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髙田賢三が次世代のデザイナーたちに伝えたいこと

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東京・有明の東京ビッグサイトで開催された日本最大のファッション展「ファッションワールド東京」にて10月23日、トップデザイナー・髙田賢三さんを講師に招き、「デザイナー 髙田賢三が語る、ファッション業界へのメッセージ」をテーマに特別招待講演が行われました。ブランド『KENZO』の立ち上げから半世紀、今なお第一線で活躍する髙田さんが業界の未来を担う世代に届けた言葉とは?

会社を休職して訪れた、憧れのパリでつかんだチャンス

髙田さんの登場と共に、満員になった会場からは大きな拍手が起こりました。今回の講演はファッションディレクターの萩原輝美さんを進行役に迎えた対談形式。まずは髙田さんがトップデザイナーになるまでの道のりを、当時の貴重なスライドを見ながら振り返ってゆきます。

髙田さんは文化服装学院のデザイン科9期生。同期にはコシノジュンコさん、『NICOLE』の松田光弘さん、『ピンクハウス』の金子功さんがおり、遊びもファッションも競り合いながらがんばってきた仲間であったのだとか。転機が訪れたのは卒業後、『三愛』に就職をしてから。東京五輪をきっかけに海外に渡航する人が増えたことから、かねてから憧れていたパリへの思いが募り、思い切って会社を半年休職して現地に足を運ぶことに。

「1965年、船に乗って香港、シンガポール、コロンボ、ボンベイなどいろんな土地を経由しながらパリに向かいました。僕にとって初めての外国旅行です。はじめて見る東南アジアの国々、それぞれの違いに大きなカルチャーショックを受けました」

パリに着いた髙田さん、最初の3~4ヵ月は初めて見るパリに圧倒され、ただただ街を歩き、各地を見てまわっていたのだそう。しかしあと数ヵ月で帰国、というときに焦りを感じます。

「何かを試してから帰らないと、と思いました。そこで絵を描いて、大好きだった画家でありファッションデザイナーの『ルイ・フェロー』のお店にブックを見せに行ったんです。偶然そこには彼の奥様がいて、4枚の絵を買ってくれた。たしか1枚25フランだったと思います。そこで希望が出てきて、翌日は雑誌『ELLE』の編集部に行き、そこで大好きだった"ボンバニック"というページのデザイナーが10枚も絵を買ってくれた。しかも絵をどこに持って行けばいいかアドバイスもくれて。そこでパリの百貨店『プランタン』の企画室や『ギャラリー・ラファイエット』などにも足を運んだんです。そのまま2~3ヵ月は絵を売って暮らしていたのですが、絵を買ってくれたお店の一軒から「デザインの仕事をしないか」と誘われて働きはじめ、さらに1年休職を伸ばし、結局そのまま現在までパリに居着いてしまったんです」

自ら企画したショーが、後のパリ・コレクションへと発展

風呂なしの安ホテル住まいからアパートを借り、憧れのパリで洋服の仕事をはじめた髙田さんは、1970年に自分のお店を持つことになります。

「知人に、ギャラリー・ビビエンヌという場所に小さいお店が空くけどやらないか、と声をかけられたんです。聞けばお店の家賃はアパートの値段と同じくらい。それならやってみよう、とアパートを引き払いました。昼は仕事、夜はお店に行って友人たちとペンキを塗って内装をつくる毎日です。その頃、いったん日本に戻り、企業に就職していた友達に資金を借り、浅草などあちこちに足を運んで安い着物や浴衣の生地、呉服屋の染め見本などを買い集めました。パリに戻り、お店の2階の工房でひたすら店頭に並べるための服を縫う日々が2ヵ月ほど続いたと思います」

お店を借りてから4ヵ月。間もなく迫ったオープンを前に、髙田さんは前例のない試みにチャレンジします。

「お店をいろんな雑誌に取り上げてもらうために、できあがった洋服を5、6点持って『今度お店をオープンするので小さいショーをしますから観に来てください』と、『VOGUE』や『ELLE』、『マリークレール』など人気の雑誌編集部をまわったんです」

オートクチュールしかなかった当時のファッション業界で、ショーと言えばお客様がオーダーを取るためのものであり、そこで見る洋服もエレガントでラグジュアリーなものが中心。そんな中、髙田さんが企画したファッションの楽しさに溢れたショーは大きな新鮮さを持って受け止められました。2~3人で行った小規模なショーでしたが、翌月には『ELLE』の表紙に洋服が起用されることに。この自分たちの手がける洋服をショーで見せる、というムーブメントが後のパリコレクションへと発展していきます。

「オープンの翌年、『同じ場所で一緒にコレクションを発表しよう』と3ブランドで合同ショーをやったんです。それから数年後に、同じ時期に・同じ場所で・複数のブランドがコレクションをする、という運びになり、それが後のパリ・ファッションウィークにつながっていったんです」

人気はうなぎ登りで、74年には日本に凱旋帰国。日大講堂で行った2日間のコレクションには大行列ができたのだそう。しかしこの後から苦しい時期がはじまった、と髙田さん。

「70年代は好きなことだけしていましたから、とにかく楽しかった。しかし80年代に入り会社がどんどん大きくなると、ビジネスのことも考えなくてはいけなくなります。しかしそれを意識すると『売るための洋服すぎる』と言われる。どんどん新しいデザイナーが出てくる焦りの中、ボディコンなどセクシーな洋服が流行するようになりました。それは僕がもっとも苦手とするジャンル。まだ若かったですし、当時はあれこれ試行錯誤して苦しみましたね」

若い世代にはぜひ、冒険を恐れない気持ちを

90年代に入り、髙田さんはブランドを売却する、という大きな決断を行います。

「『LVMH』にブランドを売却すると決め、少しずつ準備をはじめました。会社を売るか、続けるか迷っていたこの時期がもっとも辛かったかもしれません。デザイナーという立場から退いたのは1999年。ちょうどブランド立ち上げから30年目のことです。2年間はデザイン活動をしない、という契約でしたから、その間は旅行をしたり絵を描いたりして過ごしていました。現在は鯖江の職人と眼鏡をつくったり、バカラとクリスタルのオーナメントをつくったりなど、さまざまなコラボレーションを行っています。またファッションの世界に戻ることは考えていません。でも、もしまた洋服をつくるとしたら、次はメンズコレクションに挑戦してみたいですね」

ファッション界にその名を刻み、まさに波瀾万丈の日々を送ってきた髙田さんは、今の若いデザイナーにこんなメッセージを送りました。

「今の日本の若いデザイナーは海外に出たがらない、という話をパリで聞きました。今はインターネットなどで情報がすぐに入ってくるので、何もわからなかった僕の時代よりも興味を失いやすいのかもしれない。でも、それはやはりもったいない、と思ってしまうんです。若いうちこそ、たくさんの冒険をして海外に出てみてほしい。そしてぜひ、インターナショナルな感覚を身につけてください」

Interview&Text:Aki Kiuchi

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