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ヘッドホンや掃除機など身の回りにある既製品を組み合わせ、全く別の作品として昇華させる造形作家 池内啓人。「バレンシアガ(BALENCIAGA)」の2022年春夏コレクションのキャンペーンヴィジュアルに作品を提供してからファッション業界でも注目を集めている。池内の作品とファッションを結びつけたのは池内本人ではなく、マネジメントを務める深水くららだという。「作品を制作する時は自分の主体性を一切排除する」と語る池内と、「だからこそ"鑑賞者のための救済"になりえる」と続ける深水に話を聞いた。
池内啓人
1990年生まれ東京都出身。多摩美術大学情報デザイン学科を卒業後、パソコンと模型を組み合わせた独自のスタイルの作品を発表し、これまでに「バレンシアガ(BALENCIAGA)」の2022年春夏コレクションのキャンペーンヴィジュアルをはじめ、「シュウ ウエムラ(shu uemura)」などのブランドに作品を提供したほか、KOHHやエイサップ・ロッキー(A$AP Rocky)が国内で開催したポップアップストアにも参加している。
公式インスタグラム
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「オタクリスペクト」から始まった作品制作
ー池内さんは多摩美術大学の情報デザイン学科を卒業されています。主だって平面作品を勉強する学科ですよね。
池内啓人(以下、池内):おっしゃる通り、学生時代はフォトグラフィックなど平面デザインについて学んできました。
ー立体作品の制作はいつから?
池内:卒業制作でジオラマを作ったのが最初です。ただ学部生の頃から、大学にあるサークル棟の1番奥で戦車のプラモデルやガンプラ※をずっと作っていました。
※ガンプラ:機動戦士ガンダムシリーズのプラモデルの略称
ー深水さんは、池内さんのマネジメントを2019年から担当しています。
深水くらら(以下、深水):その1年ほど前から一方的に知っていたんです。私は元々KOHHの制作チームに所属していて。「サイバー感漂うミュージックビデオを作りたい」というプロデューサーの要望を受けて、池内さんに連絡をとったのが始まりでした。
ー池内さんの作品のどこに魅力を感じていたんでしょうか?
深水:「今、ここにあるもの」を使って「架空・存在しないもの」を作っているところです。うまく言えないのですが、物体としてはたしかに存在しているはずなのに、この時代のものではないように感じるというか。アニメや漫画の世界でだけで見たことがあったものが、実際に目の前に物体としてあるということに衝撃を受けたんですよね。
池内:僕自身はあまり自分の作品に神秘性を感じないんですけどね(笑)。僕の目の前には深水さんが言うところの「架空・存在しないもの」がずっとあったから。
ー「架空と実在」という二項に対する認識の違いが、鑑賞者と池内さんの間にはあるのかもしれないですね。作品を見た鑑賞者からは「オタク心をくすぐる」という深水さんと似たようなコメントもみかけます。
池内:オタクリスペクトから始まっているのは間違いないです。最初は自分が影響を受けたアニメ「ゾイド」や映画「スター・ウォーズ」など、好きなものを別の表現としてそのまま出す、ということをしていただけなので。
「作品には作家の主体性を一切入れていない」、その意図とは?
ー池内さんの作品はサイバーパンクやSF映画などを彷彿とさせるのですが、一方で「現代における仏頭のようだな」と会場入り口に静置されているマスク作品を見て思いました。
池内:誰しもが抱えるコンプレックスを埋めるための「パズルの1ピース」みたいな作品になればいいなと思っているので、そう感じて頂けて嬉しいです。
ー「コンプレックスを埋めるための"パズルの1ピース"」というのは具体的に?
池内:僕は作品を制作するにあたって「自分の主体を一切排除すること」を意識していて。主体を排除することで、誰しもが心のどこかで追い求めている「自らのコンプレックスをぴったりと埋めてくれるもの」になればいいな、と。
ー確かに池内さんの作品には作家のサインがありませんし、今回の個展名も「IKEUCHI HIROTO EXHIBITION」というだけで特別な展覧会名はついていません。
池内:作品のどこかに自分のサインを入れてしまったら、おそらく「僕のコンプレックスの隙間」しか埋められなくなると思います。仏頭に代表されるような「鑑賞者のための救済」にはならない。作品を見た誰かが、自分が意図しないところで自由に想像するのはとてもよいな、と。個展名に関しても「みんなが好き勝手につければいい」と思っています。
深水:主体とコンプレックの話で言うと、ヘッドセットを装着するとその人の顔を完全に覆い隠すので、鑑賞者自身の主体性もなくなるんです。
池内:自分のヴィジュアルが好きじゃない人は、あれをつけることで主体を排除できるから良いんだろうな、と思います。
深水:今、マスクと言う概念は「身を守るもの」「マナー」という側面が強くなりましたが、その意味付けがなされる前は「自分の顔を一時的に隠すもの」としても使われていましたよね。
池内:それこそ作家には「完全な一貫性」が必要だと思っていて。例えば僕だったら「顔を出さない」「作品に自分の主体姓を残さない」「個展名を付けない」などです。
ーアーティストが一貫性を持つからこそ、鑑賞者は自由に作品を解釈することができるように思います。
池内:そこがぶれてしまうと、作品と鑑賞者の間で生まれるコミュニケーションのノイズになるような気がしますよね。
ー作品に対して「自分のものである」という所有欲みたいなものがあまりないのでしょうか?
池内:昔はありました。でも、いっぱい持っていても物が自分を救うことがなかったんですよね。アニメグッズとかを集めていても、引越しの時には全部捨ててしまうし。
ーアーティストによっては、鑑賞者による独自の解釈がなされることを嫌う人もいます。
池内:作品の全てはヘッドホンや掃除機などの既製品を組み合わせて作られたものですが、僕だって元の既製品の意味を取っ払って「別の意味」を持たせている。同じように他の人が僕の作品に「別の意味」をもたせるのは全く持って自然な流れだと思います。
ー確かに、作品に用いられている既製品はよく見ないと「元々なんだったのか」が分からないくらい別のものへと変貌していますね。
池内:既製品の中から欲しい部品を手に入れるために分解したりもしています。分解している時はマグロの解体ショーみたいな気持ちで(笑)。作品には僕の主体は入れていないし、物自体の主体も入れたくない。例えばVRゴーグルも「VRゴーグルとしての主体」が残りすぎるとあまり良くない。「ゴテゴテと既製品をデコレーションすることで物自体の主体を覆い隠す」ということを意識をしています。
ーただ作品は、元々の既製品が持っていた「機能」は損なっておらず全て使用することが可能なんですよね?
池内:そうですね。少しおかしな例え話ですが「人間は好きだけど、マネキンは嫌い」という気持ちです。物の主体は奪いたいけど、本質は残しておきたい。ものにおける本質は機能だと思うので。
展示会場に「レクイエム」が流れ続ける理由
ー会場にはミシェル・カルージュによる「新訳 独身者機械」も置かれています。本作は、マルセル・デュシャンの作品「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」とフランツ・カフカの小説「流刑地にて」に類似点を見出し、その類似点は他の作品にも見受けられる、という指摘がなされている書籍です。
池内:まさに僕の作品を見てそれぞれが異なった印象を自由に感じるように、ミシェル・カルージュが「お前はこうなんだろう!」という決めつけを小説家に対してひたすら盲信的に綴った著書で、共感できるところもあり面白いんですよ。本作で取り上げられているマルセル・デュシャンの「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」は、作品を上下に二分割した時に、上パネルが「理想」、下パネルが「現実」を表現した二層構造になっているそうです。今回の会場であるSAIも天井が窓になっていて、展示されている作品が反射して写るんですよ。デュシャンの作品と今回の展示会場がとても近しいというのも含めて、「ひたすら一緒で面白い」と思い展示における大きなモチーフとして採用しました。
ー会場の話が出ましたが、展示室にはずっとレクイエムが流れていますよね。
池内:僕が選曲したものです。1人でやっていた制作活動ですが、深水さんがマネジメントに入ってくれたことでたくさんのことが変わった、というのを表現するのにレクイエムがぴったりかな、と。
ーレクイエムは「鎮魂歌」と日本語では訳され、亡くなった人を悼む内容の作品が多いですが。
池内:消極的な気持ちで選曲したわけじゃないんです。1人でやっていたところから、複数の人が携わるようになったことで失ったものは実際たくさんあります。例えば、周りの人が作品に勝手に文脈をつけて僕の文脈が死んでしまったり。ただ、そういった「亡くなってしまった」ということに対して、悲しみではなく「よかったね」という気持ちがあるんです。レクイエムにも何種類かあるんですが、大抵は「残念だ」「許せない」などの怒りの一幕が入っている。でも会場で流しているガブリエル・フォーレによる「レクイエムニ短調作品48」は、ひたすらに安息と安らぎが歌われています。それが今の自分の気持ちにぴったりだったんですよ。
「非到達だけが唯一の永遠」追求するのは根源的な美
ー池内さんの作品をファッションと結びつけたのは深水さんと聞きました。
深水:私は、池内が「好きで作っているものが、そのままもっと世に出ていけば良い」と思っています。池内の作品を見つけた一部の人が独占して楽しみ、そのまま時間だけが経つというのも否定はしません。でも、彼の作品が狭い界隈の中でしか知られないというのはもったいないな、と。例えば村上隆さんと「ルイ・ヴィトン(LOUIS VUITTON)」、空山基さんと「ディオール(DIOR)」のように、素晴らしい者が素晴らしい物と組み合わさりスプレッドされることで認知され、価値も上がっていきます。認知とビジネスといった点で、アートはファッションと切り離せないし無視できないものだと考えています。
池内:僕の視点では、消費が早い「ファスト」という意味でファッションもアートも一緒。また「物自体には価値がなく、文脈の上で価値が乗っかっている」という点でも類似している。ブランドも「ブランド品である」という側面で値が付いていることは大なり小なりあるだろうし、アートも文脈やコンテクストに値がついている。
深水:池内の作品は、美術の文脈にもファッションの文脈にも乗せづらいものだと思っています。元々は既製品を組み合わせているだけなので価格という面でも「どれくらいの価値があるものなのか」がはかりづらい。ただその分「なんでもできるだろうな」とは思っていたし、極論「物自体に価値はない」と言い換えることもできるのかな、と。ファッションでもアートでも、2次元でも3次元でも構わない作品なのではないでしょうか。
ー池内さんは、深水さんから「ファッションブランドと仕事をしていく」と聞いた時はどう思いましたか?
池内:絶対の正解ではないかもしれないけど「良いのでは」と思いました。
ー「作品から作家の主体を排除している」という言葉の通り、マネジメントにおいても作家としての池内さんは希薄というか、達観していますね。
池内:そうですね。マネージャーがやりたいことをやっている(笑)。
深水:私はこうしたいと思っていることがあるけど、それは池内の想像と異なるものなのかもしれません。
ーマネジメントにおいて、自分の意思が反映されないことを嫌うアーティストの方が多いと思います。
池内:すごい嫌です(笑)。でもその「嫌だ」という気持ちがあるからまだ制作できるのかな、と。諦めの悪さというか。まだ微妙に信じられるものがあるなら、そこは追い求めていきたい。
ー「信じているもの」とは?
池内:今は「バランス感覚」についてです。バレンシアガのヴィジュアルに使用された身体拡張ロボット「スケルトニクス」は、2015年に作った作品でディテールはしょうもないんですけど、今見てもみんなが「カッコいい」と思うのはなんでなんだろう、とか。展示会場にもある男性マネキンは僕的にはバランスが悪く、女性マネキンの方がバランスが良いと思っているのですが、それを証明するように女性マネキンの方が先に売れたりとか。そういう人類が無意識に追い求めている「根源的な美」みたいなものがあるんじゃないんだろうか、と。「宗教的な美」を目指したところから、万物も美に向かって行ったという人類の歴史もありますしね。「根源的な美は存在するのか」という問いを作品を通して追求していきたいです。「根源的な美」を追い求めた先には何もないかもしれませんし、答えのない問いかもしれません。でも僕は「非到達だけが唯一の永遠だな」とも思っているので。
ー達成できないということが分かっていながらも、なぜ「根源的な美」を目指すのでしょうか?
池内:物を作り続けていると「自分が想像した通りに作れるんじゃないか」という希望みたいなものはなくて、「絶対に到達できない何かがある」ということだけが明確になるんです。それを知ってしまった、というのはある種のコンプレックスだったりもします。今はその自分自身のコンプレックスを埋めるために、いろんな人に話を聞いたり、他の目的を見つけようとしている最中なんですよ。
(聞き手:古堅明日香)
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