女優であり歌手の鈴木蘭々が今年でデビュー35周年を迎えた。原宿でスカウトされたことを機に芸能界入りし、数々のCMや番組に出演。2011年に自身の会社を立ち上げ、翌年から化粧品事業をスタートした。芸能人であり実業家でもある鈴木蘭々は、これまでどのような人に出会い何がブレイクのきっかけだったのか、そして35周年を記念して発売するアルバムについても語ってもらった。
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原宿でスカウトされた13歳の春
ー35周年、おめでとうございます。これまでの芸能生活を振り返っていただきたいのですが、原宿でのスカウトから始まっているんですよね。
スカウトされたのは、13才の春なんですが...。もともと、芸能人、特に歌手になりたくて。どうしたら歌手になれるんだろうと幼いながらに考えていたんです。オーデションを受けるにもお金がいるから、それを母には言い出せない...。そう思っていた時に、雑誌に、原宿でスカウトされてデビューした人が載っていて。「原宿に行けばスカウトマンがいるんだ!」と。それで原宿に行くことを決めました。
ーそれで本当にスカウトされちゃうんですよね?
はい。初めて竹下通りに行った時は、わざと目立つように制服を着ていきました。すぐに名刺をもらえたんですが、もう少しいろいろ情報を得たくて春休み中、通っていたら最終的に何十枚と名刺が集まったんです。
ー何十枚!すごいですね。
当時は今よりもスカウトマンの数が多かったからか、中には怪しいものもあったと思います。1件ずつ自分で電話して確かめた結果、今もある大手事務所と駆け出しのモデル事務所のどちらかにしようと。
ー13歳ですよね?自分で電話ってすごいですね。
そうですよね、ちゃんと確かめないとと思って。もちろん大手事務所はとっても魅力でしたが、芸能界に興味のない母を説得するには、母にも分かる話をしないといけない...というハードルがあったんです。そのモデル事務所は、雑誌「少年チャンピオン」と連携していて、「ミスチャンピオン」に選ばれると事務所所属やグラビア撮影ができるということだったんですが、その選考会の協賛企業が文房具メーカーのぺんてるで、絵を描いていた母になじみのある企業だった。それでモデル事務所に入ることにしたんです。
ーそれでCMでしょうか?デビューになるわけですね。
いや、それが簡単にはデビューできなかったんです。甘くないですよね。同じ事務所の子たちはオーディションに受かっていたので苦しい時期でもありました。たくさんのオーデションを受けては落ちて...。
当時の私はなぜか、「みんなと一緒になりたくない」という気持ちがあったんです。ポテトチップスの爽やかな世界観のCMのオーディションなのに「森の妖精をイメージして来ました」って言って落ちちゃう(笑)。それだと受からないですよね。
資生堂のCM出演が好機に
ー仕事が増えるきっかけはなんだったんでしょうか?
資生堂さん提供のティーン向けテレビ番組で流れる化粧品CMの出演が決まったんです。そのCMが日焼け止めやリップなど、季節ごとにシリーズ化されて一定期間続いて。それを機にマクドナルドや、ソニーの「ディスクマン」のCMのオーディションに受かり、出演することができました。
ーそこからどんどん仕事が増えたんですね。
そうですね。大手のCMに出演できたことは非常にラッキーでした。ソニーのCMは全国区かつ、高頻度で放映されたので知名度は上がった気がします。
ーそこから一気にブレイクしたと?
ブレイクしたのはもう少し先ですね。大手芸能事務所から独立し、後に私の事務所の社長となる男性との出会いがまた、次の転機になりました。雑誌「ザ テレビジョン」の「最近注目のCMの女の子」というテーマで掲載された私の写真がきっかけで、母が働いていたラーメン屋さんに直接交渉に来るほど彼の熱量は高かったんです。母に「命かけます」と伝えている姿に私も感銘を受け、彼と二人三脚でやっていこうと決意しました。
それまで事務所との約束で長い髪でなければいけなかった私に、彼は「髪切って良いよ」と言ってくれたんです。好きにして良いと。それがきっかけでいろんなお仕事が増えました。いわゆるブレイクしたって感じでしょうか。
「ポンキッキーズ」への出演
ーブレイクといえば、「ポンキッキーズ」は一つの転機ですよね。
はい。社長に何がやりたいのか?と聞かれた時に、子ども番組にしてはとてもおしゃれな作りで当時テレビで観ていたポンキッキーズの「のぼるくん」という男の子のキャラクターに憧れて、「これをやりたい!」と。それを聞いた社長は、その足でフジテレビに。無事、オーディションに受かって出演が決まりました。
ーポンキッキーズに出演するようになってとっても忙しくなり、大変だったのではないですか?
振り返ると忙しいスケジュールでしたが、当時は全てが初めての経験だったので、収録時間が長かろうがロケが遠かろうが、そういうものだと思っていました。辛いと感じたこともなければ、ストレスと思ったこともないし、疲れたと思ったこともなかったです。
ーそこからは、テレビで見ない日はないほどの勢いでしたね。
ありがたいことにお仕事をたくさんさせていただきました。自分でも信じられないことだったんですが、当時、原宿に友達と出かけたんですが、ラフォーレ原宿で買い物をしていたらたくさんのファンの方に囲まれて、もう全く身動きできないぐらいになってしまって...。結局、ショッピングは中止して帰らざるを得なくなり、友達には悪いことしました。
ポンキッキーズ出演していたころ
初めて感じた枯渇感と自分への飽き
ー本当にすごかったと思います。その後岐路となったことはありましたか?
ニューヨークに行ったことですね。19歳ぐらいからだんだん忙しくなり、ハタチくらいで歌手デビューして、そのころは怒涛のように仕事をしていました。初めてその時に枯渇感みたいなものを感じて...。当初憧れていたものが全て叶ってしまって。23歳ごろだったんですけど、自分に飽きちゃったという気持ちもあったかもしれないです。
この世界に限らずだと思うのですが、仕事がある時に休むことは絶対できないと思っていたんですが、社長に「1ヶ月ニューヨークに行きたい」と伝えたら、「いいよ」って言ってくれたんです。当時のマネージャーには迷惑をかけてしまいましたが(笑)、やっぱり行こうと。
ーNYではどんな時間を過ごしたんですか?
やりたいことを全部やりました。ブロードウェイでミュージカルを観たり、好きなファッションしたり、金髪にしてみたり...。楽しい時間でした。歌のレッスンにも通って。NYの先生はポジティブな声がけが上手で、ダメなところを指摘するのではなく、昨日よりも今日はここが良いよ、と言ってくれるので自信を持てるようになったと思います。1ヶ月経って1度、日本に帰国したんですが、結局その後、トータル1年ぐらいはNYで過ごしたでしょうか。
ニューヨークでの様子
NYから帰国して
ー帰国後はまた頑張ろうと心機一転できました?
はい、できました。帰ってきてからはミュージカルのオファーが来て、舞台の仕事が増えました。そんな中で、「大人計画」のミュージカル「キレイ〜神様と待ち合わせした女〜」が、12日後に幕が開く状況で出演者の1人が出演できなくなったと連絡が来て、代役を頼まれたんです。当時、大人計画の存在を知らず、演出家の松尾スズキさんのこともよく分かっていなかったほどだったんですが(笑)。
ーそれを受けたんですか?
ニューヨークで過ごした1年間は、ずっと歌とダンスのレッスンを受けていましたし、帰国後も仕事の有無に関係なくレッスンに通っていたので体力的に自信はありました。
ー演じ切って何か変化はありました?
周りからの評価が明らかに変わりましたね。そのミュージカルが終わってホッとしていたら、また代役を頼まれて...。そのころはとにかく代役が続きました。中には開演まで8日しかない作品も(笑)。それでもやり切ったことで自信もつきましたし、さらに評価も高くなったと思います。自分にとっても良い経験になりました。
芸能以外の仕事
ー舞台を中心にお仕事をシフトされて、出演を重ねていたと思います。なぜ化粧品事業を始めようと思ったのでしょうか?
実はもともと肌や体について学ぶことが好きで、2010年ごろに解剖生理学の学校に通い始めたんです。たまたま通った学校が“ガチ”のところで(笑)、かなり専門的な知識まで勉強したんですよ。一方で、2011年に事務所を退社して自身の会社を立ち上げました。その時に芸能界は安定的な職業ではないから、何か別の強みを持ちたいと思ったことがきっかけです。
ーそれで化粧品なんですね。
そうですね。2014年にオリジナルスキンケアブランド「ナリアコスメティクス(NARIA COSMETICS)」を立ち上げました。当時、洋服をプロデュースする芸能人はたくさんいましたが、化粧品はほとんどいなかったのでやってみたいと思ったんですよね。知人のつてに頼りつつ、何社かのOEMの方々と交渉する中で、とある会社のオリジナル商品が、舞台で化粧荒れしていた自分の肌にとても合って、明らかな変化を感じたんです。そこでその会社さんと組んで最初の商品である美容液「セルフュエルセラム(CELL FUEL SERUM)」(20mL 税込1万62000円)を開発しました。
ーセルフュエルセラムについて教えてください。どういった機能があるのですか?
この美容液は、植物幹細胞培養エキスを主体に、乳酸桿菌や酵母、数種類の植物エキスを配合しています。シワや乾燥、くすみなどの年齢肌にアプローチする商品です。また2017年に美容オイル「タマランスキンオイル」(20mL 同5280円)を発売しました。抗酸化作用がオリーブオイルの数十倍といわれるタマヌオイル(テリハボク種子油)をメインに、同じく抗酸化力の高いアルガンオイルとホホバオイル(ホホバ種子油)、そのほか3種類の美容成分を加えました。ベタつかないテクスチャーが特徴です。
セルフュエルセラム
ー発売して反響はどうでしたか?
オンラインのみの販売で大々的な宣伝をしなかった割には、滑り出しは良かったと思います。ただ、新しい販路を開拓して広げることはとても難しいことなんだなと感じました。それでも協力してくれるOEM会社さんの展示会で、ブースの一画お借りして自分でパンフレットを配りながら商品説明をするといった地道な活動を続けていく中で、大手百貨店のバイヤーさんとのご縁につながりました。
東京オリンピック前の当時は、市場でインバウンド向けコスメが右肩上がりでしたし、越境ECで中国に販路を広げようという業界の流れもありました。その百貨店さんも同様に、中国へのネットビジネスでの参入を考えていたんです。そういったタイミングでのご縁で、大手化粧品メーカーのブランドも揃えた百貨店さんのECサイトに出品が決定、越境ECでの販売が始まりました。大手メーカーさんのバナーの横に設立数年の私のブランドが並ぶのを見たときは本当に嬉しかったですし、奇跡だったと思います(笑)。
ー勢いが出てきましたね。
でもしばらくしてコロナが広がってしまい...。中国事業のすべてがストップして方向転換を余儀なくされました(笑)。
ー今は日本国内で販路を広げている?
ナリアコスメティクスの商品は、美容成分をフリーズドライ状にしたり、使用直前に溶かしたりと、いわゆる一般的な化粧品とは使用方法や価格を含め違いがあります。ニッチというか、他社さんにはないような製品を作っています。
現在はECを中心販路に、エステサロンさんにも卸しています。ここ数年で芸能人プロデュースのコスメも一気に増えてライバルも多いですが、地道に頑張りたいと思っています。フリーズドライ状のコスメはユニークで珍しい商品なので、海外にも目を向け新たな販路を開拓したいですね。
こだわりの美容法
ー美容といえば、ネットニュースなどでも話題になっていましたが、シャンプー剤を使わず髪を洗うというのは本当ですか?
本当ですよ! 最初は、解剖生理学を学ぶ中で顔のダブル洗顔をしなくなって...。洗いすぎるというか、こすりすぎてしまうと良くないですよね。1度の洗顔をきちんとするだけで大丈夫だと思うんです。そのおかげで肌の調子も良くなったような気がします。シャンプー剤を使わなくなったのは、ヘアカラーを長持ちさせたいと思ったことがきっかけでした。3年ほど前からシャンプー剤を使わない湯シャンを基本にしているのですが、仕事などでオイルやスタイリング剤を使った日や汗の多い季節は、数日に1度くらいの頻度でシャンプー剤を使うという感じです。使う時もゴシゴシ洗うのではなく、優しく頭皮を洗うイメージでクシュクシュと(笑)。すぐに洗い流さず泡パックをしばらくしてから流しています。
ー湯シャンだけで不快感はないのでしょうか?
初めは頭皮の油分が増えるのが気になりましたが、慣れてくると体が次第に余分な油を出さなくなるようです。体も、ボディソープはひんぱんに使わないですし、ナイロンタオルで体を擦ることも10年以上していないですね。
ースキンケアでこだわっているルーティンなどはありますか?
スキンケアのルーティンってあんまりないですね。その都度、お肌が欲しがっていそうなことをするという感じです。必要であれば保湿を、逆にたくさんのお手入れで肌を甘やかしていると感じたら何もつけないか、化粧水だけでケアする期間を数日設けていますね。たるみが気になると思ったら、顔ヨガをしばらく続けています。美顔器も一応持っていますが、数回連続で使用したら肌を休ませるというか...。そんなことを意識しています。アイドル時代はニキビケアをしていたくらいでした(笑)。
35周年のアルバムについて
ー芸能生活35周年を記念したアルバムについて教えてください。
デビュー曲の「泣かないぞェ」から、主にシングルをメインとした全16曲の構成です。自分ではもう2度と歌手として歌うことはないと思っていたのですが、2017年のひょんな出会いがきっかけで歌うことを再開しました。
ーというと?
シングル曲で「キミとボク」という曲があるのですが、その曲が好きすぎるという音楽プロデューサーと出会うんです。この曲がいかにすばらしいかを熱弁されて(笑)。出会った翌年が芸能生活30周年という節目の年でもあり、じゃあ30周年のライブをやろうと、2018年に渋谷で2日間のライブを開催しました。
そのライブには以前一緒に仕事をした方がたくさん足を運んでくださいました。中にはかつてのレコードレーベルのディレクターや、当時のマネージャーも。あまりにも懐かしい再会だったので、ライブ後も連絡を取り合うようになって「これを機にせっかくだから俺たちとも歌を作ろうよ」という話になったんです。そして2018年ごろからインディーズレーベルで曲の配信を始めました。その活動を続ける中、その後も縁が縁を呼ぶ形で、今回、ソニーからベストアルバムを出しましょうという流れになり...。35周年を記念して3つの新曲を加えたベストアルバムを制作するに至りました。
ーこのアルバムはどんな内容でしょうか?ファンの人に聞いてほしいところは?
バラエティのイメージが強い私なので、歌うイメージを持っている人は少ないと思うんですが、手前味噌ながらすてきな曲もたくさん入っています(笑)。今回、デビュー前にプロモーション用として収録した10代の私が歌うつたない英語のカバー曲や、筒美京平さんの未発表曲であるミディアムバラードも収めています。聞き応えのあるアルバムが完成したので、これを機に聞いてもらえたら嬉しいです。
ー今後、40周年に向け挑戦してみたいことはありますか?
もともとは、自分の将来や挑戦したいことを明確に決めるタイプだったんですが、コロナが流行したり、ウクライナで戦争が起こったり、世の中は予測してもどうしようもないこともあるんだなと...。平和だからこそ先の見通しが立つことを実感したんですよね。だから今は、状況変化に柔軟に対応できるメンタリティや思考を持っておきたいと考えています。
ーそのほか芸能活動で具体的にやりたいことは?
芸能活動でやりたいこと...。これまでまんべんなくいろいろなことをしてきたので、新たにと言われるとすぐには浮かんでこないのですが、あまりにも今の自分にマッチしていないもの以外なら基本は何でもやりますよ(笑)。ただしばらくは、このアルバムの宣伝活動かなと思っています。
40周年に向けては、実はちょっと考えていることがありまして。先日打ち合わせをしましたが、実現できるかはまだ分かりませんし、内容もまだ言えません(笑)。でも1つ言えるのは、自分のスキルは生かしつつ自分にとって新しいジャンルのプロジェクトです。
(聞き手:福崎明子、山本真由香)
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