Image by: POOL
写されているのはCGを用いて描かれた丸みを帯びた"人のようなもの"。湿度を感じる雄大な自然の中に、陶器や卵を彷彿とさせるようなつるりとした質感の人が佇む作品は一度見たら忘れられない。「性別や年齢、国籍も不確かな匿名の人々」をテーマに制作を続けるPOOLは、「ハトラ(HATRA)」との短期連載プロジェクト「POOL person wears HATRA」を発表するなど、ファッション業界でも注目を集めている。何故、顔のない人のようなものを制作し続けるのか、POOL本人に聞いた。
まずはPOOLという変わった名前の由来について教えて下さい。
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英語で「蓄える」という意味の"プール"が由来です。
SNSアカウントでもただ淡々と作品が投稿されています。
ツイッター(Twitter)のアカウント名も「taste of test(味見)」というくらいなので、ただ自分のできることを淡々とテストするために作ったアカウントです。
今もその姿勢は変わっておりません。
SNSアカウントはポートフォリオというイメージなのでしょうか?
ポートフォリオほど構成を考えたりはしておりません。
制作したい風景を想像し、自分なりに試行錯誤していく中でイメージに近づいたものを投稿しています。
自身を「ストックする」という意味を持つPOOLと名付けたり、淡々と作品を投稿することでPOOLさん自身の有機性が排除され、どちらかといえば「物」のような無機質な印象を覚えます。
そうですね。
自分の作品に作家自体のパーソナリティなどは情報として必要ないと考えております。
どうしてそのような考えに至ったのでしょうか?
自分の想いは作品に込めているので、生い立ちや年齢、性別によって作品に対する考えや先入観が入ることを避けたいからだと思います。
「作家の主体性が作品にまで及ぶことを避けたい」とのことですが、何故そのような想いが強いのでしょうか?
自分自身がそういう風に作品を見てしまうことがあるからだと思います。
もちろん作家の略歴を見て、作品に色濃く"それ"が反映されていて感動することもあります。
でも、自分の制作物は「作品だけで完結している」という想いが強いです。自分の生きてきた過程で得た知識や考え方を作品にしているので、それを必要としないと言いますか。
結果、自分の略歴など語る必要がないと考えています。
POOLさんは2020年から活動されているとのことですが、それ以前は?
それ以前から常に何かしらの制作はしていました。
CGを扱うようになったのは、POOLとして制作を開始した時期と同じです。
以前から制作活動を行っていたとのことですが、当時から変わらずに「性別や年齢、国籍も不確かな匿名の人々を制作」というコンセプトの基、制作をされていたんですか?
根幹は同じかも知れないです。
ただ先程もお伝えしたとおり、元々はテストとして作品を投下していくためだけのアカウント=POOLだったので、制作するものにそのコンセプトやテーマを反映させるには至っていなかったように思います。
出来ることが増え、表現の幅が広がってからは意図を反映させることができるようになってきた気がします。
言いたいこと、反映させたいと思っているものとは具体的に?
具体的かつ端的に言ってしまえば、性差や人種の差などが存在しない世界です。
ただ自分の制作したい風景は自分の中にあり、自由さを感じさせる風景、あるいは自分の感情を揺さぶるようなノスタルジーを感じる場所だと思っています。
たしかに作品で用いられている風景は、湿度やゆらぎのようなものを感じますし、自由でいたくなるような雄大な自然を感じさせます。
自分自身の中に、束縛やしがらみを感じさせない風景に憧れのようなものがあるのだと思います。
作品に写されている顔のない人形や、背景に用いられている自然などは実際どのように作られているんでしょうか?
背景に関しては、実際に存在する自然をトリミングして使用しています。人や服は3DCGで制作したもので、作ったものを背景に配置して出力しています。
では人や背景も含めて、実体があるものは作品の中にはないんですね。
はい、ありません。
POOLさんの作品といえば、陶器や卵を彷彿とさせるようなつるりとした人が特徴的です。
見た目という要素もいらないと思っているからこそ、あの表現になりました。
POOLさんの作品からは、表情がなくても様々な感情を受け取ることができます。どのような点に意識を向けながら制作されているのでしょうか?
触れ合っている距離感などは意識して作ることが多いです。
抱き締める直前だったりその動作に至るまでのプロセスに語られるべき物語があるように思うからです。
例えば、モデルが2人いる風景では関係性が恋人にしか見えないようなものはあまり作らないかもしれません。恋人にも夫婦にも兄弟にも友人にも見えるように作っているつもりです。
作家の主体性が欠如している分、観賞者に解釈が委ねられているのでPOOLさんの作品は様々な見方がなされていると思います。
個人的には「なんでこんな寂しそうなんだろう」と思う作品が多いです。
自分としてはすごく多幸感のある景色なのですが、よくそのように言われます。
制作しているものは暗いトーンだとしても、そこにいる人物たちは差別やしがらみのない自由を謳歌していると考えているので「寂しそうに見えるように作ろう」とはあまり考えていないです。
多幸感を表現しようと思った時、シンプルに考えれば作家は彩度の高い色を使うと思います。一方でPOOLさんの作品ではあまり明るい色彩が用いられていない印象です。
自分の生い立ちに関係しているのかもしれませんが、伝えるべきことは多幸感ではなく「作品の登場人物にとって自由な世界」と考えています。
明るい色である必然性を感じないからこそ、無意識的に彩度の高い色を選んでいないのかも知れないですね。
自分の生い立ちに関係しているとのことですがどのような原体験だったんでしょうか?
人は先入観によって悪意なく色々なものを決めてしまう、と感じる出来事が多かったように思います。
誰しもが経験あることだと思うのですが、分かってもらえない葛藤とでも言うんでしょうか。
にわかに期待をしていても「それが本当に分かってもらえないんだ」と実感する出来事に直面すると、強い孤独を感じました。
匿名性が高い作品である一方でスキンカラーは明確です。
スキンカラーについては、制作過程の中で不確かな匿名性を保つために存在しない色を用いたこともありました。
しかし試行錯誤をしていく中で「存在しない匿名の誰かとわかる要素として、かえってスキンカラーは必要なのではないか」と思うようになりました。
どういう意味でしょうか?
「存在しない匿名の誰か」を表現しようとすると「存在する匿名の誰か」を置いてけぼりにしてしまう、とでも言えば良いんでしょうか。
個人的には、決して作品の中だけの話や他人事にするのではなく「この世界のどこかで起こっていることとしたい」という想いがあります。極論ですが、スキンカラーを見て「自分の話だ」と思ってくれる人はいるだろうと。
できるだけ観賞者が対峙している実際の問題を取り上げたい、そのためには顔がない作品においてはスキンカラーは重要だ、と
あるいは、実際の問題と対峙するきっかけになったりするためには、必然だったと考えています。
多様性が訴えられる今の世の中では、POOLさんの作品は時代に即しているものだと思います。
本当に多様性がある社会ならば、その言葉自体存在しないはずです。だからこそ、自分の作品に魅力を見出していただけているのかなと思っています。
(聞き手:古堅明日香)
■個展「NEIGHBOR」
会期:2022年3月12日(土)〜
会場:ラフォーレ原宿 ギャラリートイレ
公式インスタグラム
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