【連載:イヴ・サンローランと日本】第2話 日本市場を切り拓いたオートクチュール、プレタポルテ、ライセンス戦略

イヴ・サンローランと4人のモデルたち(1963年撮影)
Image by: Keystone-France/Gamma-Keystone via Getty Images

イヴ・サンローランと4人のモデルたち(1963年撮影)
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イヴ・サンローランと4人のモデルたち(1963年撮影)
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「モードの帝王」と呼ばれ、20世紀を代表するファッションデザイナーの一人として知られるイヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)が1962年に創設した「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)」。現在は「サンローラン(SAINT LAURENT)」として親しまれる同ブランドの、創業デザイナー時代の知られざる功績や日本にまつわる歴史を、元モード誌編集者・跡見学園女子大学准教授を経て、現在ファッションジャーナリストとして活動する横井由利氏が全5回の連載で振り返る。
日本のオートクチュール市場の幕開けとブランドの上陸までの経緯を辿った前回。続く第2話は、オートクチュール、プレタポルテ、ライセンスビジネスを通してブランドが日本市場に浸透していった過程を紐解く。
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デザイナーのイマジネーションを職人の技が具現化するオートクチュール、デザイナーの時代を先読みする力によって生み出されるプレタポルテ、そのデザイナーのイマジネーションをより多くの人に共有できるようにしたライセンス商品⎯⎯20世紀のモードは、時代のニーズに合わせてその形態を変化させていった。そして日本において「イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent、以後 サンローラン)」は、オートクチュール、プレタポルテ、ライセンスと全てのカテゴリーを備え、女性の感性を刺激した。この回では、3つのカテゴリーが日本のマーケットに浸透していく過程を、ビジネスの視点で語っていく。(文:横井由利)
目次
1. メゾンとデザイナーの真髄⎯⎯オートクチュール
オートクチュールが日本に進出したのは、戦後間もない1953年に、「クリスチャン・ディオール(Christian Dior)」と大丸百貨店が独占契約を結び、京都、大阪、神戸、東京で取り扱い、東京店にはパリのメゾンのような「クチュール サロン」を開設したことに始まった。
1955年、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent、以後 サンローラン)はムッシュ・ディオールのアシスタントデザイナーとして採用され、クチュリエとしてのキャリアをスタートさせた。1957年にムッシュ・ディオールが急逝すると、若干21歳のサンローランは主任デザイナーとなり華々しいデビューを飾ることになった。ところが、サンローランは1960年にフランス陸軍に徴兵されると、繊細な神経の持ち主だっただけにすぐに精神を病み除隊。一方ディオール社は、サンローランを解任してマルク・ボアン(Marc Bohan)を主任デザイナーに任命した。
傷心のサンローランを救ったのが、生涯のパートナーとなるピエール・ベルジェ(Pierre Bergé)だった。二人でクチュールメゾンを設立し、1962年1月29日にサンローランの名前を冠した初のコレクションショーを開催すると、たちまちトップデザイナーとして世界に名を轟かせた。
サンローラン・オートクチュールの日本進出
新進気鋭のデザイナー サンローランに興味を示す西武百貨店パリ支局長の堤邦子に、サンローラン社はファーストコレクションの招待状を送った。そのコレクションでサンローランの才能を目の当たりにした堤邦子は、日本でのオートクチュール・サロン開設の契約を結びたいと東京本社へ申し出た。
翌年の1963年、サンローランは東洋レーヨン(以後、東レ)とのプレタポルテの契約と、西武百貨店とのオートクチュールの契約のために初来日すると、東京と大阪で東レ主催のオートクチュールのショーが開催された。

1963年のショーの様子。中央右がイヴ・サンローラン、中央左がピエール・ベルジェ
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西武百貨店は、サンローラン社とのオートクチュール独占契約が結ばれると、オートクチュール・サロン開設の準備を始めた。サロンの主要メンバーとなるお針子候補など数人の技術者をパリへ2年間派遣し、技術を習得させた。サロン開設の準備が整うと、堤邦子はサンローランのコレクションの中から、日本人顧客が好みそうなデザインの服をサンプルとして2着ずつオーダーし、そのサンプルやトワル、テキスタイル、ボタンなどの小物から縫製用の糸まで揃えたものが東京に届けられることになった。
1968年に西武百貨店渋谷店がオープンすると、4階にオートクチュール・サロンが新設された。そこでは、年2回開かれる春夏と秋冬シーズンのコレクションを顧客だけが見られるサロンショーが開かれた。そこで顧客が服をオーダーすると、営業のフィッターと外部のアトリエ職人が製作にかかった。服の完成度を上げるため、サロンには特別な顧客用のトルソー(人台)が備えられていたという。仮縫いは数度におよび、その度にパリへ送りメゾンのチェックを受け、修正するという工程が2~3度繰り返された後に、完成した服が顧客に渡されるというシステムが構築された。


西武百貨店渋谷店 オートクチュールサロンでの1968年秋冬コレクションのショー招待状(個人私物)
Image by: FASHIONSNAP
パリの格調を再現した「西武PISAのサロン」


西武PISAのイヴ・サンローランオートクチュールサロン(「PISA」1980 SPRING/SUMMER NO.65より)
オートクチュール・サロンは、1980年に東京プリンスホテルの地下にある西武PISAに移転した。そのサロンは、パリ・アヴェニュー マルソーの雰囲気を再現し、顧客への応対、会話、マナーなどを訓練された社員が誠意あるサービスに努め、オートクチュール・サロンとしての矜持を示していた。1950年代後半になると百貨店がオートクチュールを手掛けるようになり、大丸の「ディオール(Dior)」「ジバンシィ(GIVENCHY)」「バレンシアガ(BALENCIAGA)」、高島屋の「ピエール・カルダン(PIERRE CARDIN)」といったクチュールメゾンが設けられたが、次第にそのサロンが閉鎖していく中でも、西武PISAのオートクチュールサロンは1990年代まで運営されていた。
日本製オートクチュールの服に付いているラベルには、「プロトタイプ」と「顧客のための服」を表す2種類のラベルが存在した。顧客はサンプルを意味する「プロトタイプ」通りにオーダーするのが通常だったが、場合によってはテキスタイルの種類や色、スカート丈、袖丈などを変更して仕上げるものもあった。

プロトタイプのタグ
Image by: FASHIONSNAP

西武オートクチュールのタグ
サンローランの1969年春夏コレクションのジャージーのチュニック・パンタロンスーツは、本来は長袖のトップだったものが半袖に仕立てられている*¹。当時、本国では「半袖」という発想は無いため、日本の顧客の希望を取り入れて仕立てたものといえる。

*¹ 半袖で仕立てられた日本製オートクチュールのチュニック・パンタロンスーツ
Image by: FASHIONSNAP
1970年代のオートクチュール・サロンでは、コレクション期間中はメゾンにマヌカン(モデル)を常駐させ、顧客が間近で見られるようなサロンで個別のフロアショーが開かれていた。そのショーは、音楽もなくマヌカンがナンバーカードを持ち歩くだけのシンプルなものだった。1980年代に入り、ルーブル美術館の中庭にテントを張って500人規模のプレタポルテのショーが開催されるようになると、オートクチュールのショーもサロンから出て、世界中から集まるジャーナリストやバイヤー、顧客のために規模を拡大してコレクションを発表するようになった。
1999年、サンローラン社はオートクチュールとプレタポルテ部門を分割し、プレタポルテ部門は、グッチグループ(現 ケリング)へ売却した。それ以降、サンローラン社はオートクチュールのみを運営していたが、社長 ピエール・ベルジェがメディア取材を受ける度に「イヴ・サンローランがデザインしないオートクチュールはあり得ない」と言っていた言葉通り、2002年のイヴ・サンローランの引退とともにオートクチュール・メゾンは閉鎖された。
2. 新時代に即したファッションを提供⎯⎯プレタポルテ
時代の変化に敏感なサンローランは、民主化の流れを敏感に察知し、新しい時代に即したファッションを女性たちに提供するためにプレタポルテを提案することにした。そうした中で、1966年9月にパリ左岸6区のトゥルノン通りにブティックをオープン。ブティックは「サンローラン リヴ・ゴーシュ(SAINT LAURENT rive gauche)」と名付け、商品にも同じく「サンローラン リヴ・ゴーシュ」のタグが付けられた。1980年代末には、プレタポルテの表記が「イヴ・サンローラン リヴ・ゴーシュ(Yves Saint Laurent rive gauche)」に変更された。サンローランの体調不良が伝えられる中、負のイメージを払拭するための施策だったのかもしれない。
他メゾンは、プレタポルテをオートクチュールの廉価版と位置付けることが多かったが、それらとの差別化を図るために、リヴ・ゴーシュの商品はシーズン毎にテーマを設け、メイド・イン・フランス製のものをプレタポルテとした。
来日に合わせてショー開催も「東レプレタポルテ」
1963年、イヴ・サンローランは東レとプレタポルテ契約を結ぶために来日した。1963年5月号の「装苑」に「東レは、自社で開発したトレンドの合成繊維テトロン素材を使用したプレタポルテ(高級既製服)を、サンローランデザインとして売り出す計画を立てた。契約によって、50点のサンローラン自身のデザイン画とトワル(型紙)を得て、さらに東レの顧問デザイナーによる300点のデザインを加えて、(中略)全国各地の有名店で販売」と記されている。サンローランの来日に合わせて、東レはオートクチュールのショーを開催した。
また、三島由紀夫は小説「肉体の学校」(集英社 1964年刊)でサンローランを「小鳥のようにデリケート」「何しろ針金みたいな神経」の持ち主と表現し、そのショーの模様を描いている。
トレンディスポットになった「日本1号店」
1960年代後期になると、世界的な傾向として、モードの最先端はオートクチュールからプレタポルテへ移っていた。海外のモード情報が伝わるようになっていた日本にも、プレタポルテの波が押し寄せていた。
リヴ・ゴーシュの日本導入を目論み最初に動いたのは、ヴァンヂャケット(VAN JACKET)の社員だった柴田良三だった。柴田は、世界的に実力と知名度を上げていたサンローランのメンズライン「サンローラン・リヴ・ゴーシュ・オム(SAINT LAURENT rive gauche HOMME、以後 リヴ・ゴーシュ・オム)」を「ヴァン(VAN)」で取り扱いたいと社長の石津謙介を説得して、サンローラン本社へ商談に向かうことになった。柴田は、学生時代からレストラン「キャンティ(CHIANTI)」に通い、川添浩史・梶子夫妻に影響を受けていた一人で、サンローランと親交の深い夫妻の助けを得て、サンローラン社とのアポイントを取り付けることができた。
日本にリヴ・ゴーシュ・オムを導入したいと申し出た柴田に対して、サンローラン社は、スタートしたばかりのオムを海外展開するには時期尚早だが、ファム(ウィメンズ)のリヴ・ゴーシュの契約なら可能と答えた。その答えを持ち帰った柴田は、結果的にヴァンヂャケットを離れ、サンローラン・リヴ・ゴーシュの設立に尽力することにした。後に、アルファ・キュービック社を設立し、リヴ・ゴーシュ・オムとライセンスビジネスに関わることになった。
サンローラン・リヴ・ゴーシュの国内1号店は、1969年4月に東京・外苑前にオープンし、世界で47番目の店舗となった。ブティックの内装は、本国同様コンコルド旅客機の客室をデザインしたイザベル・エベ(Isabel Eve)が担当。パッケージから名刺、レターヘッド等、全てのイメージを統一するという、ブランドビジネスの手法が用いられるようになった。
店舗もフランス風に「ブティック」と呼ばれ、オープン当時から「キャンティ」に集まる文化人や役者、ミュージシャンなどが訪れ、顧客の要望によっては夜中まで営業するトレンディなスポットとなった。1972年に店舗は六本木に移転し、後に、オムのブティックとなった。
日本展開拡大の立役者「リヴ・ゴーシュ・西武」
一方、西武百貨店は流通グループの一つとして、1973年3月にサンローランのプレタポルテブティック運営とライセンス契約の業務を担う株式会社サンローラン リヴ・ゴーシュ・西武を設立した。同年6月には、リヴ・ゴーシュ・西武と商号が変更された。
サンローラン リヴ・ゴーシュのブティックは、1973年4月に1号店となる丸の内店の出店を皮切りに、同6月に渋谷パルコ1階に渋谷店、1974年11月に新宿店、1975年8月に札幌店、同9月に新装開店した西武百貨店内に池袋店、同12月には渋谷パルコパート2の1階にリヴゴーシュ オムと次々にオープンした。
1980年代に入ると店舗はさらに全国へと拡大し、1984年には13店舗だったものが、1993年には全国で展開する西武系列の百貨店をはじめとする24店舗へと増加していった。店舗拡大に伴い、サンローランの来日や大規模ショーの開催が増えたことからも、日本のマーケットに対する本国の期待度の高さが伺える。

サンローラン・リヴ・ゴーシュのパンツスーツを纏ったモデル(「PISA PARIS FASHION NEWS」1981-1982 AUTUMN/WINTER NO.75より)
また、西武百貨店のブランドビジネスへの新しい取り組みとして、通常百貨店内にブランドのコーナーを設けて展開していたところ、1975年に池袋店が増床すると、リヴ・ゴーシュは初のショップ・イン・ショップ方式を導入。他ブランドもそれに倣うようになった。

「サンローラン・リヴ・ゴーシュ」の初期のロゴ

1990年代以降のロゴ
パリ、ミラノ、ニューヨーク、ロンドンのインポートブランドは、1970年代になると、春夏と秋冬の2シーズン制でコレクションのショーを開催するようになった。リヴ・ゴーシュの各店店長は、新作コレクションを見た後、数日かけて買い付け業務を行う。そこでは、店舗顧客の好みやトレンド(売れ筋)を見極め、来季の売り上げ目標に沿った買い付けが行われ、ショーから約半年後に商品のデリバリーが始まる。商品が到着すると、商品サンプルをモデルに着用させて、ブティックのフロアやホテルなどの催事場でショーを開催し、その場で予約を取る仕組みが完成した。店舗での一般販売も行われ、売り上げが上昇するに伴い、右肩上がりの日本経済と相まって店舗が増加していった。
サンローラン社は、1999年にオートクチュールとプレタポルテ部門を分割し、プレタポルテ部門をグッチグループ(現 ケリング)へ売却した。それに伴い、日本での営業権は西武百貨店以外の企業に移り、現在はケリングジャパン イヴ・サンローラン ディビジョンが運営している。
3. 収入源かつ一般消費者を魅了⎯⎯ライセンスビジネス
1947年、ディオール社は高級既製服とアクセサリーを販売するディオールNY社を設立し、1950年にはライセンス契約と大量販売を手掛けるディフュージョン部を設立した。この時点で、ストッキングなどのライセンス契約の基礎が構築された。当時、ムッシュ・ディオールのアシスタントを務めていたサンローランとピエール・カルダン(Pierre Cardin)はそこでライセンスビジネスを知り、それがブランドのビジネスを拡大する糧になることを学んだ。独立後は両者ともライセンスビジネスを推進し、大きな収入源となっていった。
ライセンスビジネスには、ブランドのクリエイティビティと知名度が必要不可欠だ。商品にデザイナーの名前が記されたタグが付くだけで、付加価値が増す。つまり、オートクチュールで毎シーズン発表されるモードが人気を博せば、そこに付加価値が生まれ、異国で生産された商品が輝くという仕組みになっているのだ。製品作りにはブランド側もイメージの統一や品質管理に目を光らせ、商品化までに何度もアプルーバルを得ることを条件としていた。
オートクチュールでもプレタポルテでもない安価に手に入るブランドのライセンス商品は、一般消費者を魅了していった。しかし、ライセンス商品が日用品にまで拡大していくと、ブランドのイメージが損なわれていくようになったことも否めなかった。
サンローラン社の日本におけるライセンスビジネスは、西武百貨店をはじめとした複数の企業によって、1972年以降に本格化していった。「モードの物語」(文化出版局 2013年刊)の著者 ディディエ・グランバック(Didier Grumbach)によると「サンローラン・リヴ・ゴーシュ社のアンドレ・レヴィは、1973年東京に2週間滞在して13社とライセンス契約を結んだ」と記している。
さらに、サンローラン社と大々的にライセンスビジネスを展開していた西武百貨店は、ライセンス契約を結んでいる企業に向けて「1975年イヴ・サンローラン来日に際しての資料」を配布し、結束を促した。そこでは、サンローランの経歴やビジネスパートナーとなるライセンシー各社とライセンスのアイテムを紹介している。1975年時点のライセンス契約の形態は、サンローラン社と直接契約した13社のライセンシーと、製品作りのみを引き受ける18社のサブライセンシーで構成されていた。

イヴ・サンローランのライセンスのスカーフ
Image by: FASHIONSNAP

イヴ・サンローランのライセンスのブローチ
アイテムとしては、ニット、ブラウス、タオル、スカーフ、ハンカチ、ハンドバッグ、婦人・紳士靴、ネクタイ、レザーウェア、ベルト、傘、壁紙、香水と石鹸(直輸入)、子どもニット、ストッキング、レディースランジェリー、紳士靴下、財布、クッション、紳士スーツ、コットン・シャツ、プリント生地、レインコート、スポーツウェア、時計、手袋、カーテン、ベッドファニシング、カーペット、アクセサリー、壁布、椅子張り、紳士パジャマ&ガウン、鞄、サングラス、オプティカルフレームと37種に及んだ。
ライセンシーとサブライセンシーは、ロイヤリティ(契約料)と、商品1点ずつの売り上げにかかる数パーセントのコミッションを支払う仕組みだ。サンローラン社は、シーズン毎に契約に基づいた点数のデザイン画をライセンシー、サブライセンシーに渡すと、ライセンシーはデザイン画や仕様に即したサンプルを製作し、パリ本社の品質、色、デザインなどのチェックを受ける。場合によっては、パリ側が要求する修正を数度繰り返すこともあった。サンローランのアプルーブを得た後に商品化して店頭へ並ぶ、という工程をシーズン毎に行っていた。また、ライセンス商品の広告は、各ライセンシーやサブライセンシーが費用を負担して制作するのが慣例となっていた。
コングロマリット化がまねいたライセンスビジネスの終焉
サンローラン社は、1999年にグッチグループ(現 ケリング)に買収されると、「ブランドのイメージを損ねる」との理由でライセンス契約は順次終了していった。この流れはラグジュアリーブランド全体に及び、カネボウは1997年にディオール社との契約が終了し、銀座のショップを閉鎖した。LVMH モエ ヘネシー・ルイ ヴィトン(以後、LVMH)の傘下となったディオール社は全面的にライセンスビジネスを終了し、銀座に直営の旗艦店を設けた。
1980年代後期には、LVMH、PPR、リシュモン(Richemont)のラグジュアリーブランドをグループ化するコングロマリットにより、モード界は再編成されていった。それに伴い、1989年にディオール社がLVMH傘下となると、1997年にはライセンス商品が中心だったカネボウ ディオールとの契約を解消した。また、1999年にサンローラン社がPPRグループ傘下になると、日本のサンローラン リヴ・ゴーシュの営業権は西武百貨店から他社へ移り、ライセンスビジネスは終了していった。さらに、バーバリー(BURBERRY)社は45年に及ぶ三陽商会との契約、ラルフ ローレン(Ralph Lauren)社とオンワード樫山のライセンス契約も解消されていった。
これらの傾向は、ブランドが本国主導のジャパン社を立ち上げることでグローバルイメージの統一を図ろうとするもので、日本におけるラグジュアリーブランドのライセンスビジネスは終焉を迎えることになった。──第3話につづく(2025年12月末公開予定)
明治学院大学社会学部卒業。リヴ・ゴーシュ西武に勤務後、『マリ・クレール ジャポン』、『GQ ジャパン』、『ハーパーズ・バザー 日本版』の副編集長を務める。跡見学園女子大学 生活環境マネジメント学科准教授を経て、現在はファッションジャーナリストとして活動。
edit: Erika Sasaki(FASHIONSNAP)
【連載】イヴ・サンローランと日本 全5話
第1話:日本のオートクチュール市場の幕開けと上陸までの経緯
第2話:日本市場を切り拓いたオートクチュール、プレタポルテ、ライセンス戦略
最終更新日:
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【イヴ・サンローランと日本】の過去記事
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