山口県・宇部空港から車で1時間半に位置する海や山に囲まれた温泉街、長門湯本温泉。数年前までは、多くの温泉街と同じように衰退の一途をたどっていたというが、今では週末になるとどこからともなく若者が集まってくる。町おこしに立ち上がったのは、近い将来を担う次世代の地元の人たちと、この街と人に魅せられ移住してきた都会の人たち。まだ道半ばという町おこしに関わる人々の思いも込め、長門湯本に流れる艶やかな肌に導く源泉や、萩焼深川窯に焦点を当てるーー。
目次
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山口県長門市
山口県北部にある日本海に面した地域。萩市と並び、山口県の中心都市のひとつとして発展する。北側は日本海に面し、深川湾、仙崎湾などの入り江も存在し、天然の良港でもある。長門湯本の温泉街は音信川(おとずれがわ)沿いに広がり、アルカリ性単純泉の、化粧水成分に近い“美肌の湯”である、泉水が特徴だ。また1650年ごろ、藩の許しを得て、萩から長門市深川三之瀬の地に職人が移住し窯元が誕生した、深川萩と呼ばれる陶器が名産品。現在、創業以来続く5軒の窯元(田原陶兵衛窯、新庄助右衛門窯、坂田泥華窯、坂田善右衛門窯、坂倉新兵衛窯)が350年余りの歴史と伝統を継承。これら窯元は一般向けの器だけでなく、茶陶と呼ばれる茶道で使われる茶器なども制作する。
町おこしの中心人物として挙がる、窯元の若手作家。15代坂倉新兵衛氏の後継坂倉正紘さんと、13代田原陶兵衛の後継田原崇雄さんは、当然ながら生まれも育ちも長門市だ。継ぐことが使命である運命に、「この土地の活性化は不可欠」と語り、そのために作家活動に並行してカフェも運営する。坂倉さんと田原さんに、代々続く窯元に生まれたこと、これからの長門湯本について聞いた。
“外”に出ても「継ぐだろう」と思って過ごした学生時代
ー生まれたときから継ぐことが決まっていた運命について疑問を感じたことはありませんでしたか?グレたりとか?
坂倉正紘氏(以下、坂倉):幼いころから、周りが「正紘くんは、◎代目だね〜」と言われて大きくなったので、アイデンティティができあがる前から、継ぐことを刷り込まれていたと思います。
田原崇雄氏(以下、田原):やりがいのある仕事だし、環境もよかった。自分がこれをやっていけるのだろうか?と不安になったことはありましたが、やりたくないからグレるという選択肢はなかったです。受け入れていくのが当たり前だったと思います。
ーお二人とも、高校卒業後、山口県を離れ東京藝術大学に進学、大学院まで卒業されています。なぜ“外”へ出ようと思ったのですか?
田原:父も若いころに唐津で修行をしていましたし、一度出るのはある意味、普通だと思います。大学では彫刻科に進み金属彫刻を作っていました。この先、家業を継ぐのだから、一度そこからかけ離れたことをやってみたいという思いはありました。大学院を卒業後は短大で3年ほど働いていました。実家にそのままいて焼き物の技術だけを習得していたら、親から受け継いだ、伝統的な物しかできなかったように思います。
坂倉:僕も崇雄さんと同じ、彫刻科に進みました。明確に継ぐつもりでしたが、覚悟や意識はそこまでではなかったかもしれません。だから進学のときは、「東京、楽しみだな」ぐらいな感覚でした。彫刻をやっていると、これを(彫刻を)やっていきたいという思いも芽生えつつ、でも将来は茶碗を作ることになるだろうな、というなんか不思議な感覚でやっていたところはありましたね。大学院卒業後は京都で焼き物を学び、山口に戻りました。
ー故郷を離れ、東京など他の場所で過ごしたことが今の作品に影響を与えていますか?
坂倉:そうですね。山口に戻るころははっきりとは将来像が描けていなかったように思いますが、焼き物の仕事を続け、作品を作っていくうちに、いろんな方から喜んでもらえて、個展などの依頼も増えて…(10月28日〜11月11日、東京・表参道「eatrip soil」で開催されている〝ワインカップ展〟に出展)。そういう歩んできた道を振り返ってみると、彫刻がというよりは、外に出て自由を学んだことが、今の作品に出ているように思います。
田原:先ほども言いましたが、いつかは後を継ぐからこそ、かけ離れたことをという思いで、彫刻科で金属を使った作品を作っていたのですが、それが今、僕を特徴づける作品につながっているように思います。たとえばですが、カップの底を六角形で形成する表現などはそのひとつです。
町おこし「自分たちが動かないでどうする?」
ー今、町の活性化のために一役買っています。どんな思いを持って活動しているのでしょうか?
坂倉:街の中心となっていた白木屋グランドホテルが破綻して本当にみんなショックでした。なくなることがあるんだ…と。大きかったのは、その白木屋の跡地に星野リゾートの温泉旅館ブランド「界」が2020年にオープンしたことだと思います。官民が動き、外部の人たちが長門湯本の再建に奮闘しているときに、「自分たちが動かないでどうする?」という思いが芽生えてきたんです。一番動ける若者が何かしなければ、と。
白木屋グランドホテルの破綻と、民官での復興支援と星野リゾートの誘致
2014年、150年続いた老舗旅館、白木屋グランドホテルが破綻。総収容客数600人規模を誇る、長門温泉街の中心ホテルとして君臨していたが、リーマンショックや消費者の温泉宿に求める要望など早いスピードで変わる時代の変化に対応しきれなかったことが要因という。
街で1、2を争うホテルの倒産により街全体が沈んでいく中で、なんとか再生を図ろうと地元の人たちが奮闘するも、厳しい状況が続く。そんな状況下で立ち上がったのが、当時の大西倉雄市長。大西市長が村岡嗣政県知事と共に、星野リゾートの星野佳路代表に直談判して星野リゾートを誘致。2016年に長門市と星野リゾートが進出協定を締結し、長門湯本温泉街の再生に向けた街づくりが始動した。星野リゾートとしてもそれまでホテルの再建を手がけたことはあったが、街全体の再生は初めて。どういった街づくりにするか、星野リゾート側からの条件や提案があっての「界」の進出だった。2016年に星野リゾートが提案した 「長門湯本温泉マスタープラン」 をベースに、「長門湯本温泉観光まち
づくり計画」(長門市)を策定、長門湯本の地形や観光資源など土地の魅力を最大化できるようなまちづくりをし、“全国温泉ラン
キングTOP10”に入ることを目指した再建をスタートさせる。2017年〜2021年度の5年間の事業費は約20億円規模という。
長門湯本温泉観光まち づくり計画をベースとした、長門湯本温泉再生プロジェクトは、「水辺のまちづくりの達人」と言われる大阪のハートビートプランの泉英明氏が司令塔となり、町を象徴する立ち寄り湯「恩湯(おんとう)」と飲食棟のリニューアルを行うなど再生プロジェクトがスタート。恩湯などのリニューアルは香川県で活躍する設計士の岡昇平氏が設計。そのほか、東京のアルセッド建築研究所・益尾孝祐氏、大阪のLEM空間工房・長町志穂氏、石川県の日本海コンサルタント・片岸将広氏など、地元外のプロフェッショナルが集結。経済産業省から出向で長門市に在籍していた木村隼斗氏が、司令塔の泉氏ほかプロ集団を集めた。このプロ集団と地元の温泉宿・ホテルの経営者や窯元の人たちがタッグを組み長門湯本の再生への道を歩む。ちなみに、木村氏は経済産業省を退職し、現在は東京と長門の2拠点を持ち、長門湯本温泉まち株式会社のまちの番頭・エリアマネージャーとして、まだ道半ばという長門湯本の再生に尽力する。木村氏曰く「まちの人たちに魅了された」。
ー外部の人たちとの連携はスムーズだったのでしょうか?
坂倉:再生プロジェクトの司令塔、泉英明さんや経済産業省から出向で長門市に在籍していた木村隼斗さん、またこのほど開催した深川萩の器を展示・販売する「長門湯本温泉 うつわの秋」で、ぼくら作家のビアマグを使ったビアクラフトセットを提供した醸造所「サンロクロクビール(365+1 BEER)」の有賀敬直さんもそのプロジェクトの一員でした。彼らが地元地域の人たちとコミュニケーションを取り、関係性を育てながら街づくりを進めてくれました。会議には僕ら世代の若い人たちも呼ばれ、いろんなアイデアを募って一緒に考えてやっていこう、そういうスタンスがとても良かった。
長門湯本温泉 うつわの秋
深川窯の5つの窯元、8人の作家の作品を、「恩湯」や坂倉さんや田原さんらが運営する「cafe&pottery音」、「おとずれ堂ギャラリー」を会場にして展示販売するイベント。今年は9月に開催し地元以外の県、九州などからも多くの人が来展した。いわゆる陶器市のような商業ベースのデッドストックを販売するというのではなく、茶道の器の新作などを披露しつつ、こういった作品をもっと身近に感じて、深川窯を知って欲しいという思いのもと、日常に取り入れやすく、手に取りやすい価格帯の作品が展示されていた。
Image by: 長門湯本温泉
「うつわの秋」特別企画
・川床喫茶:音信川の川床に設えた茶席で深川萩の作家がおもてなし
・恩湯食:「恩湯」の飲食棟で特製プリンを作家が制作した深川萩の器で提供
・サンロクロクビール:坂倉さん、田原さん含め3人の作家によるビアマグに、それぞれに合わせた長門湯本で醸造するクラフトビールを注いだ飲み比べセットを提供。オーナーの有賀さんは、大阪に拠点のある都市デザイン事務所に勤務。長門湯本の再生プロジェクトに関わったことで、長門湯本に魅了され2020年に移住した。有賀さん曰く、1番の魅力は「人」だという。
・あけぼのカフェ:星野リゾートの温泉旅館「界 長門」の川床で、音信川のせせらぎを聞きながら、界 長門で販売するどら焼きと共に深川萩の茶碗を使い自身でお茶を点てる体験会を実施
・玉仙閣:老舗ホテル「玉仙閣」のロビーで作家・田原崇雄氏によるTシリーズを特別展示販売。日常使いにも最適な新しいスタイルの深川萩を披露
※9月開催時は台風などの影響で中止になった企画もあった
川床喫茶
Image by: 長門湯本温泉
街に20年ぶりのカフェが誕生
ー会議で出たアイデアから作家の作品を展示販売するギャラリー併設のカフェを立ち上げたのですね。長門湯本にカフェができるのは20年ぶりとか。
坂倉:そうですね。温泉街に立ち寄れるスポットを作りたい旅館の若社長たちと、深川萩のギャラリーを作りたいわれわれと、さらに、街づくりの拠点を作りたい再生プロジェクトのメンバーと、関わるさまざまな人の思いが合わさって、良い流れができていったように思います。
田原:それにちょうどタイミングも良くて。僕らも長門に戻ってきてすぐだったら、そんな余裕はなかったと思いますが、作家として自信を持てるようになってきたころでしたし。そんな中で長門湯本の現状には危機感がありましたし、僕らも積極的に関わっていかないとという思いが芽生えたと思います。
ー今、当主であるお父さまたちは、何か反対するようなことはなかったのでしょうか?
田原:父たちはむしろ喜んでくれています。今はわれわれが運営するカフェにも母とともに足を運んでくれますし。自分たちは(この街の現状を)見ているだけで、何もできなかったという思いがあるようです。窯元でいえば、市場は(長門の中で競い合うわけではなく)、長門の外にあります。地元の関係は良くて、祭り(神事)なども一緒にやる仲間なんです。
坂倉:そうなんです。それに父の代のころは経済が上向きだったので、それぞれの仕事を頑張れば良かった時代で、温泉宿の人たちと窯元が一緒になって飲んだり…。そんなことはしていても、切迫感を持って何か一丸となってやるということはなかったようですね。
カフェ「cafe&pottery音」
2017年に田原さん、坂倉さんのほか、地元の温泉宿「大谷山荘」を運営する大谷和弘さん、「玉仙閣」を運営する伊藤就一さん含め地元有志6人により空き家を改装しオープン。江戸初期より続く地域の伝統産業、萩焼深川窯の器を気軽に楽しめるお店として、地元の人だけでなく県外からの若い人たちが訪れている。このほど開催された「長門湯本温泉 うつわの秋」の会場にもなり、田原さん、坂倉さんら作家の新作などを披露。通常、カフェは入口付近が深川窯の作家作品の展示販売スペースで、奥に座席、さらにテラス席まで用意。自家製ケーキやハンドドリップのコーヒー、お抹茶などを楽しむことができる。取材時はカフェの店長さんのお子さんや地元の子どもたちが出入りして可愛らしい笑い声があふれていた。心地よい空間で地元の人たちみんなで子どもを見守っている風景も、このカフェや街の魅力のひとつ。
Image by: FASHIONSNAP
音の開業を機に温泉街に点在する空き家を活用した魅力づくりが進行。カフェや焼き鳥屋などの飲食店、シェアハウスまで誕生した。昔ながらの日本家屋を生かしながら、洗練されたおしゃれな飲食店が少しずつ増えていくことで、県外からの若者も楽しめる街に成長している。
Image by: FASHIONSNAP
ー今後、街の活性化ももちろんですが、窯元の経営に加え自身の作品づくりと忙しい日々が続きますね。海外を含めると本当にたくさんの焼き物がありますが、今後淘汰されていくのでしょうか。
坂倉:淘汰もされるでしょうし、また垣根もなくなっていっています。私自身、インスタグラムなどSNSをやっていて思うのは、われわれよりも若い作家たちの情報源はSNSであり、海外の作家の作品でも簡単に見れて、参考にできます。そんな時代です。昔はこれはやってはいけない、というタブーがあったと思いますが、今はタブーはないのです。ある意味、“やった者勝ち”のところもある。それが悪いわけではないですし、僕自身もタブーを気にせずやります。ですがなんとうか、萩焼、茶道具、茶器という文化の先鋭的な部分の角が取れて、いわゆる一般的な日常の中で消費されて消えて行ってしまうのは寂しい。変化は受け入れる姿勢ですが、固有性は守っていきたい。そう思っています。説明が難しいですが…。
自由に動かせる軸を、あえて動かさない選択
ーつまり、軸はブラさずに、いろんなことを受け入れつつということでしょうか?
坂倉:というよりは、昔は軸はブラしてはいけない、ということだったと思いますが、今は軸を動かせる自由はあるが、あえて動かさない、という選択をしたい。ということでしょうか。
坂倉正紘さんの作品
Image by: 長門湯本温泉
ーでは、海外も含めたくさんの作家さんがSNSにアップしている作品からインスピレーションを受けることもありますか?
坂倉:こういうことしている人がいるんだ。おもしろいな〜と、見て楽しんでいます。ただ、ダイレクトに影響を受けたくもないので、特に作域の近い作家さんのものはあえて、見ないこともあります。
田原:私も同様ですが、全く見ないとなると情報が遅い人になってしまいます。情報の流れるスピードが速すぎるので、ある意味、入ってきてもその情報には乗れないし、乗らないようにしようと思っています。面白いなあという感覚で見ている感じでしょうか。
ーお二人とも、小さい息子さんがいらっしゃいますね。やはり後継となるのでしょうか?
田原:息子は焼き物をやりたいと言ってくれてはいますが、それは今は単純に楽に見えているからかもです。本当はそんな楽じゃないのに(笑)。息子は興味のあることで自発的に動く子で、もちろん良いところがたくさんあります。それをどう私たちが魅力的にみせられるか、と考えるとわれわれの責任は大きいと思います。
ー芸術の道にいる人に話を聞くと、よく「子どものころは異端児でした」と言われる人が多いように思います。
坂倉:普通じゃないことが良しとされるのは変わった環境かもしれないですね。大学に入ったころは、作品提出で何か人と違うところを作品として出さなければいけないと。何かを表現しろと言われたとき、そこ(違い)を探すところから始めてしまい、自分は何か特別なものがあるわけではなく、普通の人で…。その普通であるということが、変なコンプレックスになっていましたね。
田原崇雄さんの作品
Image by: 長門湯本温泉
ー最後に、将来像について教えてください。
坂倉:今やっていることを続けることで、その延長線上に将来が描けると思っています。日本ほど“何とか焼き”という焼き物がたくさんある国はなく、そういう多様性がある文化は他にないのではないでしょうか。世界中に焼き物はあって淘汰されたり、画一化されたりしていく中で、自分の窯を守っていきたい。萩焼、萩焼の中の深川窯、その中の坂倉新兵衛窯です。その“固有性”を大事にしていきたい。でもだからといって同じことをずっとやっていくわけではなく、今の時代に何を表現をしてくのか?同じことをしていていいのか?といったことを考えながら、その上で自分が楽しくやっていきたい。ちょっと贅沢ですが全部を叶えたくて、そういう風に目指していきたいですね。
ー田原さんはどうでしょうか?
田原:これからという意味では子どもが自分の仕事に誇りを持ってくれたらいいと思っています。次世代にうまく伝えられたら。私の時代はこのまま続けていけば何とかなるかなという感覚はありますが、これからの子どもの世代となるともっともっと厳しい時代になる。そう思うと、今、自分ががんばることで、子どもたちに萩焼に魅力を感じてもらい、技術もきちんと伝えられるようになれたらと思っています。
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