高田賢三と鈴木三月(筆者)、2019年7月 東京にて
Image by: Yayoi Suzuki
高田賢三を公私にわたりサポートした一人の女性の手記・第2回からつづく——
2016年2月27日、賢三さん77歳の誕生日の当日。賢三さんから電話があったのでお祝いの言葉を伝えると、「今、病院なんだよね」と返ってきて飛び上がるほど驚いた。急性膵炎で入院したという。
心配したのだが、しばらく療養して無事に回復。でもその後、今度は私が慢性膵炎を患ってしまった。「私もなっちゃいました」と電話で伝えたら、「僕は移してないよね!?」と。「大丈夫です膵炎は移りませんから、私の不摂生です」と二人で笑った。
(2020年10月 C'est chouette 鈴木三月 手記)
2010年代——奇跡のような旅
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2016年6月、フランス政府から名誉あるレジオン・ドヌール勲章シュヴァリエ位を受勲した。10月には、株式会社セブン&アイ・ホールディングスにデザイナーとして迎えられ「セットプルミエ バイ ケンゾータカダ(SEPT PREMIÈRES by Kenzo Takada)」を一年間限定で発表。病み上がりとは思えないほどアクティブに、パリと東京を忙しく行き来していた。
一方で私の不運は続き、今度は雨で転んで肩に近い鎖骨を折ってしまう。でもその時、賢三さんと九州に向かう予定が迫っていた。なので手術を先送り。予定通り同行します、と伝えると「あ〜良かった!」と素直に言われたので、痛みを忘れて笑ってしまった。道中の旅館で、腕の三角巾にサインをお願いしたら、芍薬の花の絵と、座右の名である「夢」と書いてくれた。(夢、かあ・・・)と少し微妙な気持ちになりつつも、嬉しかった大切な思い出。
まだ骨が治りきらないうちに、また転びそうになった私を、賢三さんが咄嗟に支えて助けてくれたことがある。でもその時、自分の腕で賢三さんの胸をチョップする格好になってしまい、「これで賢三さんの鎖骨が折れたら大変だった」と同行していた皆に笑われた。あぁ、本当に折れなくてよかった。あの時の賢三さんの「僕は命の恩人ですからね〜!」という得意顔を思い出すと、今でも吹き出してしまう。
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喜寿を迎えてもなお若々しい体躯で、誰よりも姿勢が良く、クラシックスタイルがよく似合っていた賢三さん。スーツは「サンローラン(SAINT LAURENT)」が多かったが、以前は「ディオール・オム(DIOR HOMME)」を着ていたこともあった。クーラーの風で喉を痛めやすく夏も上着が手放せないので、「プラダ(PRADA)」の中綿入りジャケットは同じ形のものを数枚持っていた。冬のインナーはユニクロのヒートテック、アウターでは「ランバン(LANVIN)」のダウンが近年の大のお気に入り。
靴は、プラダのブーツやスニーカー、移動の多い日には「ナイキ(NIKE)」——スニーカーのことを「運動靴」と言うのが可愛らしい——。大判の暖かいストールは、必ず3~4色は欠かせない。カール・ラガーフェルド(Karl Lagerfeld)さんから頂いたという、「シャネル(CHANEL)」の腕時計を大切にしていた。
夏の定番は「ジョン スメドレー(John Smedley)」のポロシャツで、色違いで何枚も所有。ポロの下には必ずTシャツを着て、ニットのベストにジャケットという出で立ち。「なんか今日、暑いね」と言っていた時は、(それだけ着ていますからね)と心の中で思いながら、これまた汗をかくと風邪を引いてしまうので、常に心配していたことを思い出す。そのための着替えをいつも、私のカバンの中にしのばせていた。
だから私のバッグは大きくて重い。そんな時に決まって賢三さんが言う。「これ、入る?」。返事はもちろん「入りますよ!(汗)」。
たまに装いを変えて、「クロムハーツ(CHROME HEARTS)」のブレスレットやベルト、レザーパンツ、なんていう日も。「ロックンロールだね~っ」と、その日の気分でコーディネートを楽しんでいた姿が懐かしい。
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パリでデビューした時から、旅はインスピレーションの源。仕事も含め、世界中の色々なところに連れて行ってもらった。旅先ではその国の民族衣装をディナーに着ていくのが賢三さんの流儀。プーケットではパレオ、インドではシルクのセットアップなど。その国の伝統や文化を隔てなく取り入れてアレンジする、アーティスト高田賢三の真骨頂を生で見るようだった。
ムジェーヴのスキー場では、転んで雪だるまのようになっていた賢三さん。プーケットの別荘ではクルーズをご一緒した。皆でお酒を飲み、今年他界された志村けんさんの"変なおじさん"の衣装——私が日本から持って行ったのだが、快く身に着けて楽しんでくれた——で踊ったりと、旅先でも楽しませることを忘れない。TV取材でタヒチに同行した時には、賢三さんの大好きなゴーギャンが晩年に住んでいたマルケサス諸島の家を見に行ったり。フラダンスを踊り、パレオを作り、少年のようにこんがり日焼けした姿を思い出す。遊びにも一生懸命で、その瞬間を思い切り楽しもうとするスタンスはずっと変わらなかった。
1995年、プーケット(筆者提供)
日本の旅ではスタッフやご友人が同行することが多かったが、私がいつも側で付き添っていたので、温泉宿では「ご夫婦でごゆっくりどうぞ」と間違われたことが何度もある。でも近年ついに、明らかに賢三さんより年上の旅館のご主人に「賢三さんのお母さまですか?」と聞かれてしまった。賢三さんに伝えると大爆笑。それをネタに、帰りの新幹線で「お母さん、爪切り持ってる?」とジョークを繰り出す。旅はいつも笑いが絶えなかった。
2017年、熊本・くまモンと一緒に(筆者提供)
一方で、常に人に対して謙虚で、初対面の人も仕事関係で会う人も、必ず最初と最後に深々と頭を下げていた姿が印象深い。年齢も性別も関係なく。
賢三さんがご兄弟と旅行で箱根を訪れた時、箱根に住んでいる私の母が是非ご挨拶がしたいと言うので、ホテルまで一緒にお迎えに上がったことがある。ロビーで私の母をみつけるなり、賢三さんが真っ先に「いつも、本当にお世話になっております」と深々とお辞儀。「いえいえ、そんなそんな、こちらこそ!」2人で何度も何度も、お辞儀が止まらない。そんな人柄だから誰からも愛され、尊敬されていたのだと思う。
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