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デザイナーの親族が立ち上げたブランド -vol.2-

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ファッションデザインというのは唯一無二の世界観、個性あふれる斬新なデザイン…というイメージを持つ人も多いと思います。もちろんこれらは非常に大切なことですが、デザイナーの多くは師匠から受け継いだ「哲学」や「美学」を持っていることがほとんど。というのも、デザイナーは職人としての側面が強く、「教えてもらう」のではなく「見て学びとる」のが基本。そうして技を盗んでいくうちに隠された哲学や美学に気付くのです。そのため、デザインやコンセプトが違っても根幹で繋がっている、影響を受けているということは十分にありえるのです。好きなブランドを追っていくうちに好きになったもう一つのブランドが実は師弟だった…なんてことも少なくありません。受け継がれる美学や哲学は、親族であればより濃いもの。デザイナーの親族が立ち上げたブランド【後編】の今回は、コシノ・ファミリーについて紹介します。

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『HIROKO KOSHINO』

ファッション好きなら誰もが知っているコシノ三姉妹の長女であるコシノヒロコ。彼女が手掛ける『HIROKO KOSHINO』のコンセプトは“東洋”。日本ならではの“粋”と西洋のモダンなテイストを絶妙なバランスでマッチさせたスタイルが特徴です。コシノヒロコは幼少期に祖父が好きだった歌舞伎と文楽とお茶屋の文化から強い影響を受けており、黒地に金色の松が描かれたドレスや山水画をイメージしたドレスなど、日本の伝統を感じさせながらもモードな雰囲気のアイテムが多く見られます。西洋で生まれた洋服を日本人としてどのようにデザインするか、ということを常に考えながら服作りを行っているそうです。デザイナーとして日本の四季が感じられるところに身を置きたいという理由で芦屋に住居を構えるほど、創作において「日本」のしめる割合が高いと言えます。

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コシノヒロコがなりたかったのは、実はデザイナーではなく画家でした。高校では美術部に所属し、絵画を学び、高校卒業後も美大への進学を強く希望したそうです。しかし、母・綾子に猛反対され、文化服装学院へ。スタイル画という形で、画家としてファッションに関われることに気付き、デザイナーの道を進みました。

『JUNKO KOSHINO』

次女であるコシノジュンコが手掛ける『JUNKO KOSHINO』は前衛的で革新的なデザインが魅力。姉のヒロコ同様、和の要素を取り入れたデザインが多く見られますが、近未来的なデザインをうまく融合させているのが特徴です。同じ“和”でもヒロコと大きく違うのはジュンコの表現する“和”は日本の“祭り”の文化が色濃く反映されているということ。地元の岸和田の伝統であるだんじりの影響を強く受けており、だんじりの提灯をモチーフにしたデザインのものもあるほど。揃いの半纏を着て猛スピードで山車を走らせる「一体感」「揃いの美」が彼女の服作りの根幹にあるのだと言います。

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姉のヒロコとはライバル同士のような関係で喧嘩が絶えなかったジュンコ。デザイナーとして認められていく姉の姿を見て闘志を抱かないわけもなく、ヒロコと同じ文化服装学院へと進みます。とは言え、姉と違うことをしたいという想いも強かったようです。コシノ三姉妹は当然3人とも岸和田出身ですが、だんじりを曳いていたのは次女のジュンコだけ。高校2年生まで激しいだんじりをその手で曳き続けた彼女は、性別や年齢、職業などあらゆるジャンルを越えた人々が「せーの」という掛け声で一体となる祭りの精神とパワーが生き方の原点だと語っています。

『MICHIKO LONDON KOSHINO』

三女であるコシノミチコが手掛ける『MICHIKO LONDON KOSHINO』は車のタイヤやウェットスーツに使われている「ネオプレーン」をタウンウェアに使用するなど、革新的なアプローチを続けるストリートカルチャーブランド。ブランド名の通り、イギリス・ロンドンに拠点を構え、現地のクラブ・ミュージックシーンに大きな影響を与えました。空気を吹き込み膨らませて着用する「インフレータブル」シリーズが有名で、1980年代のロンドンではクラブに並ぶ際に膨らませて着用し、中に入ったら空気を抜いてスマートなシルエットに変化して遊ぶというのが主流でした。当時はこの「インフレータブル」シリーズを着用していると早く入場できた、なんて話もあるほどの流行ぶりでした。

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どうしても姉2人と比べられがちだったミチコは全く違うことで母親から認められようと、学生時代からテニスに打ち込みました。大学生時代には軟式テニスで日本一になるほどの実力で、運動神経抜群だったそうです。テニス部でスパルタ指導を受けるうちに「習うことよりも自分で経験することが大切。人にはでいないことをすれば絶対に勝てる」ということを学んだそう。そんなミチコ、実はファッションを学校で学んだことがないというのだから驚きです。3~4歳のころからブティックを営んでいた母親の仕事場で洋服づくりに触れ、短大卒業は母と、先にデザイナーとして世に出ていた姉2人のヘルプをしていたことで自然と服作りのノウハウが身についていたそうです。

『AYAKO KOSHINO』

3人娘全員がデザイナーになりましたが、ずっと洋裁店を営んできた綾子自身はデザイナーではありませんでした。しかし、ある日「コシノ三姉妹じゃなく、(綾子を入れて)四姉妹ですね」と言われたことをきっかけに奮起。1987年の74歳になる年にブランド『AYAKO KOSHINO』を立ち上げます。そして90代で死去するまでファッションデザイナーとして活躍しました。『AYAKO KOSHINO』のコレクションには娘たちのデザインをヒントにしたアイテムもあったのだとか。綾子曰く「3人娘を生んだのは自分なのだから、どれも自分の作品」とのこと。パワフルでチャーミングな綾子に、娘3人も笑うしかなかったそうです。

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洋服姿の人は数えるほどしかいないような明治時代の岸和田で、呉服屋の長女として生まれた小篠綾子。岸和田にはだんじりに使われるパッチ(股引き)を修繕するパッチ屋があり、初めてそこでミシンを目にし、夢中になった綾子は女学校を辞めてパッチ屋で働くことに。パッチ屋を辞めた後も紳士服店で修業を積み、洋裁の知識を身に着けていきます。ある日、実家である岸和田の呉服店にドレスの注文が入ると、誰も作れる人がおらず綾子に白羽の矢が立ちました。試行錯誤しながら作ったドレスが評判を呼び、昭和8年の暮れには「コシノ洋裁店」として自分の店を持つまでに成長しました。ここが“コシノ四姉妹”に繋がる原点と言えるかもしれません。

母からの強い後押しであれよあれよとデザイナーになったヒロコ、そんな姉にライバル心を燃やして同じ道のりでデザイナーになったジュンコ、そんな姉たちとは違うアプローチで母に認めてもらおうとスポーツに没頭し、そこでの学びを持って一念発起しロンドンでデザイナーとなったミチコ。同じ母を持った3人が、それぞれに刺激し合いまったく違う世界観を持つデザイナーになったことも興味深いですが、母である綾子は3人娘に影響され、古希を過ぎてからデザイナーデビューを果たしたというのですから驚きですよね。それだけでなく、長女であるコシノヒロコの娘、小篠ゆまもデザイナーで、『YUMA KOSHINO』を設立。実は綾子の夫でありコシノ三姉妹の父である川崎武一は紳士服のテーラーでした。母子、姉妹に留まらずファッションの才能に溢れるコシノ・ファミリー。それぞれの特徴あるデザインを実際に手に取って比べてみるのも面白いかもしれません。

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