
Image by: FASHIONSNAP
 曲線的な造形を操る「リュウノスケオカザキ(RYUNOSUKEOKAZAKI)」のデザイナー 岡﨑龍之祐は、東京藝術大学を主席で卒業後、ファッションプライズ「LVMH Young Fashion Designers Prize 2022」のファイナリストや「Forbes 30 Under 30 Asia 2023」に選出。ニューヨークのメトロポリタン美術館やロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に作品を収蔵するなど、順調にキャリアを築き上げてきた。
 国際的な文脈で評価が高まる一方で、これまでのメディア露出は本人の主観的な語りに依拠することが多く、「アートがファッションに接近した作品」として紹介される傾向が強くあった。FASHIONSNAPでは、2015年「山口小夜子 未来を着る人」、2020年「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」など「ファッションを美術館でどのように見せるか」を提示してきた東京都現代美術館 学芸員の藪前知子との対談を実施。「リュウノスケオカザキ」のクリエイションを単なる「アート的な服」ではなく、ファッションとしての固有の創造力を持った営みとして整理することを試みた。
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岡﨑龍之祐
1995年広島県生まれ。2021年に東京藝術大学大学院美術研究科デザイン専攻を修了。2021年と2022年にランウェイショーを開催し、2022年にはLVMH プライズのファイナリストに選出。翌年の2023年にフォーブス「30 Under 30 Asia」リストに選出された。2024年にはニューヨークのメトロポリタン美術館で開催された「Sleeping Beauties: Reawakening Fashion」展に参加。2025年9月にロンドンのヴィクトリア&アルバート博物館に作品を収蔵し、最新作7点が展示した。
藪前知子
東京都現代美術館学芸員。担当した主な展覧会は、2006年「大竹伸朗 全景 1955-2006」、15年「山口小夜子 未来を着る人」、15年「おとなもこどもも考える ここはだれの場所?」、20年「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」、21年「クリスチャン・マークレー 翻訳する[トランスレーティング]」、24年「日本現代美術私観:高橋龍太郎コレクション」、25年「岡﨑乾二郎 而今而後 Time Unfolding Here」など。

目次
作家の文化的背景を透明化する作品
──お互いのことを最初に認識したきっかけは?
藪前知子(以下、藪前):アートアワードトーキョー丸の内で作品を初めて見ました。
※2007年にスタートした若手アーティストの発掘・育成を目的とした現代美術の展覧会。岡﨑は2021年にグランプリを受賞している。
岡﨑龍之祐(以下、岡﨑):僕は東京都現代美術館で開催されていた「山口小夜子 未来を着る人」「石岡瑛子 血が、汗が、涙がデザインできるか」のキュレーターというところからですね。
──藪前さんは岡﨑さんの作品を最初に見た時、どう捉えましたか?
藪前:身体と衣服が「お互いに寄生し合っている」というのが第一印象。通常、衣服は身体を包むものですが、そうではなく異なる論理、異なる次元、異なる重力を持ったもの同士がたまたま寄生しあっている、とでも言えばいいんでしょうか。

2022年春夏コレクションにあたる「000」、ブランドとして初めてのフィジカルショー形式での発表となった

2023年秋冬コレクションにあたる「001」
藪前:直接話す機会があったら、岡﨑さんの文化的ルーツを伺ってみたいなと思っていたんです。岡﨑さんの作品そのものから、岡﨑さん自身の文化的背景がまったく見えないから。
岡﨑:古着が好きでファッションに興味を持ったり、親の影響でパンク音楽が好きだったり……。たまにドレス作品を見た人から「アニメっぽい」と言われることもあるんですけど、そのどれもが創作に結びついている自認はないんですよね。
──代表作が「JOMONJOMON」ということもあり、作家作品論ではなく「縄文」「祈り」「アニミズム」というキーワードと合わせて作品を紹介されることが多いですよね。
岡﨑:そうですね。「クリエイションに影響を与えたものは?」と聞かれたらやっぱり出てくるのは、僕が広島県出身であること。そこで生まれ育った中で自然と培われていった「平和への祈り」になるんだと思います。大学受験のために上京した時、8月6日を迎えた時の空気感が広島と全く違うことに衝撃を受けたんです。そこで初めて「自分にとって平和への祈りがいかに身近なものであったか」の輪郭を捉えられた感覚がありました。
藪前:「祈り」というテーマと「ファッション(衣服)」はどのように結びついたんですか? 他の手段でも表現できたのかな、とも思うんです。
岡﨑:僕にとって衣服、特に布というマテリアルは「記憶の媒体」のようなイメージなんですよね。
藪前:古着好きだった、というルーツが関係あるんでしょうか。
岡﨑:あると思います。布は身体と関わってきた歴史でもありますが、古着に対して「当時の人はどういうものを着ていたのか」という身体的な記憶がそのまま出ているものだな、と。加えて、「コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)」のように身体から離れた造形は、人間の生活では見られないような形をしている。僕にとってはそれは「自然に近づいていく行為」に見えました。

──人間が人間ではなくなり、自然に近づいていく表現=布というマテリアルを使った作品だ、と。
岡﨑:広島に目を向けようと思った時に、「あの祈りはどういうものだろう」と考えたんです。僕の中の答えは「平和に対する祈り=生きることそのものに対する願い」。「戦争がありませんように」というのは根底にありつつ、再生や復興に対する切実な願いがある。それはきっと「生きることに対する祈り」なのではないか、と思いました。
藪前:「広島」という特殊な環境下での日常的な感覚から、普遍的なものへと思考を広げていったんですね。
岡﨑:「本来そうあるべき」とまでは言わないけど、人間を「地球上にいる生物」として考えるともっと自由でいいというか、決まりはないんじゃないかなとも思うんですよね。「ファッションの歴史や概念を解体しよう」と作っているわけではないんです。それがかえってファッション業界に面白がられたと自分では思っています。
彫刻的な衣服、即興的なクリエイション
──岡﨑さんはデッサンを描かずにドレスを作り上げていくそうですね。
岡﨑:即興的に組み合わせながら完成を想像せずに作り上げていきます。自分では身体が形作られている工程の細胞分裂をイメージしています。重力や張力、素材の持つ条件に従って、自然に形が決まっていきますね。
藪前:どちらかというと彫刻家という意識の方が強いんですか?
岡﨑:作っている身体性はとても彫刻的だなと自分では思っています。「ドレスを作ろう」という気持ちより「身体にどう向き合っていくか」という問題意識の方が強い。


──藪前さんが岡﨑さんの作品を「彫刻的だな」と感じるのはなぜですか?
藪前:デッサンをしないとおっしゃっていましたが、素材の特性や力のかかり方など、物理的な条件に即して形が生まれていく感じがあるからですね。それは、人間の体がこの世界の環境に適応してこの形になっているのと同じで、物理的な力の干渉のし合いによっておのずと形が決まってくる。だから自然の中にある何かのように見えるのかな、と。
岡﨑:新しい身体というよりは、あるべき身体を目指したいな、という気持ちはあります。
藪前:素材と応答しているというか。「素材が作らせている」という感覚があるんですか?
岡﨑:そうですね。「こうしてくれ」と素材が呼応してくる感覚。「どこを組み合わせればいいのか」は反射的に判断していて、それを実験的に蓄積していくと、変な張力が働いたりと「俺が計算して出している造形ではないもの」が生まれたりする。それを「偶発性」として捉えています。

──アートの世界には「オートマティスム※」という言葉があり、岡﨑さんのポートフォリオでも言及されていました。
※シュルレアリストが提示した芸術的手法および創作理念で、「自動記述」、「自動現象」などと訳される。
藪前:オートマティスム、あるいは「即興」とも言えますよね。即興は「そこに既にあるさまざまな条件の編集」という側面がありますが、岡﨑さんの作品には、単に自己の内面にあるものを取り出すというような表現ではなく、内と外との応答のなかで生み出されてくるものを感じます。
岡﨑:編集とも思っていないかもしれません。「なるようになる」とでも言えばいいんでしょうかね。
藪前:全体が一度に決まるのではなく、細部から増殖していっておのずと全体が決まっていくような。素材との応答の過程を見せられている感じが面白いです。


アートもファッションもない、「ジャンル」はまやかし
──リュウノスケオカザキはメディアで「アートがファッションに接近した作品」と評されることも多いですよね。
藪前:私は基本的に「ジャンル」というセクション分け自体が更新されなくてはならないと思っています。なので「アートはファッションか」「ファッションはアートか」という問いは当然起こりうるんですが、それを問うことに何の意味があるのだろう、と。とはいえ、その前提の上で「ファッションとアート」に挑戦している人はもちろんいます。最近は特にファッションの流通や消費の問題など、社会的な側面も含めてコンセプチュアルに解体しようというアーティストも出てきたりしていますが、岡﨑さんは「造形としての服」というアートと接続される直球のテーマで制作されているなと感じました。
──リュウノスケオカザキはスタッフやアシスタントはおらず、全ての自分一人で製作しているんですか?
岡﨑:そうですね。だから「生産(インダストリー)」とかもありません。
藪前:流行や生産過程など、ファッションにはさまざまな付随する論点がありますが、それらを全部取り払って「造形」という側面に集中しているのが面白いですね。制作過程は彫刻家と変わらない。
岡﨑:正直、「インダストリアルな側面から概念を解体する」というのを見ても「よくあるな」としか思わなくて。極端なことを言ってしまえば、何かを見て感動することがほとんどなくなってしまって、自分の作品にしか感動できないんです。目の前にあるものが自分の想像を超えた時しか感動できない、と思っちゃってるのかもしれません。
藪前:今のいわゆる「アート的な服」という文脈で語られているものとは全く違うからすごく希望を感じています。

──「縄文」はクリエイションにどのような影響を与えていますか?
岡﨑:コロナ禍が大きなきっかけになりました。新型コロナウイルスは目に見えない恐怖で、それは「死」という漠然とした不安にも直結するもの。「急に起きる突発的な自分の力では抗えないもの」は、自然の中では当然起こりうることで、忘れがちだけど「人間も根源的には自然の一部である」ということを思い返した時期でもありました。そういうことを考えていると、技術がまだ成熟していない時代の人々の暮らしに興味が出てきて、そこで出会ったのが「縄文土器」だった。縄文土器は自然の恩恵を願い、作られ、祭事に用いられたそうなんですが、それは僕にとっての「祈り」と親和性があるように感じました。
藪前:何かを生み出すということ自体が、祈りをもたらすものと結びついたんですね。
岡﨑:「祈り」という人間の根源的な行為そのものに着目し、「自分というものはどこから来ているのか」という問いを出発点にしているのかもしれませんね。


藪前:フェミニズムの文脈で、手仕事や日常の延長として制作プロセスの中に「祈り」を結びつける作家はお見受けしますね。
──フェミニズムやLGBTQI +の作品は、現状に対する不当さへの怒りや訴えとしての「祈り」という側面があり、ある種の切実さがあると思います。岡﨑さんの「作ることの祈り」で救われることはなんですか?
岡﨑:漠然とした不安としか言えないんですよね。何かを作ってないと不安で眠れないんです。僕にとって作ることは生きること、生きることは作ることで、それは「祈り」だな、と。

「縄文」「祈り」「広島」、強いコンセプトワードを打ち出すことの難しさ
──一方で「縄文」というワードを抽出するとき、岡﨑さんが意図していない文脈や背景も考えざるを得ないと思うのですが、藪前さんは「縄文」と聞いた時、率直にどのようなイメージを持ちますか?
藪前:例えば、「縄文」といえば「岡本太郎が、戦後“発見した”」ということをよく言われます。実際には、1930年代からモダニズムの作家たちの間でも埴輪や土器に対する興味というのは散見されるんですが、岡本太郎は「発見した」と言い切ることで、戦中のナショナリズムも全て忘却し、「『今』これをどう使うか」という対象として扱うんですよね。
岡﨑:”発見”されたことで、リミックスの対象になった、と。
藪前:岡﨑さんが「縄文」という言葉を出されるのは、「個を超えた普遍的な造形をいかに自分の手で掴めるか」というシンプルな意味だと思うのですが、「縄文」と聞いて私たちが今日思い浮かべるものは、既にいろんな文化的コンテクストの中で利用されてきたものでもあり、正直にいうと複雑な感情を抱きます。「縄文」という言葉を借りなくても、作品そのものに説得力があると思いますよ。

岡﨑:僕が、縄文という言葉だけを借りて“掬い取っているように見えてしまう”ということですよね。僕にとっては、コロナ禍で死の脅威を感じたとき、技術が未発達だった頃の人間の生活に目を向け、自然への恩恵を願って作られた土器の造形にすごく納得がいったんです。そこからごく自然に出てきた言葉でしたけど、取ってつけたように見えてしまう危険性はすごくよく分かります。
──アートの世界でも服飾の世界でも“コンセプト”は重要視されますし、「縄文」「祈り」「広島」といったキーワードは、岡﨑さんのルーツとしても非常に大切だと思います。一方で、これらの言葉が持つ歴史的・政治的な背景から、非常に強い意味を帯びてしまう側面もありますよね。
藪前:難しい問題ですよね。ファッションはブランディングと結びついていますから、強いワードが一人歩きし、本質を失うことはあると思います。ただその情報の解像度の違いというか、オーディエンスが異なれば反応が変わることも大いにあるんですよね。
岡﨑:「縄文」や「広島」も、海外の人の方がシンプルに「WOW!」と受け取ってくれている感覚はあります。V&Aに展示した作品も「JOMONJOMON」というタイトルのドレスなんですが、一緒に縄文土器を展示していて、それくらいシンプル。

V&Aに収蔵された作品「JOMONJOMON」、同館のために制作された
──先ほど藪前さんからもありましたが、リュウノスケオカザキは作品から岡﨑さん(作家)のルーツを捉えることができないから、作品を見る時の拠り所が「縄文」などのキーワードしか無くなってしまうのかな、と思いました。
藪前:「縄文」と言われると「そうなのね」と思っちゃう。
岡﨑:本当にそうだと思います。自分にとってはすごく自然に出たワードが「縄文」でしたが、それがとってつけたように感じるのもわかります。
藪前:岡﨑さんの制作の本質にあるものとは何でしょう?
岡﨑:「身体的な行為の中にあるだけの制作過程」。過程の中で自分の内性と向き合い、それを僕は「祈り」としています。

藪前:ファッション=流行とそもそも名付けられているように、うつろいやすく、浮世的なものと見做される中、コンセプトを言語化することで、オーセンティックな批評の対象として文化を作っていこうという意図があるのかなと思います。それがかえって作品を窮屈にすることもあるのかな。
岡﨑:僕自身も「ジャンルの越境」という言葉自体がナンセンスだと思っているんですが、ファッションとアートの間(はざま)にいるからこそのハレーションなのかなあ。
藪前:ここまでの歴史の中でも散々、ファッションはアートを消費してきたと言われてきたし、その批評は当然あると思います。でも、それは決して悪いことではない。そもそも、ファッションはそういう風に強くなってきたんじゃないんでしょうか。
ファッションを美術館で展示する時に現れるもの、失われるもの
──そもそも藪前さんはなぜファッション系の企画展のキュレーターを手掛けることが多いのでしょうか?
藪前:モダニズムの研究をしていましたが、その根幹にある……例えばリヒャルト・ワーグナーのオペラとかを思い浮かべていただくとわかりますが、諸芸術が相互的に重なり合う「総合芸術」という考え方に興味があり、音楽と視覚芸術の関係などで論文を書いたりしていました。その流れで、いまだに諸ジャンルが総合されるような、エンターテインメントも含めて、一つのジャンルで捉えきれない表現をしている人たちに興味が強くあります。その流れの中で、山口小夜子さんや石岡瑛子さんの展覧会を企画してきました。

──「ファッション」をテーマに美術館で展示する時、意識している基本的な考え方はありますか?
藪前:ファッションは「モノ」だけではなく、空間や文化も含めて「着る」ところがありますから、どこまで演出するか。そしてその魔法が解けないように、マネキンにピッタリあっているかとか皺をなくすとか……。身体がない抜け殻であることを極力忘れさせるような気遣いも必要かなと思います。
岡﨑:服は文化の一部だから、服単体で展示しても伝わらないことが多いんですよね。だからいろんな付随するものを展示したくなってしまいます。「歴史的な背景と繋がってないとわかんないな」と思っちゃうというか。
藪前:岡﨑さんの作品は「モノ」としての強さがあるからホワイトキューブにも耐えうりますよ。
岡﨑:僕の作品には演出はいらないな、とは思っているんです。使ってきたワードが強すぎただけで、作品を作っている行為そのものとか作品の佇まいでスッと感じられるのがいいのかなと、個人的には思っていて。……今日、藪前さんと話せば話すほど「祈り」というワードがいかに強いかを実感しますね(笑)。

──では、「着る」という行為によって、作品にどのような変化が生まれるのでしょうか。現れるもの、あるいは失われるものは何だと思いますか?
岡﨑:現れるものは明確にあって。それは「変化」です。着る人によって作品の表情や見え方、持っているオーラが全て変わる。静的に展示している状態とは全く違う動きも生まれます。人とより一体化した時に、僕自身が一番感動するかもしれません。失われるものは……無いかもしれない。ただ、ギャラリストの人に言われて印象的だったのは、展示を見に来た人が「この素材って硬いんですか?」と尋ねる人が多いそうなんです。エアコンや窓を閉め切った状態だと布は動かないから、静かに展示されていると、硬質な彫刻のように見えるんだと思います。
藪前:たしかに、人が着ることで布の柔らかさが強調されますね。
岡﨑:「着ない」=「素材感の喪失」。写真で見た人にも「硬そう」「重そう」と言われることが多いんですが、実は片手で持ち上げられるくらい軽かったりもします。
藪前:造形の持っている特性が、人が着ることで複雑化するんでしょうね。




リュウノスケオカザキの展望
藪前:「ファッションとアートの差」というものがあるとすると、ファッションの場合はシグネチャーを反復することでブランディングになる一方で、アートは「コンセプトをどのように展開させたか」が重要視されたりします。岡﨑さんは今後、どのように発展していこうと思っているんですか?
岡﨑:今後はプレタポルテ(既製服)にも挑戦しようとしているんですが、いま絶賛実験中で。なんとも言えないのが正直なところです。ただ、僕はシームレスに移ろうことが自然だと思っているので、ファッション業界の「今シーズンはこれがトレンド」という考え方が苦手です。素直に自分ごととして語れることを続けていこうと思っています。
──技法ではなく、コンセプトや造形言語を反復し、展開させていくイメージでしょうか?
岡﨑:どちらかというと「今、たまたまこの技法やっているだけ」だと思っています。だから全然違う考え方もありえるな、と。技法的なことでいうと「ニット素材でそれを伸ばすことで生まれる自然な曲線」でしかない。そこは変えずにやるし、それの発展と継続かな。

──いままでやられてきたドレス製作とは異なり、既製服にはルールがたくさんありますよね。
岡﨑:いま、まさにそれに頭を悩ませています(笑)。ルールがある中でどういう自分の表現ができるかをここ数年は実験しながら発表していくことにはなると思います。
藪前:線的なストラクチャー構成が持ち味ですから、既製服を作ることで生産過程の問題など、造形的な妥協が増え、今の幸福なバランスが崩れる可能性は想像できますよね。ただ、繰り返しになりますが岡﨑さんの作品は「特定のカルチャーに属している感じがしないのが面白い」。だからこそ、他のブランドとどうコーディネートされるのか、既製服の中でどう変化するのかは見てみたい。既製品を作ることで新しい問題にも出会うでしょうし。
岡﨑:今のところは「失われるものばかり」かもしれません(笑)。既製品にチャレンジして思うのは、本来のクリエイションがドレスすぎて、どうしても“グッズ”みたいになりそうなこと。「僕の持っている技術をちょっと入れた」みたいな見え方になりそうで日々実験ですね。
藪前:「ハリス リード(Harris Reed)」のようにゴージャスなヘッドピースやアクセサリーの展開など考えられますか?
岡﨑:シューズとバッグがいちばん造形的にチャレンジしやすそうかな、と思っているんですが、服も作れたらすごい可能性が広がるな、と。
──最後に、今日の対談を経て、いま率直に感じていることを教えてください。
藪前:ご自身の造形言語に確信を持っていて、何より「自分の作品にしかびっくりしない」と言い切っていること、とても希望を持ちましたし今後が楽しみです。
岡﨑:僕は、なぜ服を作っているのか自分でも分からないんです。でも、服を作っていると関節が拡張して新しい身体を作っているような感覚があって、そこに面白さを見出しているのは確かです。「目に見えない無から有を生み出した時に、自分自身が感動する」その感覚が好きなんだと思います。今日話して、僕がやっていることは、今日までにメディアが取り上げてくれていたような崇高なものではなく、すごく単純で、シンプルなことなんだな、と改めて思いました。

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