【連載:ゆるふわファッション講義】第8回 「考察する若者たち」から考える現代ファッション
パーソナルカラー診断、骨格診断、似合わせカット

Image by: FASHIONSNAP

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「ゆるふわ大明神」の異名を持ち、長年京都を拠点に大学でファッション論を教える傍ら批評家・キュレーターとしても活動してきた京都精華大学デザイン学部教授の蘆田裕史氏が、「ファッション」や「ファッション論」について身近なものごとから考えるコラム連載。目に見えない装いである「におい」をテーマにした前回に続く第8回は、三宅香帆氏の『考察する若者たち』から考える現代のファッションについて。
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目次
最近、三宅香帆さんの『考察する若者たち』という本を読みました。タイトル通り、「考察」というキーワードから現代の若者について論じるものです。この本はファッションについて書かれているというわけではないのですが、現代のファッションをとりまく状況についてもあてはまるように思われます。そこで、今回のテーマとして取り上げてみることにしました。
売れに売れている本なので読んだ人も結構いるのではないかと思いますが、まずは内容を簡単に紹介しておきましょう。三宅さんは現代(令和)を平成以前の時代と比較し、「批評から考察へ」「萌えから推しへ」など、この20年ほどのあいだ、文化にどのような変化が起きたかを見事に整理します。さまざまな概念が散りばめられており、読者(読み方)によって注目すべきものが変わってくると思いますが、僕が面白く感じたのはやっぱり「批評と考察の違い」についてです。(文:蘆田裕史)
開かれた「批評」、唯一解の「考察」
批評と考察、どちらも同じようなものに聞こえる人もいるかもしれませんが、三宅さんの整理によると、考察は「作者が作品に仕掛けたものとして謎を解こうとする行為」(36頁)であり、批評は「作者すら思いついていない作品の謎に対して解釈を提示する」(36頁)ことだとされています。言い換えれば、批評は解釈の多様性に開かれている(正解は複数ある)けれども、考察は唯一の正解しかない、ということです。
作品の内容を分析して、その解釈を示すというプロセスは同じなのですが、目的というか理念がそもそも異なるということです。平成から令和にかけて、作品を読み解くことを楽しむという行為自体は行われ続けているけれども、その内実には大きな違いがあるというのが三宅さんの見立てです。
現代の若者が求める「報われる」ファッション
では、なぜ若者が批評ではなく考察を求めるのか。それは本書で提示されている「報われ消費」という概念と関連します。詳細な議論は本書を読んでもらいたいのですが、三宅さんによれば、現代の若者たちは「報われる」ことを強く求めているといいます。
なぜ批評よりも考察が好まれるかと言えば、「作者の見解」という明確な正解があり、それを知ることで「報われる」からだと三宅さんは指摘します。平成以前は「萌え」と呼ばれていたキャラクターへの愛情が、現代では「推し」という行為に変化していることも同様です。たとえばアイドルは推せば推すほど、グループ内での人気番付の順位が上昇したり、売れて知名度が高くなったりと、報われるゴールが想定されています。
『考察する若者たち』は、アニメやマンガからアイドルまでさまざまな作品を事例として取り上げながら若者論が繰り広げられるものです。ファッションについて言及されているわけではないこの本の内容が、現代の若者のファッションとの付き合い方にもあてはまるのではないかと感じたのは、ファッション研究者の藤嶋陽子さんが「優勝」という概念に対して指摘していたことを思い出したからです。
藤嶋さんは、Z世代のファッションへの向き合い方の特徴を「失敗しないこと」と指摘しています。
単に情報発信だけではなく、購買にも直接的に関与していく点に大きな特徴があるソーシャルメディアが、ファッション・メディアとしての重要性を高めるなかで、ファッション文化にも様々な変化が現れている。その変化の一例として考えられるのが、衣服選びにおける「失敗しないこと」への意識の高まりである。2020年代に入り、自分に似合う色味やシルエットを判断するためのパーソナルカラー診断や骨格診断が若年層の女性を中心に流行している。こういった診断に基づく情報は、三省堂による「今年の新語 2020」として選ばれた「優勝」という言葉と組み合わされることが多い。たとえば、「#骨スト優勝服」といったような文言でSNS上に盛んに投稿されている。*¹
ぶっちゃけ、最初にこの話を聞いたときはピンときていなかったのですが(藤嶋さんごめんなさい!)、三宅さんの話とつなげるとよくわかるのではないでしょうか。
*¹ 藤嶋陽子「ファッション·メディアとしてのSNS——買いものに組み込まれていくユーザー間の情報共有」『デザイン学研究 特集号』30巻1号、日本デザイン学会、2023年、66頁。
「診断」はファッションの自由度を下げる?
パーソナルカラー診断と骨格診断は、ともに「診断」という言葉が使われている点でとても興味深く思われます。診断という言葉は、「医者が患者を診察して、健康状態、病気の種類や病状などを判断すること」(デジタル大辞泉/小学館)が第一義です。もちろん、ときに誤診があるのも事実ですが、原則として医者の診断は客観的な事実であり、正しさが求められるとされます。「あなたにはこの色がオススメ」という言い方であれば、それがオススメしている人の主観的な意見であることを意味していますが、「診断」という言葉には「客観的な事実にもとづいた正しい所見」というニュアンスが含まれます。
診断という言葉が使われるのは、ファッションに限りません。MBTIもそうですし、その人にぴったりな本や旅行先を「診断」してくれるようなサービスもあります。けれども、ファッションはやっぱり少し特殊なのです。これまでにも述べているとおり、ファッションはアイデンティティの可視化の装置です(解釈を広げると前回「におい」について言及したような不可視のものも含まれてくるのですが、一旦おいておきます)。食の話であれば、どんなものを食べていようが、つまり毎日揚げ物を食べていても、朝ご飯を抜いていても、誰かに知られることはありません。「正しくない」あるいは「好ましくない」とされる食生活をしていたとしても、(自分からばらさないかぎり)後ろ指を指されることはありません。けれどもファッションは否応なく可視化されるものです。それゆえ、「好ましくない」とされるファッションに身を包んだ人は非難を受けやすくなってしまいます。たとえば、もし誰かが服を着ないで外に出たとしたら、非難されるどころかすぐに警察に捕まってしまうでしょう。社会的に正しくないとされるファッションはすぐにばれてしまうからです。
私たちには服装の自由があります。服装の自由があるということは、単一の正解があるわけではない、ということでもあります。たとえば私たちには職業選択の自由が憲法で保証されていますが、これは同時に、誰かにとって正解となる職業というものがあるわけではないことも意味します。けれども、これが「#骨スト優勝服」のように、誰かにとっての正解が存在するとされてしまうと、ファッションにおける自由度の低下にもつながりかねません。もちろん、「そういう可能性があるから良くない」と一足飛びに言うことはできませんが、そうした空気には注意を払った方がよいという感覚は十分理解できます。

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イラスト: 八幡優
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正解よりも「あなたの意見」が知りたい
また、診断ほど強い言葉ではありませんが、美容業界⎯⎯ここでは、とりわけ「美容院」を想定しています⎯⎯でも似たような傾向を感じます。近年、美容院のウェブサイトやSNSで「似合わせカット」という表現をしばしば目にします。これについては面白い表現だな、くらいに思っていたのですが、これも今回の議論に当てはまります。お客さんが「したい髪型」を実現させるのではなく、「似合う髪型」を提案するというのは、まさに髪型にも正解があること、そしてそれを選ぶことが望ましいという話です。
僕も美容師さんに髪型をどうしたいか聞かれたときに「お任せしたいです」と言ってしまうので、自分で自分の髪型を選べない/選びたくないという気持ちはよくわかります。そして、そういうお客さんがいる以上、「あなたにはこの髪型が似合います」と伝えたくなる美容師さんの気持ちもわかります。ですが、僕個人に関して言うと、正解を知りたいわけではないのです。
三宅さんは考察よりも批評の方が好きだと明言しながら、次のように語っています。
私が批評を好きなのは、一人だけ他人と違うことを肯定してくれるからだと思います。周りと同じ小説を読んだり同じ映画を観たりしているのに、それでも違う感想が出てくる。違う解釈でものを観ている。それが肯定されるのが批評の世界だったから。
共同体のなかで一人だけ感想が違ってもいいんだ。そう思わせてくれたのが、私にとっての批評というジャンルでした。
そういう意味で、みんなで作者の正解を予想しにいく考察の流行は、少しだけ寂しい。みんなと感想が違ってもいいじゃないか!むしろ感想が違うほうが面白いじゃないか!あなたの感想を聞きたいのに!と思ってしまう。*²
僕は三宅さんと同世代ではありませんが、三宅さんの価値観に強く同意します。正解よりも「あなたの意見」が知りたい。自分の見た目を形づくることになる髪型について、美容師さんに「お任せします」と僕が言うのは、自分の顔立ちに「似合う」正解が知りたいわけではありません。髪を切ってくれるその美容師さんのセンスを信頼して、それに委ねたいからです。自分ですべてをコントロールすると、自分の想像の範疇におさまることになります。他者になにかを委ねるというのは、自分も想像できない、未知の世界に足を踏み込みたいという気持ちの表れなのです(個人の感想です)。
こうした「正解」を求めるユーザーの欲望についてはどのように考えるべきでしょうか。もちろん、私たちが何を望むかは(他者の権利を侵害しないかぎりにおいて)自由です。企業がそれにあわせた商品を提案することは売上にもつながりますし、win-winのようにも考えられるのですが、この話はデザインとマーケティングの違いに通じるものがあります。
*² 三宅香帆『考察する若者たち』PHP研究所、2025年、235頁。
「売れること」と「社会を良くすること」⎯⎯マーケティングとデザインのちがい
デザインを問題解決と捉えるのなら、それはユーザーの抱える悩みや困難に対して、リサーチをした上で解決のためのアイデアを提案するというプロセスになります。マーケティングは市場をリサーチして、消費者が求めているものが何かを突き止めて、それにあわせた商品を提案するものです。そう考えると、デザインとマーケティングってプロセスはほぼ同じようなものなんですよね。
けれども、両者には決定的な違いがあります。マーケティングは「売れることが正義」です。売れなければその商品や企画は失敗とされます。一方、デザインは売れるかどうかが重要なのではなく、その提案が社会をよりよいものにするかどうか、という視点が必要だと僕は思っています。つまり、デザイン的な視点に立てば、仮に売れなかったとしても長期的に社会をよりよい方向に変えるきっかけになるのであれば、その商品・企画には意義があると言えるのです。
たとえば、ゴレンジャー(例が古くてすみません)のような戦隊ものの5人組のヒーローに女性を1人だけ入れるのか、あるいは2人入れるのか。プリキュアを女の子だけにするのか、男の子を入れるのか。戦隊もののヒーローのなかの女性比率を増やすと、あるいはプリキュアに男の子を入れると、もしかしたら関連グッズの売上が落ちるかもしれません(戦隊ものやプリキュアというコンテンツにおいて、おもちゃの売上が重要なのは言わずもがなでしょう)。そうすると、マーケティング的には失敗となってしまいます。けれども、そうすることによって、「男の子がプリキュアを好きでもいいんだ」と思う人が増えたり、組織におけるジェンダーバランスを意識する人が増えたりするのであれば、デザイン的には成功だとも言えます。
「効率化」の先にあるのは、ユートピアかディストピアか
三宅さんが強調しているように、正解や報われることを求める文化が悪いわけではありません。コスパに加えてタイパが求められるのは、社会が効率化を求めていることの反映でもあるでしょう。実際、ワークライフバランスを重視するのであれば、仕事を効率化するという意志はあらゆる局面で必要になってくるはずです。けれども、効率化に全振りをするというのも、デザイン的な視点だとあまりよくないように思います。極端な例に聞こえるかもしれませんが、効率化を求めるのであれば各家庭で食事を作るよりも、地域ごとに配膳センターのようなものを作って、給食さながら各家庭に配った方が社会としては効率がよいでしょう。服に関しても、多様なブランド/メーカーが思い思いに商品を作るのではなく、制服のように一元化されたものをみんなが着た方が効率的でもあるし、コーディネートに悩んだり失敗したりすることもないでしょう。
はたして、そのような社会が実現したとしたら、それはユートピアなのか、あるいはディストピアなのか。○○診断には、何を着るべきかで悩まなくなるというメリットがあることは理解できるのですが、三宅さんにならって「正解よりもあなたの着たいものを着たらいいのに!」と僕としては思ってしまいます。それではまた次回に。
★今回のテーマをもっとよく知るための推薦図書
・藤嶋陽子『ありのままの身体——メディアが描く私の見た目』青土社、2025年
今回のコラムでも引用したファッション研究者の藤嶋さんが、ルッキズムや美容整形などの「見た目」に関わる問題について論じたものです。ファッションとの向き合い方に悩んでいる人にオススメです。
・東浩紀『動物化するポストモダン』講談社、2001年
個人的には『考察する若者たち』でもっとも感慨深かったことは、いわゆるゼロ年代(2000年代)の議論が下敷きになっている点でした(平成以前と令和の比較なので当然と言えば当然なのですが)。ゼロ年代の批評の盛り上がりは相当なものだったと思いますが、そのなかでもこの本の影響力はかなり大きいと思います。平成以前の批評に興味をもった人は是非読んでみてください。
・『ゲンロンy』創刊号、ゲンロン、2026年
東浩紀さんが創業した知の拠点「ゲンロン」から、若手の批評家·研究者を中心に創刊された批評誌です。正解が求められる「考察の時代」に創刊される批評誌が、今の若い人たちにとってどのように読まれるのかに、僕としては強い関心を持っています。
edit: Erika Sasaki(FASHIONSNAP)
illustration: Riko Miyake(FASHIONSNAP)
1978年京都生まれ。京都大学薬学部卒業、同大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターなどを経て、2013年より京都精華大学ファッションコース講師、現在は同大学デザイン学部教授。批評家/キュレーターとしても活動し、ファッションの批評誌「vanitas」編集委員のほか、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。主著は、「言葉と衣服」「クリティカル・ワード ファッションスタディーズ」。
◾️ゆるふわファッション講義
第1回:ファッション論ってなに?
第2回:可視化の時代におけるファッションとは?
第3回:美術展とは違う、ファッション展のみかた
第4回:「黒の衝撃」から辿る、日本の90年代ファッション再考
第5回:インターネット普及以後の日本ファッション⎯⎯平面性と物語性
第6回:私たちは“二つの身体”を持っている──ヌード、義足、厚底シューズ
第7回:不可視の装い「におい」がおびやかす、身体とファッション業界の未来
第8回:「考察する若者たち」から考える現代ファッション
最終更新日:
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