Hiroshi Ashida

【ゆるふわ東コレ日記2-4】─適切な器を与えること

蘆田裕史

京都精華大学ファッションコース講師 / 批評家

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日本語では、生活において重要なものをあらわすのに「衣食住」という言葉がよく使われます。衣と住、つまりファッションと建築はともに人間の身体を覆い守るものという観点からしばしば近しいものとして語られることがありますが、もうひとつの食も実は同じようなものとして見ることができます。その三者に共通するものは「デザイン」という概念です。

イタリアの美術家にしてデザイナーのブルーノ・ムナーリ(Bruno Munari)はその著書『モノからモノが生まれる』においてデザインの方法論を記しているのですが、そこでは料理の例が出てきます。詳しくはこの本を読んでもらうとして(僕は大学でこの本をファッションデザインの教科書として使っています)、実際、デザインにおいて重要なポイントは料理の例で考えるとわかりやすくなることがよくあります。

記念日でも誕生日でもよいのですが、ふだんは行かないように奮発してちょっと高級なレストランに行ったとします。次々に運ばれてくる料理。味はおいしい。「でも、この器なんか安っぽいな...、そういえば昨日100均で同じものを見た!」ということがあったらどうでしょうか。いや、別にこのような例でなくても良いのですが、料理はおいしいのに、それが盛りつけられている器が安っぽい。それで満足感は得られるでしょうか。おそらく、「どうせなら器も料理に見合ったものにしてくれたらいいのに」と思ってしまうのではないでしょうか。

これをファッションショーの場合で考えてみれば、そこで発表される服が料理で、会場が器となります。どんなにいい服を作っても、器がそれに見合っていなければその魅力は半減します。「日記2-2」で書いたように、ファッションは服がイメージをまとってはじめて成立するものだとすれば、やはり器というのは重要な役割を果たすはずです。そうした観点から見ると、東コレでショーを行っているブランドのなかで、「ラマルク(LAMARCK)」はいつも服に適切な器を与え、そのことによってイメージを作り上げるのに成功しているといえるでしょう。あるいはまた前シーズンの「ビューティフル ピープル(beautiful people)」なども好例です。

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こうした器のたとえはなにも会場だけにあてはまる話ではありません。たとえば服の上に表される柄などもそうです。今シーズンの「スポークン ワーズ プロジェクト(spoken words project)」は「ewokiru」と題してデザイナー自身が見た風景を一旦「絵」にし、それを服に落とし込むというプロセスをとっていました。

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これはラーメン屋のカウンター手前にならんだ椅子がモティーフになっているとのことです。よく見てみると、「絵」の状態では椅子の脚から影のような線が斜めに伸びているのがわかりますが、このグラフィックが服にのせられたときには斜線が消されています。絵も服もグラフィックをのせる器という点では共通していますが、それぞれの特性があります。下の絵の場合はフレームにきっちりとテキスタイルがはられ、そのフレームは縦横の直線のみから成っています。一方、服の場合は人が着ることに立体感が出ることや、身体の曲線に沿うために必ずしも枠が直線になるわけではありません。縦横のみの枠の場合は斜線が効果的に作用しますが、立体かつ曲線で構成される枠の場合は、ともすれば斜線がうるさくなるおそれがあります。作品と器の適切な関係を考える、それは簡単なように見えますが、時間をかけて試行錯誤を繰り返した結果でもあるのでしょう。そうしたデザイナーの誠実な態度というものはもっと評価されるべきだと個人的には思います。

【ゆるふわ東コレ日記2-1】─枠組み
【ゆるふわ東コレ日記2-2】─スタイリッシュであるということ
【ゆるふわ東コレ日記2-3】─ファッションのアーカイブ


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