Image by: FASHIONSNAP

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2026年3月1日付のパルコの人事発表に、平松有吾 前渋谷パルコ店長の名前がないことに驚いた業界関係者は少なくないはず。平松氏といえば、渋谷パルコの建て替えに準備室時代から携わり、建て替え前の2016年2月期にテナント売上高約153億円だった同館を、2026年2月期の見込みで500億円超まで復活させた現場サイドの立役者の1人だ。自身の会社「平松融合研究所」を立ち上げ、今後は外から渋谷パルコの運営やパルコの海外進出をサポートするという。また、各地の商業施設や企業のプランニング、業態開発にも関わっていく。今春、新たなステップに踏み出した平松氏に、目指すものを聞いた。
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平松有吾/平松融合研究所代表
(ひらまつ・ゆうご)1977年生まれ、横浜市出身。立命館大学卒。ドリコム創業期に参画した後、2004年パルコ入社。渋谷パルコで東コレブランドや路面系ショップなどの誘致を手掛ける。2010年に福岡パルコ及びパルコ初の自主編集ショップ「ワンスアマンス」を立ち上げ。2017年から新生渋谷パルコ準備室でコンセプト策定、リーシング、新業態開発、ウェブ・SNS戦略立案を担当。2024年3月から2026年2月まで渋谷パルコ店長。独立後は、全国主要都市の商業施設・百貨店のプランニングや再生案件を手掛けつつ、渋谷パルコ アソシエイツプロデューサーも担う。
Instagram:@yugohiramatsu
「商業によって、街やコミュニティは大きく変わる」
──平松さんがパルコから独立し、今後どんな働き方をしていくのか、注目している業界関係者は多いです。
今年3月からはパルコとは業務委託契約に切り替え、アソシエイツプロデューサーという立場で関わっています。具体的には、渋谷パルコと、パルコの価値を海外に拡げていくために今春新設された新部署である渋谷インターナショナルビジネスディベロップメントユニット(以下、ユニット)の2つをサポートしていくことが、僕の一番のミッションです。
後任の渋谷パルコ店長には、店長代理・マネジャーとして育成してきた及川寛太が就きました。僕は今後も渋谷パルコのディレクションや新戦略の打ち出しなどのサポートを続け、渋谷パルコの価値を維持拡大していきます。また、ユニットにおいては、渋谷パルコの価値をどのようにまとめて海外に持っていくべきかのディレクションをお手伝いします。立場は変わりましたが、自分の仕事の大きな流れは変わりません。平松融合研究所として、最も力を割くクライアントがパルコです。
2023年3月に川瀬(賢二)社長が就任して以来、パルコは副業がより活発化し、僕自身も1年半ほど前から、外部のコンサルティングやプランニングのお手伝いなどを行ってきました。また、プロパー社員だけではなく積極的に中途採用を増やすなど、働き方の柔軟性も高まっています。今はSNSで情報も拾いやすく、組織に捉われず、各人がアイデアを持ち寄って形にしていく時代。業務委託として、外からパルコの価値を最大化していく手法もあるはずと考えました。

渋谷パルコ
──独立に至った、一番のきっかけは何だったんですか?
自分にとって一番エポックメイキングだったのは、やはり渋谷パルコの建て替えですね。建て替え前後で、売上高だけでなく、取り巻く空気などを含めてこれほど商業施設は変わるものかと驚きました。もちろん、自分が何かをしたというのではなく、テナントや関係者、パルコのチームの力があってこそ起こった変化です。
渋谷パルコの建て替えを通して、さまざまな商業施設の良い面、悪い面を自分なりに分析するようになりました。地方都市の百貨店の閉店が近年よくニュースになり、商業施設や百貨店が、その街やコミュニティに与える影響力の大きさも実感しています。渋谷パルコがこれだけ変われたということは、人口減などで元気がなくなっている商業施設や百貨店に対しても、きっと処方箋がある。その再生のお手伝いをしたいと考えています。
かつてパルコと同じセゾングループに属していた「無印良品」は、2020年に新潟の直江津に大型店を出店しました。その際、当時の同社の金井政明会長が「(スーパーマーケットが撤退した)街を救うためにも出店した」といったことを話しているのを聞きました。商業のあるなしで街は大きく変わります。他にも、例えば群馬・桐生の個店セレクトショップ「エスティーカンパニー」は、北関東のコミュニティ活性化に間違いなく貢献している。パルコが属するJ.フロント リテイリングは、首都圏だけでなく日本各地で商業施設を運営していて、小野圭一社長も「地域共栄」を掲げています。その考えに強く共感しますし、会社の中でそれを目指すこともできる。でも、規模感や範囲をもっと拡げるためには、独立した方がスムーズと考えました。もちろん、内向きに国内だけを見ているのではなく、海外の商業施設に対しても同様に考えています。
駅ビル全盛時代に、パルコらしさを模索

2019年に建て替えた渋谷パルコ館内各所には、旧渋谷パルコの外壁に飾られていた五十嵐威暢制作のロゴが飾られている。
──渋谷パルコの店長を経て、より売上高の大きなJ.フロント リテイリングの百貨店の店長に就くなど、サラリーマンとしての出世街道も見えていました。辞めるか残るか、葛藤もあったと思います。
当然、パルコに対する思い入れは非常に強いですし、より純度高くパルコに関わっていく働き方の魅力も感じています。でも、人生は一度きり。渋谷パルコの建て替えと活性化を超えるような仕事を、自分の仕事人生の残り十数年でどれだけできるか。そう考えたときに、自分の存在を従来よりも少しパブリックに捉えて、パルコだけでなく世の中全体に役立つことに携わっていく方が、これまで関わった方への恩返しになるんじゃないかと考えました。
渋谷パルコは、まだまだ発展していく余地があります。次世代の成長をここ数年実感している中で、僕が店長をもうあと3年、4年と続けていくというのは健全ではない。別の店舗で店長になる道ももちろんありましたが、1つの館や1つのエリアに集中するというのは、自分のやりたいこととはちょっと違います。
尊敬する川久保(玲)さんや(山本)耀司さん、(故・三宅)一生さん、そして先日亡くなられたイデー創業者の黒崎(輝男)さんは、皆さん80歳前後まで自分のペースで働かれています。ミッドウエスト創業者の大澤(勝)さんも、エスティーカンパニーの環(敏夫)社長もみな70代後半。自分もそれくらいまで働き続けるだろうなと考えると、今から自分の会社という基盤を作っておきたいという気持ちもありました。
──建て替え後の快進撃の中で記憶が薄れがちですが、駅ビル全盛だった2010年代、渋谷パルコは冬の時代を迎えていました。改めて、渋谷パルコの勝因をどう見ていますか。
当時はルミネをはじめとした交通量の多い駅ビルとの比較で、パルコの苦境がよく語られていました。2010年代は、日本の経済成長が停滞する中で、ルミネの打ち出す等身大のイメージが世の空気感とマッチしていたとも思います。パルコの中でそこに食い込めていたのは、駅ビルの側面が強かった名古屋店と池袋店だけ。インスタグラムが日本に本格上陸したのは2014年ですから、2010年代の半ばまでは、SNSを通じて世界とつながっていくという流れもありませんでした。そうした状況が、年々下降線をたどっていた当時の渋谷パルコの売上高に如実に反映されていたと思います。
渋谷パルコの建て替えを現場で担った準備室のメンバーは、公募制でした。あのころは暗中模索のムードが会社に漂っていて、渋谷パルコは社内の誰もがやりたいと思うようなプロジェクトではなかったんです。そんな中、駅ビルという当時の商業施設の勝ちパターンとは異なる、新しい価値を作りたいという若手中心のメンバーが手を上げました。成功体験やノウハウを持つメンバーを集めたのではなく、僕以外はほぼテナントリーシング未経験者。実験的な側面も強かったと思います。どんなメンバーが集まるのか見えないのに、公募制に踏み切った当時の牧山浩三社長の決断はすごい。自分だったら怖くてできないと思います。
「カウンターをやりつつ、支持されるものにしたかった」

当時店長だった平松氏のもと、渋谷パルコは2025年に2019年の建て替え以来の大規模リニューアルを実施。写真は2025年の「コム デ ギャルソン渋谷パルコ店」開業時の様子。
──そういった実験精神や、分かりやすい王道とは違うことをやってやろうという意識こそ、パルコのDNAなんだろうなとも感じます。
確かに、パルコにはセゾン文化の時代から連綿と受け継がれてきた、カウンターを大切にする価値観があります。パルコが創業した1973年は、商業施設といえば百貨店の時代。ハイカルチャーの百貨店とは異なるユースカルチャーやアート、音楽に着目して、それらの界隈にあった人やモノを取り入れていったのがパルコです。カウンターの歴史が今も続いていることは、パルコの良さであり個性。創業以来、パルコがアートやカルチャーを打ち出し続けてきたことを、海外の商業施設やラグジュアリーブランドには驚かれます。でも、パルコは唯一無二を目指す手段としてアートやカルチャーを取り入れてきたのではなく、アートやカルチャーに関心があるから、自然とそうしてきただけ。結果として、それが唯一無二につながっているんですよね。
そうした良い面と同時に、改善すべきと感じる面もありました。渋谷パルコの建て替えを通して、良い面は引き継ぎ、悪い面は変えていきたいという気持ちは結構強く持っていました。
──具体的に、改善すべき点として平松さんが感じていたのはどういった部分ですか?
自分たちがやりたいことと、お客さまや社会が求めるものをつなげていく力が弱いと思っていました。カウンターをやるのはいいんですが、ビジネスとしての数字の追求に課題があったり、旧来のやり方にこだわりがちだったりという意味です。僕は渋谷パルコの準備室に異動する前は、自主編集売り場の担当をしていたこともあって、社内から「平松は自分の好きなことをやっていて、ビジネスや利益を出すことには興味がない」というバイアスで見られている感覚もありました。でも、僕の中にはビジネス的にもしっかり成功したいという気持ちがふつふつとあった。それで、渋谷の建て替えでは、カウンターでありつつ、ちゃんと世の中に支持されるものを目指さなければだめだと、準備室のメンバーに発破をかけていました。
僕がまだ駆け出しだったころ、建て替え前の渋谷パルコでリーシングを担当していて、当時「WR」のディレクターだった源馬大輔さんに出会いました。以来影響を受けています。源馬さんは、「やるからには売れてなんぼ、支持されてなんぼ」という意識が強い。渋谷パルコの建て替えを模索していたとき、源馬さんは「サカイ(sacai)」のクリエイティブディレクターとして世界で勝負をしていました。源馬さんの持つそうした感覚と、当時の渋谷パルコや東コレのデザイナーたちを取り巻いていた(内向きでビジネスから距離をおいたような)ムードとの間に、非常に大きなギャップを感じていたんです。そこをつないでいくようなことができたらと考えていました。
渋谷をきっかけに、創業精神が全社に波及


着用していたのは「カラー」のスーツ、パリのドーバー ストリート マーケットで購入した「アディダス」のシューズ
──渋谷パルコの現在の売上高に占める免税比率は41%前後。コロナ禍後に訪日客が急増したことで、ラッキーパンチで復調したと見る向きもあります。
もちろん、復調の背景には時代感の変化も大きく関係しています。スマホとSNSによって世界中に情報が拡散されるようになり、海外の方が日本にこれだけ来るようになった。日本のIPホルダーも世界に目を向けて活動するようになりました。でも、受け身でいたら、偶然復調したというわけではありません。パルコが創業以来行ってきた、カルチャーに根差したニッチなことも、グローバルに発信していけばまだまだチャンスがある。渋谷パルコの建て替え以降、改めてそうした価値観を重視し、僕が2024年3月に店長に就任したタイミングで“グローバルニッチ”というワードにまとめました。訪日客をつかむことができているのは、グローバルニッチを念頭に、リーシングや営業企画を練っている結果です。
渋谷パルコの建て替えを通して、こうした価値観が現在進行形で会社全体にも影響を与えていると感じます。「そもそもパルコって、創業当時からアートやカルチャーに注目してきたよね、ニッチなものを大事にしてきたよね」とみんなが考えるようになっているし、前向きにガンガン行こうというムードが広がっている。それも、渋谷パルコ建て替えの波及効果だと思います。
──渋谷パルコの建て替えで、平松さん自身が得たものには何ですか?
巻き込む力は自然と上がりましたし、上がらざるを得なかったと思います。それまでは自主編集売り場の担当として、かなり少人数で動いていました。でも、渋谷の準備室には課長という立場で異動し、リーシング未経験の個性の立った若手をまとめる立場でした。渋谷の開発を主導した泉水(隆)元常務や柏本(高志)元執行役が現場に入り込んで模索していく姿勢にも、強く影響を受けました。
フロアコンセプトにしろテナント構成にしろ、少人数で決めた方が絶対に早いんです。でも、現場にいる若手の方が持っている情報が多かったり、全く違う分野の担当者が鋭い意見を持っていたりもする。それらを取りまとめて、巻き込んでいくのは本当に骨が折れます。それでも、準備室時代から、後進にもそれを意識して行うようにと伝えてきました。若いうちから多くの意見を取りまとめる訓練を積み重ねていけば、組織はきっとよくなる。店長になってからもそうした考えは変わらず、従来は店長と改装担当の2人だけで行うことが多かったフロア改装についても、全体の力を集めて最大化することを意識していました。
巻き込む力というのは、社内に対してだけでなく、社外に対してもです。建て替えを通してラグジュアリーブランドとも取り引きが広がりましたが、従来からお付き合いがあった国内のアパレル企業などからは聞いたことがないような要望を、ラグジュアリーブランドからはいただくことも多い。そうした無理難題や禅問答のような問いかけにどのように対峙し、寄り添ってお互いに価値を作っていけるか。それができるかどうかが、渋谷パルコの成否を決めた最大の肝だったとも感じますし、自分にとっても大きな経験となりました。
「セゾン文化が作ってきたものは今も残っている」

──テナントとの胃が痛くなるような交渉の数々は、2月に発行された平松さんの著書「渋谷パルコの復活 なぜ危機から再生できたのか?」でも詳しく述べられています。
商業施設のフロアのプランニングやテナントリーシングは、世間ではあまり知られていない仕事です。苦労は多いけれど、同時にすごく面白い。それがドラマティックだから本にしましょうと編集者の前田(亮介、前ビュリージャパン代表)さんに声を掛けていただき、本を出すことになりました。人気ブランドや有力IPホルダーなどは、パルコに積極的に出店したいと考えているわけではありません。こちらがしっかり考えて汗をかかなければ、出店を決めてはくれない。大手の商業デベロッパーが手掛ける施設で、店舗前の通行量がいくら多い立地であっても、それだけでは有力テナントはなびかない。そんなに簡単なものではないんです。
日本は失われた三十年と言われますが、それでもしっかりと世界に出て支持されている企業は存在します。もちろん、今まさに大きく成長している海外企業も多い。彼らがなぜ成功しているのかというと、お客さまや取引先がどうすれば喜ぶか、そのために何をすべきか徹底的に考えているからです。渋谷パルコの事例は、ファッションや小売業に限らず、さまざまな業種に通じるビジネス的なヒントが詰まっているんじゃないかという考えで本にまとめました。

渋谷パルコの復活~なぜ危機から再生できたのか?~ (光文社新書)
著: 平松 有吾
メーカー: 光文社
発売日: 2026/02/18
──西武渋谷店が9月末で閉店することが決まり、パルコと根っこを同じくするセゾン文化の終わりが嘆かれています。ファッションやカルチャーが好きで、それを仕事としてきた平松さんにとって、今の時代はどう見えていますか。
セゾングループ自体は2000年代に解体されましたが、セゾン文化が作ってきたものは今も結構残っていると思うんです。無印良品にもその魂を感じますし、セゾンが出資してスタートしたFMラジオ局のJ-WAVEや音楽専門チャンネルのスペースシャワーTVもそう。宇川直宏さんのように、セゾン文化に育てられたと公言している方もいます。
大事なのは建物や企業の在り方ではなく、セゾン文化が作ってきたDNAだと思う。それが今も人や文化に繋がっていますし、そのDNAを各時代やコミュニティでどう生かしていくか。パルコも2019年の渋谷の建て替え時に、その意識を持って再度カルチャーとビジネスの融合を目指しました。もしかすると、いつか海外にそのDNAが連なる企業があらわれるかもしれません。残してきた価値をリスペクトしつつ、次の時代に繋げることが大事だと思います。
最終更新日:
◾️「渋谷パルコの復活 なぜ危機から再生できたのか?」発売記念トークイベント
日時:4月15日(水)19:30〜21:00予定
会場:「NONLECTURE books/arts」
所在地:東京都渋谷区宇田川町16-9 渋谷パルコ ZEROGATE B1階
登壇者:平松有吾(渋谷パルコ アソシエイツプロデューサー/平松融合研究所)、源馬大輔(源馬大輔事務所)、大平かりん(ファッションエディター)、MC 前田亮介(HONMONO FAMILY)
※入場無料/ワンドリンク制
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