
Image by: FASHIONSNAP(Ippei Saito)
1990年より東京、パリなどの各都市で開催されるファッションショー及びデザイナーへの取材を続ける。雑誌『QUOTATION』のファッションディレクターを務める傍ら、新聞、雑誌に記事やコラムを定期的に寄稿。桑沢デザイン研究所非常勤講師。2019年より2021年まで共同通信社47newsにてコラム『偏愛的モード私観』を毎月更新。2014年より現在までFASHIONSNAP.COMにて短期連載『モードノオト』を寄稿。(photo by Shuzo Sato)
今日「ムッシャン(mukcyen)」のショーを取材して思った。ボンデージとかランジェリーの細部を見て思った。白状するが、私は、女性が作る女性の服に、あまり魅力を感じたことがない。勿論、例外はある。女性が作る女性の服に、感服することはある。意中の女性デザイナーの名前を一つ一つ数えると切りがない。ここで誰々と名前を挙げるのは相応しくない気がするから割愛するけれど、寧ろ、男のデザイナーの比ではないかも知れない。

Image by: FASHIONSNAP(Ippei Saito)
世間に倣って、遅まきながら、「多様性」と云う題目がファッションの世界でも喧しくなって久しい。遅まきながらと云ったのは、多様性と云う概念こそ、そもそもファッションを、ファッションたらしめる、心理的衝動であった筈の動機に相違なく、それが、今更ながら大手を振って再登場してしまうのだから、さしずめデザイナー諸氏、よほどコレクションノートに書き付けるテクニカルターム(煽情的な用語)が欠乏しているのだなと、いや、関係者よりお叱りを受けるのは覚悟の上だけれど、もそっと気の利いた主題、楽曲の中心となる楽想を端的に表現する術語が使えないものかと、ここ数シーズンの間、心待ちにしている私の身にもなってみなさいな。でも、なんだなぁ、こんな傍観者ヅラした他力本願を懐にするのは卑怯と云うものだなぁと独り言つ愚者一人。
閑話休題。改めて多様性について語るつもりはない。男が作る女の服には、男のエゴがあるから面白い、と云いたいだけだ。炎上覚悟で云うとね、男の私から見ると、男自身のエゴが、彼らの作る服に滲み出るから、男の作る女性の服は面白いのだ、と云う得手勝手な論法である。理論発展の方式など微塵もないし、女性のデザイナーに対して、甚だ失礼なのは承知している。

Image by: FASHIONSNAP(Ippei Saito)

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もう一つ白状しよう。私の、女性に抱く畏怖の念は、とてもシンプル(単純)なのである。それは、直立二足歩行を始めた僕(正確に云うと、我々の祖先であるアウストラロピテクス)が、「火」を発見したことで、鬱蒼とした原始林の恐怖に打ち勝ったとき、まさにその折に、僕のDNAに深く刻み込まれた根源的な記憶に通じるものなのだ。その畏怖の念は、未知なる不気味さに克つたときに味わうカタルシスと云うか、未知なる神秘の持つ威厳に畏まる気持ちと云ってもいい。眼に見えない一本の糸で、大自然と繋がっていると云う感じだろうか。こうした狭量で曖昧な視点を拠りどころにファッションを書いていていいのだろうか、と番度に思い悩むのだけれども、今更、転向することは出来ない。私にとっての「火」は、錬金術師が躍起になって追い求めた「賢者の石」のようなものなのかも知れない。
「ムッシャン」のデザイナーは、木村由佳と云う女性である。彼女は、セクシュアリティーの境界に挑戦する主題を掲げているわけではない。伝統的な下着やコルセットも、彼女の手に掛かると外出着になる。男のデザイナーであれば、女性の体型を強調することに重点を置く傾向が強くなるところだが、彼女には、常に女性のプロポーションを気にしない節がある。それに彼女は、シャープな仕立てと、ボリュームを持たせたカタチとを両立させることが出来るデザイナーで、寧ろそれを得意としているようだ。但し、今は完璧ではないけれどね。

Image by: FASHIONSNAP(Koji Hirano)

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フラットにカットするが、悪戯に肉感的なカタチを嫌い、同時に不必要に身体に纏わりつくカタチを避けている。だから、彼女が考えるセクシュアリティーは、より概念的なレベルで、常に自立していて、叛骨的な意志を持つ知的に成熟した女性に訴えかける性質のものだ。要は、男のデザイナーのような変な媚びが立ち入るスキはない。男が理想とする体型とか、社会の性差別意識、或いは服そのものの機能、即ち、リアルクローズとプロテクションと云う概念の相関関係に敢えて挑もうとしている。多様性と云う陳腐なフレーズが声高に謳われようとも、自身が目指す女性の服と真摯に向き合い続けるならば、自身の創作のルーツに繋がる糸は決して断たれることはないだろう。デビューショーの今回がすべてを云い尽くしてはいないし、私にとっての「火」が眼前に迫りくるほどの激しさを伴っていたかと云うと、残念ながらそこまでの迫力はなかった。だがしかし、いつの日か、根源的で神聖な「火」を、私はしっかり享受してみたいと願っている。(文責/麥田俊一)
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