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【連載:イヴ・サンローランと日本】第1話 日本のオートクチュール市場の幕開けと上陸までの経緯

イヴ・サンローランのポートレート

イヴ・サンローラン(1961年撮影)

Image by: Central Press/Getty Images

イヴ・サンローランのポートレート

イヴ・サンローラン(1961年撮影)

Image by: Central Press/Getty Images

イヴ・サンローランのポートレート

イヴ・サンローラン(1961年撮影)

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 「モードの帝王」と呼ばれ、20世紀を代表するファッションデザイナーの一人として知られるイヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)。同氏が1962年に創設したブランド「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)」は、「サンローラン(SAINT LAURENT)」と名を変えた現在も多くの人に親しまれているが、創業デザイナー時代の功績や日本上陸の歴史は意外にもあまり知られていない。そんな知られざるイヴ・サンローランと日本にまつわる歴史を、元モード誌編集者・跡見学園女子大学准教授を経て、現在ファッションジャーナリストとして活動する横井由利氏が全5回の連載で振り返る。第1話は、日本上陸までの経緯について。

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はじめに

 「パリはモードの中心」という認識は、1950年代に入りクチュールメゾンが海外にビジネスを拡大していった頃から定着し、今日に及んでいる。クチュールメゾンはビジネス拡大のために、まずアメリカのマーケットを選んで一定の成功を収めると、次に、戦後の経済復興が目覚ましい日本をターゲットにした。1953年の「クリスチャン・ディオール(Christian Dior)」と大丸百貨店のオートクチュール独占契約に始まり、クチュールメゾンと百貨店の独占契約が続いた。

 1962年に華々しくデビューした「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent、以後 サンローラン)」にアプローチした西武百貨店は、翌年オートクチュールの独占契約を結ぶと、プレタポルテ、ライセンス事業とビジネスを展開していった。同時にランウェイショーや美術展を開催し、サンローランの文化的な側面も消費者に披露した。

 この連載では、日本とサンローランの関係を、ビジネスと文化活動について幾つかのテーマを設け、紐解いていく。(文:横井由利)

1. 戦後オートクチュールメゾンの世界戦略

 第二次世界大戦が始まると、「シャネル(CHANEL)」、「バレンシアガ(BALENCIAGA)」、「ランバン(LANVIN)」などの戦前から存在していたクチュールメゾンは、贅沢や創造が制約され、営業を縮小せざるを得なくなった。シャネルは経営が困難になることを見越し、早々にメゾンをたたみ隠遁生活に踏み切った。

 大戦が終結し、パリのモード界に火を灯したのは、ジャン・コクトー(Jean Cocteau)のサポートを得て、クリスチャン・ベラール(Christian Bérard)が手掛けた小型の劇場に、最新モードをまとった人形が並ぶミニチュア・ジオラマ展示「モードの劇場(LE THEATRE DE LA MODE)」だった。こうして新しい時代のモードは開かれていった。40人のクチュリエと36の婦人帽子店が参加し、それらをまとった人形の展示会は、パリを皮切りに6ヶ国を巡り、戦争から解放された女性たちの心に変化をもたらした。これを機に休眠状態にあったクチュールメゾンは活動を開始し、パリにモードが帰ってきた。

 さらにパリを活気づけたのが、1947年のクリスチャン・ディオール(以後、ディオール)のデビューコレクションだった。そのショーを観たアメリカのモード誌『ハーパース・バザー(Harper’s BAZAAR)』の編集長 カーメル・スノー(Carmel Snow)*¹が、ショーの直後に言い放った「ニュールック(New Look)」という言葉は、一夜にしてアメリカに伝わり、さらに世界中を駆け巡った。ディオールの名前とニュールックと呼ばれたスタイルはたちまち有名になり、戦争から解放されて、おしゃれを楽しみたい女性たちを虜にした。

ディオールの通称「ニュールック」を纏った女性

クリスチャン・ディオールが1947年のデビューコレクションで発表した「ニュールック」

Image by: Serge Balkin/Condé Nast via Getty Images

 ディオールは、デビューコレクションを発表した1947年の秋には、アメリカの高級百貨店ニーマン・マーカス(Neiman Marcus)に招待されて、テキサスへ赴きショーを開催した。さらに、1948年秋にはニューヨークに子会社を設立し、モード界初となるライセンスビジネスを開始した。この新たなビジネスは、その後ムッシュ・ディオールのアシスタントを務めたピエール・カルダン(Pierre Cardin)やイヴ・サンローランが独立後展開するライセンスビジネスへ大きな影響を与えた。ムッシュ・ディオールはクチュリエであると同時に独自のビジネスセンスを持ち合わせていた。ディオール社のビジネスは、国内外のバイヤーに型見本、トワル、型紙の販売、オートクチュールの個人客への販売、ライセンスビジネスのロイヤリティとコミッションなどが中心だった。

 ディオールをはじめとするクチュールメゾンは、アメリカのマーケットへ進出し成功を収めると、次は戦後の経済復興が目覚ましい日本をターゲットにした。1960年代に入ると、日本のラグジュアリーブランドの売り上げ額は、アメリカに次いで世界第2位となっていた。

*¹ カーメル・スノー:1887-1961年。1920年代に米『ヴォーグ(VOGUE)』の編集者となる。後に『ハーパース・バザー(Happer’s BAZZAR)に移籍し、24年間編集長を務める。クリスチャン・ディオールのデビュー作を「ニュールック(NEW LOOK)」と呼んだという、有名なエピソードがある。伝説のヴォーグ編集長となるダイアナ・ヴリーランド(Diana Vreeland)の才能を見出し、20世紀ファッション編集の黄金期を築いた名編集長のひとり。

2. 日本におけるオートクチュールビジネスの始まり

 パリのオートクチュールは、1960年代まではファッション事情に詳しいメディアが発信する情報だけが日本に伝えられていた。しかし、ほんの一握りの富裕層の女性は、すでにパリのクチュールメゾンの服を手に入れていたという。オートクチュールの服は、まずコレクションを見て気に入った服をオーダーし、2~3回の仮縫いのためにパリに通うか長期滞在して、完成品を受け取る。服の代金以外に交通費や滞在費のコストが掛かるため、オートクチュールのサロンが日本にできるまでは、よほどの富裕層でない限りオートクチュールの服を身につけることはできなかった。

 その頃パリのファッション事情を伝えるメディアは、文化服装学院の出版部が1936年に創刊した『装苑』(戦時中は休刊し1946年に復刊)、1960年創刊の『ハイファッション』、森英恵ブランドのPR誌を1969年にリニューアルした『流行通信』の3誌だった。いずれもファッションに特化した専門誌として、アパレル企業やオーダーメイドの洋装店、おしゃれに敏感な女性だけが愛読する雑誌だった。

  1950年代中期に日本の高度経済成長期が始まると、海外との交流が盛んになり、クチュールメゾンは日本をビジネスパートナーに選ぶようになっていった。大丸百貨店は、クリスチャン・ディオールと1953年に独占契約を結び、大阪、神戸、京都、東京に上陸を果たした。髙島屋百貨店は「ピエール・カルダン(PIERRE CARDIN)」と1959年にライセンス契約を結び、その後阪急百貨店はランバン、松坂屋百貨店は「ニナ リッチ(NINA RICCI)」と契約をすると、モードの服が売り場に並び、消費者に届くようになったのだ。

 西武百貨店はまず「ルイ フェロー(Louis Feraud)」*²とプレタポルテ契約を結び、次に、1962年にオートクチュールデビューしたばかりの新進気鋭デザイナー イヴ・サンローランと翌1963年に独占契約を結んだ。「パリのモードを取り扱う百貨店=おしゃれ」というイメージが消費者の間に定着していった。

*² ルイ フェロー:デザイナーのルイ・フェロー(1921-1999年)が1950年代にフランス・カンヌで設立したブランド。1958年にメゾンをパリに移転しオートクチュールを、1960年にはプレタポルテのコレクションを発表。ブリジッド・バルドーをはじめ当時のスター俳優の衣装などを手掛けた。

3.  サンローラン社、日本上陸の経緯

 西武百貨店取締役店長を務めていた堤清二は、最先端のパリモードを扱う新しいビジネス展開を目指して、1960年代初頭にパリ駐在部を設け、そこにソルボンヌ大学を卒業したばかりの妹の邦子を駐在部長として在籍させた。大丸や三越、高島屋などの老舗百貨店に比べて、海外の高級服飾店とのつながりが希薄だっただけに、パリで注目を集める旬のデザイナーと契約を結んでいく邦子の活躍は「モードの最先端を行く西武百貨店」というイメージに変えていった。

 サンローランは、生涯のパートナーとなるピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)とメゾンを立ち上げ、1962年に初のコレクションを発表した。そのコレクションを見た邦子はサンローランの才能を見抜き、さっそくサンローラン社にアプローチしてオートクチュールの独占輸入販売権を獲得した。その後、西武百貨店とサンローラン社はオートクチュール、プレタポルテ、ライセンスと事業を拡大してゆき、長年のビジネスパートナーとなった。

 サンローラン社と日本の企業を結びつけたもう一人のキーパーソンが川添浩史だ。川添浩史は、第二次世界大戦前にパリへ渡り、外務省の外郭団体「国際文化振興会」の嘱託の身分を得て、パリに住む多くの文化人と交流していた。日本に戻った川添浩史は、パリ時代の実績をかわれて旧高松宮邸を改装した「光輪閣」の支配人となり、1970年大阪万博の富士グループパピリオンのプロデュースなども手掛けていた。

 川添浩史は、彫刻家を目指しイタリアへ渡っていた梶子と知り合い、結婚後六本木の飯倉にイタリアンレストラン「キャンティ(CHIANTI)」(キャンティは現在も営業を続けている)を開いた。キャンティは、多くの作家や芸能人、ミュージシャンなどが集う文化的なサロンの役割も果たしていた。川添夫妻が渡仏中に交流のあったサンローランも、来日するとキャンティを訪れている。

テーブルにつくイヴ・サンローランと川添梶子

キャンティを訪れたイヴ・サンローランと川添梶子

Image by: レストランキャンティ

 川添夫妻は直接サンローラン社とビジネスを行ったわけではないが、1970年、外苑前のプレタポルテのブティック「サンローラン リヴ・ゴーシュ(SAINT LAURENT rive gauche)」1号店のオープンに力を貸している。1973年、サンローラン リヴ・ゴーシュの営業権は、西武百貨店の流通グループのひとつ、サンローラン リヴ・ゴーシュ・西武に移った。──第2話につづく(2025年11月末公開予定)

ファッションジャーナリスト

横井由利

Yuri Yokoi

明治学院大学社会学部卒業。リヴ・ゴーシュ西武に勤務後、『マリ・クレール ジャポン』、『GQ ジャパン』、『ハーパーズ・バザー 日本版』の副編集長を務める。跡見学園女子大学 生活環境マネジメント学科准教授を経て、現在はファッションジャーナリストとして活動。

edit: Erika Sasaki(FASHIONSNAP)

【連載】イヴ・サンローランと日本 全5話
第1話:日本のオートクチュール市場の幕開けと上陸までの経緯
第2話:日本市場を切り拓いたオートクチュール、プレタポルテ、ライセンス戦略

最終更新日:

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