロルと袂を分かち、新たにアラン・ホワイト(Alan White)をメンバーに迎え、2ndアルバムの制作をスタートさせる。
余談だが、この時期のブリットポップといえば、マンチェスターのワーキングクラス出身のオアシスと、ロンドンのミドルクラス出身のブラー(Blur)による“ブリットポップ天王山(Battle of Britpop)”が広く知られている。これは、公共放送「BBC」をはじめとした英国メディアが、2バンドの背景や音楽性からライバル関係を煽ったことが始まり。これに関しては、別の記事でいつか触れたいと思う。
メディアが騒ぎ立てる中、2ndアルバム「(What's the Story) Morning Glory?」は約半年をかけてレコーディングされ、1995年10月にリリースされた。生々しい前作から大きく舵を切った構成やサウンドは、批評家たちには刺さらなかったものの、約3ヶ月にわたって全英チャートの1位に君臨するという爆発的な売り上げを記録。最終的に全世界で2200万枚以上を売り上げ、2010年には英国で最も権威ある音楽賞ブリット・アワードにて、“過去30年間で最高の英国アルバム(Best Album Of 30 Years)”に輝くなど、バンドが時代と国境を越えたロックンロール・スターの地位を確立したとも言えるエポックメイキングな作品となった。特に、リアムではなくノエルがリードヴォーカルを務めている収録曲「Don't look back in anger」は、今では“第二のイギリス国歌”と呼ばれるほど英国民に愛される楽曲となっている。
そして、「(What's the Story)Morning Glory?」で批評的にも商業的にも大きな成功を収めたバンドは、後世にも語り継がれゆく2つの伝説的なライブを1996年に開催した。1つは、彼らの愛するフットボールクラブ マンチェスター・シティFCの当時の本拠地「メイン ロード(Maine Road)」にて、4月27〜28日の2日連続で行ったライブだ。(前年12月にもマンチェスターでライブを行っていたが)地元凱旋ライブゆえに、バンドもオーディエンスも熱量がすさまじく、その様子の一部が映像作品「...THERE AND THEN」に収録されている。また、記事下部で詳述するが、この時のリアムの服装が彼を表すシンボルのひとつになっていることは有名な話だ。
もう1つは、「メイン ロード」から約4ヶ月後の8月10〜11日に開催された、東イングランド・ネブワースでの野外ライブである。単独公演ではなく、ケミカル・ブラザーズ(The Chemical Brothers)やザ・プロディジー(The Prodigy)、オーシャン・カラー・シーン(Ocean Colour Scene)らも出演した半ばフェスのようなライブということもあり、先の「メイン ロード」の6万人動員に対して、ネブワースは25万人を動員。応募にあたっては、英国の総人口の4%に当たる約250万件の電話があったと言われている。当然、英国史上最大の野外ライブという記録を打ち立て、会場は前代未聞のエネルギーに満ち、ノエルは「歌い手リアム・ギャラガーのピークだった」と断言するなど、“オアシス史上最高のライブ”として伝説になっている。
だが、この後に向かったアメリカツアーで、リアムが幾つかの公演に参加しなかったかと思えば、ノエルはバンドを置いて1人で帰国したりと、解散が噂される事態に。実際、兄弟喧嘩は絶え間なく、3rdアルバムは決して雰囲気が良いとは言えない状態で制作が開始されたという。
脱退、事故、逮捕の過渡期
3rdアルバム「Be Here Now」は、衝撃的なデビュー作「Definitely Maybe」と歴史的傑作「(What's the Story)Morning Glory?」に続く作品として、大きな期待が寄せられる中で1997年にリリースされた。イングランドを含む世界15ヶ国のチャートで1位を獲得し、英国史上最速の売上記録も樹立する順調な滑り出しを見せたものの、次第にメロディアスなサウンドはセルアウト批判の的になり、ノエル自身も酷評。この翌年にリリースされたB面集「The Masterplan」の方が出来が良いことを公言し、2006年にリリースした彼監修のベストアルバム「Stop the Clocks」でも同作からは一切選曲を行わなかったほどである。
1999年には、創設メンバーであるギタリスト ポール・ボーンヘッドとベーシスト ギグジーの脱退が相次いで発表され、さらに、デビュー時から所属していた「クリエイション レコーズ」の解散に伴い、自身のレーベル「ビッグ ブラザー レコーディングス(Big Brother Recordings)」の設立を発表。この過渡期の2000年に4thアルバム「Standing on the Shoulder of Giants」はリリースされ、リアムが初めてソングライティングに参加した楽曲を収録し、随所でエレクトロニカとサイケデリックを感じさせる実験的で新鮮なロックサウンドに挑戦。4作連続となる全英チャート1位を獲得するも、某メディアによる“史上最低のアルバム50選”の46位に選出されてしまうなど、あまり芳しくない結果に終わった。
続いて、前作完成後に加入したギタリストのゲム・アーチャー(Gem Archer)とベーシストのアンディ・ベル(Andy Bell)を迎えた5人体制で制作されたのが、2002年の5thアルバム「Heathen Chemistry」である。前作から一変、メンバー変更の影響をダイレクトに感じさせるシンプルな作品かつ、それまでノエルが一手に引き受けていた作曲をリアム、ゲム、アンディも行うことで新鮮さを増したのだが、これが千差万別のレビューを生む結果に。なお、リアムは同作をオアシスで最も気に入らない作品にランク付けている。
「Heathen Chemistry」のリリース後、2002〜2003年に世界ツアーを敢行したバンドだったが、巡業中にノエルを含むメンバー3人がアメリカで自動車事故に遭い、リアムはドイツで逮捕されるなど波乱の日々を送り、2004年に入るとドラマーを務めていたアランが脱退。後任には、ザ・ビートルズのドラマーだったリンゴ・スター(Ringo Starr)の息子ザック・スターキー(Zak Starkey)がサポートメンバーとして加入し、ライブや楽曲制作にも関わることに。ちなみに、ザックはオアシスと並行してザ・フーのサポートメンバーでもあったことから、ザック在籍時はたびたびザ・フーの名曲「My Generation」が披露されていた。
以上の紆余曲折を経て6thアルバム「Don't Believe the Truth」は制作に着手され、レコーディングに1年以上を費やして2005年5月にリリースされた。ノエルがプロデュース業を初めて外部の人物に委ね、前作に引き続き他のメンバーが作曲の一部を担当し、ファンが求めていた古き良き無骨なバンドサウンドに原点回帰。すると、6作連続の全英1位はもちろん、「2ndアルバム以来の傑作」と大絶賛され、同作を引っ提げた世界ツアーも26ヶ国で320万人以上を動員し、再び人気を取り戻したのである。
オアシス復活はデータにも顕著に現れており、この頃HMVと英国の月刊音楽雑誌「Q」が共同で実施した“過去50年間で最高の英国アルバム50選”のアンケートでは、1stアルバム「Definitely Maybe」が1位に、2ndアルバム「(What's the Story) Morning Glory?」が2位に、6thアルバム「Don't Believe the Truth」が14位に、3rdアルバム「Be Here Now」が22位にランクインする快挙を成し遂げていた。
突然の解散、突然の復活
その後、3年以上というバンド史上最も長い期間を空けて2008年10月にリリースされた7thアルバム「Dig Out Your Soul」は、サイケデリックなテイストを散りばめながら前作からの流れを汲み取った往年のロック色が強く、初期2作と比較しても劣らないバンド史上最高のアルバムのひとつと称賛され、7作連続となる全英1位を獲得した。
「Dig Out Your Soul」のツアーは、作品のリリース前にスタートして2009年8月30日まで約1年にわたって行われる予定だったが、ファイナル直前の8月23日のイングランド・チェルムズフォード公演と、8月28日のフランス・パリのフェス出演が相次いでキャンセルに。そして、28日中にバンドの公式サイトにて、「悲しいが、とても安心した……。今夜、オアシスを辞める。メディアは好き勝手書くだろうが、俺はもう1日たりともリアムと仕事がしたくないだけだ」と、ノエルが脱退を発表。原因はギャラガー兄弟の喧嘩で、バンドからの正式な解散発表はなかったが、この日をもってオアシスは事実上解散となり、そのまま10月にノエルがソロ活動を始動し、リアムも新バンドの結成を発表したことで、結成20年目を目前に突如として別々の道を歩むことになったのであった。
それからのギャラガー兄弟は、リアムがノエルを除いたオアシスのメンバーたちと共に新バンド ビーディ アイ(Beady Eye)を結成し、2014年までに2枚のアルバムを発表したのち、ソロへと転身。ビーディ アイでは全英1位を獲得することは出来なかったものの、ソロでの3枚はいずれも全英1位を記録している。
一方ノエルは、自身が中心となったバンド ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズ(Noel Gallagher's High Flying Birds)を結成。全4作のうち、2023年発表の最新作を除く3枚を全英1位に送り込んでおり、こちらもまた順風満帆の道を歩んでいた。
解散騒動からの15年間、リアムはたびたび再結成を仄めかす発言をするも、ノエルに関しては一貫して否定的だったことから、世界中のファンは二度とオアシスを観ることはできないと考えていた。ところが、2024年8月に突如として再結成の噂が浮上し、とあるファンがリアムのXアカウントに「再結成の発表はいつ?」とポストすると、「来週の金曜日」とリプライがあったのだ。
これにより活動再開が一気に現実味を増し、その翌日にはリアムが出演していた世界的音楽フェス「レディング&リーズ フェスティバル(Reading and Leeds Festivals)」の会場、オアシス、ノエル、リアムのSNSアカウントにて「2024年、8月27日、午前8時」という予告があり、迎えた8月27日午前8時。噂通り、15年ぶりの再結成が発表されたのであった。奇しくも、15年前の8月28日は事実上のオアシス解散日で、30年前の8月29日は1stアルバム「Definitely Maybe」のリリース日であることは、決して偶然ではないだろう。
現時点で再結成の理由は語られていないが、リアムはXで「俺からノエルに電話をした」と告白していることから、何らかのきっかけで彼からノエルに歩み寄る形で関係が修復に向かったとみられる。理由としては母親が再結成を望んでいたことや、経済的問題が有力視されている。
過去にノエルは、「Oasis is me, my songs, and Liam’s voice(オアシスは、俺と俺の曲とリアムの声だ)」と発言していたが、彼が言うようにオアシスは、世界最高のソングライターであるノエルと、世界最高のボーカリストであるリアムが揃ってこそ。再結成ツアーがアナウンスされた当初は、「いつまた兄弟喧嘩するか分からないから、早めの公演を確保するのがいい」と皮肉を言われていたが、6月3日現在、兄弟間でもバンド間でもトラブルは確認されておらず、16年ぶりの来日公演を含む再結成ツアーは予定通り行われる見込みである。
ロックンロール・スターの必然とも言えるファッションアイコン化
ザ・ビートルズしかり、セックス・ピストルズ(Sex Pistols)のシド・ヴィシャス(Sid Vicious)しかり、デヴィッド・ボウイ(David Bowie)しかり、UK音楽シーンにおけるスターは、そのカリスマ性からファッションアイコンになりがちで、オアシスではリアムがその役割を担った。
リアムは、青年時代のスタイルアイコンとしてジョン・レノン(John Lennon)とジョージ・ハリスン(George Harrison)、ザ・ジャムやスタイル・カウンシル(The Style Council)での活躍で知られるポール・ウェラー(Paul Weller)らの名前を挙げており、1960年代のモッズスタイルに影響を受けていることが分かる。そこに、マッドチェスター(1980年代後半〜1990年代前半にマンチェスターを中心に発生したムーブメント)の要である「ストーンアイランド(Stone Island)」や「リーバイス(Levi’s®)」といった英国国外のエッセンスを取り入れることで、彼らしいスタイルが完成するのだ。特に、アースカラーのミリタリーアウターや七分丈のポンチョパーカを好み、基本的にトップスのジッパーやボタンを全て上まで閉め、襟元を立たせるのがお決まりとなっている。
そんなリアムのスタイルは、一部で“パーカモンキースタイル”と言われているのはご存じだろうか?もともとは、生まれつき手の長いリアムがパーカを着用して威張って歩く姿を見て、ノエルが「あのパーカモンキー野郎」と揶揄したのが始まり(諸説アリ)。パーカモンキースタイルに明確な定義はないが、“張り切りすぎないクールな日常着”といえばイメージしやすいかもしれない。
*リアムの“パーカモンキー”な歩き方は、楽曲「The Masterplan」のMVのアニメーションでも描かれている。(00:51〜頃)
そして、先述した1996年4月27〜28日にマンチェスター・シティFCの当時の本拠地「メイン ロード」で開催されたライブにて、アイコニックなシーンが誕生する。2日目のライブ直前、リアムは控え室からステージへと向かう動線の途中で、選手用ロッカーに置いてあった「アンブロ(Umbro)」のドリルトップを偶然発見。すると、あろうことか盗み出し、そのまま着用してライブを行ったのだ。
このロックンロール・スター然とした行動に賛否はあるかもしれないが、訪れた6万人をはじめとした多くの英国人に大きな衝撃をもって受け入れられ、のちにカサビアン(Kasabian)を結成する若き日のセルジオ・ピッツォーノ(Sergio Pizzorno)に至っては、全く同じドリルトップで通学するようになったという。
「オアシスの『メイン ロード』でのライブは、俺が15歳の時に開催された。『アンブロ』は、誰が着てもスポーツ用のアイテムになるはずなのに、リアムは最も価値のある洋服に見えてしまうほどに着こなしていたんだ。彼が着ると、『アンブロ』も『グッチ』に見えたんだよ」(セルジオ・ピッツォーノ)
こうしてファッションアイコンとしても絶大な支持を得ることになったリアムは、2008年に自身のファッションブランド「プリティー グリーン(Pretty Green)」を設立する。リアム自身がよく着用していたこともあり、最盛期は英国内に10店舗以上を展開し、2012年には東京・青山にも旗艦店をオープンする好調ぶりを見せていたが、2018年に経営破綻。現在は、英国の大手スポーツ用品小売りチェーン「JDスポーツ(JD Sports)」が経営している。
なお、リアムの長男レノン・ギャラガー(Lennon Gallagher)は、モデルとして「エルメス(HERMÈS)」や「サンローラン(SAINT LAURENT)」のランウェイを歩き、「バーバリー(BURBERRY)」のキャンペーンにも抜擢され、現在はロックバンド オートモーション(Automotion)のギタリストとしても活動している。次男ジーン・ギャラガー(Gene Gallagher)は、ロックバンド ヴィラネル(Villanelle)でヴォーカル&ギターを担当しながら、最近は「ストーンアイランド」のキャンペーンに登場したりと、モデル業もこなすように。また、長女モリー・ムーリッシュ・ギャラガー(Molly Moorish Gallagher)とノエルの長女アナイス・ギャラガー(Anaïs Gallagher)も、モデル等で幅広く活躍している。
加えて、つい先日、リアム、長男レノン、次男ジーン、長女モリー・ムーリッシュのギャラガー一家が、「バーバリー」の最新キャンペーンにそろって起用されファンを沸かせていた。
愛し、愛されるマンチェスター・シティFCとの蜜月関係
最後に、オアシスとマンチェスター・シティFCの関係について。ノエルとリアムは、共に幼い頃から“シチズン(マンチェスター・シティFCの熱狂的なサポーター)”であり、ノエルは「もし、魔法が使えるなら?」という質問に「(ライバルクラブである)マンチェスター・ユナイテッドFCの本拠地を消す」と返し、リアムも「嫌いなものトップ10は?」に「マンチェスター・ユナイテッド。トップ10は、マンチェスター・ユナイテッドが10個だ」と答えるほど。当然、世界的ロックンロール・スターとなってからも頻繁にスタジアムに足を運び、特にノエルはVIP席ではなく一般席で観戦することを好み、その姿がカメラに抜かれることもしばしば。
また、ノエルは自身のプライベートスタジオにマンチェスター・シティFCの監督ジョゼップ・グアルディオラ(Josep Guardiola)の等身大パネルを飾っており、ノエル・ギャラガーズ・ハイ・フライング・バーズが「フジロック・フェスティバル '24(FUJI ROCK FESTIVAL '24)」に出演した際には、このパネルをステージ上に設置していた。
そして、ノエル&リアムとマンチェスター・シティFCといえばお馴染みなのが、以下の写真だ。それぞれ1994/95シーズンのホーム&アウェイユニホームを着用し、今では考えられない仲睦まじい様子を見せるこの写真は、1996年に撮影されたもの。 勘の良い読者の方であればお気付きだろうが、オアシスが初めて「メイン ロード」でライブを行うことを記念して実現したシューティングで、地元の日刊紙「マンチェスター イブニング ニュース(Manchester Evening News)」が表紙を条件に企画・撮影したという。
もちろん、兄弟の愛はマンチェスター・シティFC側にも伝わっており、クラブは2012/13シーズンのホームユニフォーム発表時に選手と共にノエルをモデルに起用。2024/25シーズンには、1stアルバム「Definitely Maybe」のリリース30周年を記念したコラボユニホームが制作され、選手と監督があのアイコニックなアートワークを再現したほか、実際に試合でも着用されたのである。
まずは聴いておくべき10曲
1曲目:Rock 'n' Roll Star
1stアルバム「Definitely Maybe」(1994年)収録曲。「Tonight I’m a rock ‘n’ roll star」と、マンチェスターから世界的ロックンロール・スターへの成り上がりを高らかに宣言したリリックが特徴。「俺が歌いたいことが全て書かれた曲」(リアム・ギャラガー)。
2曲目:Live Forever
1stアルバム「Definitely Maybe」(1994年)収録曲。初めて全英シングルチャートのトップ10入りを果たし、リアムが最も気に入っている楽曲のひとつ。英ラジオ局「Radio X」が毎年行う“英国史上最高の楽曲”のリスナー投票では、2018年、2021年、2023年、2024年、2025年で1位を獲得。そして、シングル盤のアートワークには幼少期のジョン・レノンが住んでいた自宅の写真が使用されている。
3曲目:Whatever
1994年に発表されたオリジナルアルバム未収録曲。数多くの日本企業がCMソングとして起用したこともあり、ノエル曰く「日本とフランスだけで売れた」とのこと。
4曲目:Some Might Say
2ndアルバム「(What's the Story) Morning Glory?」(1995年)収録曲。スウェード(Suede、1990年代に人気を博したUKバンド)の楽曲「Animal Nitrate」を聴いたノエルがすぐに書き上げ、リアムはわずか2テイクで収録を終了。それでもオアシス初の全英シングルチャート1位を獲得した記念すべき作品。
5曲目:Don't Look Back in Anger
2ndアルバム「(What's the Story) Morning Glory?」(1995年)収録曲。リアムとの協議の末、ノエルが初めてメインヴォーカルを担った楽曲で、2作目の全英シングルチャート1位を獲得。「俺にとっての『Hey Jude』だ」(ノエル)。
6曲目:Champagne Supernova
2ndアルバム「(What's the Story) Morning Glory?」(1995年)収録曲。名盤のエンディングを飾る7分超えの楽曲で、ドラッグをキメていた時に作られたため、節々で意図が伝わらない歌詞となっているが、それも特徴の荘厳なサイケデリックロックの傑作。
7曲目:Acquiesce
初の裏ベストアルバムに当たる「The Masterplan」(1998年)収録曲。兄弟が共にリードヴォーカルをとった初の作品で、「なぜなら俺たちはお互いを必要としているから / お互いを信じ合っているから / そして俺たちはさらけ出すんだ / お互いの魂の中に眠っているものを」という歌詞からファンの間で人気が高いが、あくまで友情に関する内容だという。
8曲目:Little James
4thアルバム「Standing on the Shoulder of Giants」(2000年)収録曲。リアムが初めてソングライティングに参加した楽曲で、当時の結婚相手であるパッツィ・ケンジットの連れ子に捧げたと言われているバラード。
9曲目:Songbird
5thアルバム「Heathen Chemistry」(2002年)収録曲。リアムが初めて作詞・作曲したシングルで、ノエル曰く「『Songbird』のデモは、ザ・ビートルズの『Love Me Do』を思い起こさせるものだった。それくらい素晴らしい」とのこと。
10曲目:I’m Outta Time
7thアルバム「Dig Out Your Soul」(2008年)収録曲。リアムがソングライティングを担当し、歌詞の一部にジョン・レノンが1980年に行った最後のインタビューを引用している。また、リアム曰く「ジョンがもし生きていたとすればカバーしていたオアシスの楽曲」。
■いまさら聞けないあのアーティストについて:連載ページ
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