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服と産地の解体新書 ─ 尾州のレジェンド足立聖の歩み

 こんにちは、宮浦晋哉です。この度、FASHIONSNAPでの連載「服と産地の解体新書」をスタートしました。学生時代に海外のファッション学校に留学し、日本の産地の注目度の高さに感銘を受けたことがきっかけで国内製造の発展と創出のお手伝いをしたいと考え、キュレーターとして活動を始めて15年が経とうとしています。

 これまで1000件以上の工場を巡り、僕が目にしてきたのは人手不足や高齢化などの厳しい現実以上に、他国にはない日本独自の技術力とビジネスの可能性。日本の糸偏産業には技術力と革新性があり、とにかく面白い。そして今、時代の変化に伴い産地のビジネスも変化を見せています。次の世代に引き継がれる転換期として、僕だから語れる産地の黎明の兆しを各産地の工場や歴史を通してお伝えしたいと思います。

宮浦晋哉

Shinya Miyaura

株式会社 糸編

1987年千葉県生まれ。大学卒業後にキュレーターとして全国の繊維産地を回り始める。2013年東京・月島でコミュニティスペース「セコリ荘」を開設。2016年名古屋芸術大学特別客員教授。創業から年間200以上の工場を訪れながら、学校や媒体や空間を通じて繊維産地の魅力の発信し、繋げている。2017年に株式会社糸編を設立。主な著書は『Secori Book』(2013年) 『FASHION∞TEXTILE』(2017年)。

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 第1弾は世界三大毛織物産地として知られる尾州産地。世界的にその価値が認められているのはもちろん、実は日本の繊維産業の発展に大きく貢献した歴史があります。国内産業を支えた尾州がどのように海外に認められ、そして現在まで続くブランド価値を確立したのか。「津島毛織工業協同組合」「山栄毛織株式会社」「葛利毛織工業株式会社」「渡六毛織株式会社」「テキスタイル・マテリアルセンター」「中伝毛織株式会社」「カナーレジャパン」の7件の取材をもとにお伝えしていきます。

尾州産地(びしゅうさんち)とは?


  • 「尾州」は7世紀後半の書物に記された「尾張国(おわりのくに)」が由来で、愛知県北西部から岐阜県羽島市、各務原(かかみがはら)市に広がるエリアを指す。
  • 蚕の餌となる桑の栽培や綿花の生産に適した土壌、染色および加工に最適な木曽川の軟水が産地の発展に貢献。
  • 麻から絹、絹から綿へと時代のニーズに合わせて主要な原料を変化させ、昭和初期から毛織物が主要産業に。
  • 日本最大の毛織物産地で、国内の毛織物生産の約7割を占める。
  • イタリアのビエラ、イギリスのハダースフィールドに並ぶ世界三大毛織物産地。
  • 現在では毛織物を中心に綿、麻、絹、化合物繊維、複合素材など多様な製品を手掛け、糸、染色、織り、仕上げに至るまで一貫した生産体制が整っている。

 尾州編、ラストを飾るのは愛知県一宮市に拠点を構える「カナーレジャパン」です。毛織物の産地である尾州は、長い歴史の中で技術を積み上げ、さまざまなアプローチでテキスタイルの可能性を広げてきました。

 この連載でも、 尾州産地を作った片岡春吉氏の歴史にはじまり、ブラックフォーマルの原点として世界のメンズファッションを支える「山栄毛織」、100年以上変わらずにションヘル織機※1を稼働させる「葛利毛織」、開発に特化した進化型の機屋「渡六毛織」、デザインの種を作り出す素材の資料館「マテリアルセンター」、そして最新鋭のマシンと自社デザイナーが共存する巨大ファクトリー「中伝毛織」と、千差万別な企業のクリエイションを通して多様な側面を見ていただきましたが、今回触れるのは「テキスタイルデザインのひとつの究極形」です。

※1ションヘル織機については、連載第1回「尾州を作った知られざる偉人の物語」内の「ションヘル織機とレピア織機の違い」をご参照ください。

 カナーレジャパンを牽引するのは、日本の糸偏産業におけるレジェンド職人、足立聖(あだち きよし)さん。これまでの機屋が歴史、組織体系、設備などを武器にしてきたのに対し、足立さんは自身のテキスタイルデザインに対する熱量と、圧倒的なアイデア力を武器に60年間止まることなく新しいテキスタイルを生み出してきました。

 2025年に小塚毛織の小塚康弘(こづか やすひろ)代表取締役と、スタイレム瀧定大阪 83課 小川良太 課長との共同会社「カナーレジャパン」ができるまで、公式サイトもSNSも持たず、半世紀ただただ織機と向き合ってきました。

  足立さんとトップデザイナーたちとの関わりは、DCブランド※2全盛期に遡ります。到底形にできそうもない難題を抱えたデザイナーたちが、次々と足立さんのもとに駆け込むようになりました。1990年代になると、その圧倒的な仕事ぶりが口コミだけで海を越え、最終的には欧州の有名ラグジュアリーブランドまでもが足立さんを頼るようになったのです。

※2 DCブランド(Designer's & Character's Brands)

 デザイナー個人の強烈な個性(キャラクター)や美学が前面に押し出されたアパレルブランドの総称。

 1980年代、バブル経済へと向かう日本の好景気のなか、新たな自分らしさを求める若者の間で起こったムーブメント。パルコや丸井といったファッションビルがこれらのブランドを積極的に取り扱ったことで、社会現象を巻き起こした。

 代表的ブランドとデザイナーは、「コム デ ギャルソン(COMME des GARÇONS)」の川久保玲、「ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)」の山本耀司、「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」の三宅一生、「ピンクハウス(PINK HOUSE)」の金子功(かねこ いさお)、「メンズビギ(MEN’S BIGI)」の菊池武夫など。

 ブーム自体は1980年代後半に落ち着きを見せたが、これらのデザイナーがファッション業界に与えた影響は大きく、日本人デザイナーによる前衛的な表現は現在も色濃く受け継がれている。

#7 尾州のレジェンド足立聖の歩み

 「足立さんの作る布には特別な力が宿っている」。これはカナーレのテキスタイルをみた人が口を揃えて言う言葉です。技術や技法など言葉で説明せずとも、感性を直に刺激するようなデザインの数々は、なんでも言葉やストーリーで意味づけしたがる現代の我々の凝り固まった脳の回路を飛び越えていきます。

 「服の資材として織っているか、デザイン(表現)として織っているかの違いで、足立さんは完全にデザインとして織っているんです」と小塚さん。足立さんのアイデアによって生み出されたテキスタイルは、服の形を成さずとも、まとう楽しさを想像させる力を宿しています。

 そんな足立さんの仕事人生をみていると、まるで熱量を落とさずに燃え続けるひとつの火種から、次々と火が移され、小さな輪が形成されるような画を彷彿とさせます。その熱の原点は、機屋(はたや)の全盛期である「ガチャ万景気※3」に沸く時代にありました。

※3 ガチャ万景気(がちゃまんけいき)

 戦後から高度経済成長期の1950〜1970年代にかけて、日本の繊維産業が迎えた空前の好景気。「織機をガチャっと動かすだけで1万円儲かる」と例えられたことに由来する。

 1950年代の朝鮮特需や国内の衣料品不足を背景に、尾州をはじめとする全国の産地が潤い、当時の日本経済を牽引する最大の輸出産業となった。1980年代後半の急激な円高などを機に終焉を迎えたが、その時に培われた技術と設備が現在の生地作りの礎となっている。

ひとつの火種から次々と灯される布づくりの輪

 足立さんは1948年岐阜県生まれ。戦前からすでに毛織物産地として確立されていた尾州が戦後の復興を遂げ、多くの家屋で機屋が営まれていた環境で育ち、織機が身近な存在だったといいます。そのため自然な流れで中学生から織機に触れ、岐阜工業高校の紡績科に進学しました。在学中は学校に通いながら自ら作品展に出展し、賞を獲得するほど、当時から布を織ることに熱中していたといいます。

  そして卒業と同時に同県内の「郡上紡績(ぐんじょうぼうせき)」に就職し、キャリアをスタート。24年間現場で経験を積み、1997年に独立して「有限会社カナーレ」を立ち上げます。カナーレは工場を持たないテキスタイル企画会社で、尾州にある5つの工場と提携しながら運営し、30年近く多くのデザイナーのクリエイションを支えてきました。

 大きな転機となったのは小塚さんとの出会いでした。小塚さんは地元を離れてテキスタイルコンバーターとして働いていましたが、その新人時代に足立さんの生地に出会い、他の生地とは違う圧倒的なパワーに魅了されます。

 その後、地元に戻った小塚さんは2009年に家業を継ぐとカナーレとの協働を開始。2011年に業務提携を締結して本格的にカナーレのテキスタイルを販売し始めました。しかし、2020年に足立さんの生地に不可欠なションヘル織機を持つ最後の協力工場が廃業をすることに。

 「この技術を絶対に絶やしたくない」。そう決意した小塚さんは、休眠していた自社工場を改修し、ションヘル織機や整経機などを導入し、足立さんが作業しやすい場所を整え、カナーレの事務所も移転しました。工場が稼働すると、足立さんの布に引き寄せられるように機屋で長く働いていた80代のベテランがサポートとして入ったり、遠方から移住してきた若手社員が加わりました。

 こうして技術継承の場ができ上がり、2025年にはスタイレム瀧定大阪の小川良太さんが加わり、共同で新会社「カナーレジャパン」を設立。足立さんの情熱と技術を次の世代へ継承する新たな体制がスタートしたのです。

 次のフェーズに移行した足立さんの歩み。足立さんが燃やし続けていた火種は徐々に若い世代に受け継がれはじめていますが、その根底には揺らぐことのない「足立イズム」があります。

自分のところに来た仕事は絶対に断らない

 足立さんのキャリアの出発点となった「郡上紡績」は、紡績から染色、織物までを手掛けており、分業制の日本の産地では珍しい会社でした。ただ、会社として織物部門にはそこまで力を入れてなかったため、足立さんは新人の頃からたった一人で配属され、その後もしばらく一人で織機に向き合うことになりました。

 予算が少ない代わりに達成すべきノルマも課されず、「不思議と何をしても怒られなかった」という放任ともいえる環境は、自由な発想でものをつくることを望んでいた足立さんにとってプラスに働き、技術力を養う基盤となりました。

 実は入社した当時、学生時代から織機に触れていて自信があったため、思わず「全部知っているから大丈夫」と豪語してしまったという足立さん。当然、周りは多くを教えることはなくなり、自ら学んでいくしかなくなりました。

 学校で教わったのはあくまで生地の組織構造や計算の仕方などで、実技には自信があったものの、いざ現場に入ると細かい操作や修繕など知らないことばかり。そのためとにかく手を動かしながら技術を叩き込んでいくことになりました。

 キャリアのスタートから独自の道を歩んできた足立さんですが、ものづくりに対する視点もまた風変わりでした。当時の業界の常識が「どれだけ効率的にたくさん織れるか」というものだったのに対し、足立さんは「同じものをひたすら織る作業に留まるより、ひとつ作ったらまた次、その次とどんどん新しい表現を追い求めていく方が面白い」という考えを抱いていました。

 会社の中で来る日も来る日も織機と格闘し続ける毎日。ようやく腑に落ちたタイミングで、計算されていたかのように訪れたのが、日本の一大ファッションムーブメント「DCブランドブーム」です。足立さんの働く工場にも、山本耀司さんや菊池武夫さんといったブームを牽引するデザイナーが訪れるようになりました。

 オリジナル性を高めることに注力していたデザイナーたちの要望に応えることは、足立さんがかねてから抱いていた考えに見事に重なりました。

 もともと「自分のところに来た仕事は絶対に断らない」という考えだった足立さんですが、技術を習得するためにひたすら織機に向き合っていたように、デザイナーの要望にも真摯に向き合い、その考えはより強固になり、以降の活動においてもポリシーとして掲げるようになったのです。

面倒くさいものを作る人の方が好き

 「負荷なくして開花なし」という言葉がありますが、足立さんとトップデザイナーたちとの関わりは、まさに葛藤の連続でした。そもそもファッションに興味がなかった足立さんは、著名なデザイナーが来ても誰なのかさっぱりわからなかったそう。しかも彼らの依頼は、「なんや?これが注文か?」と頭を抱えるほど抽象的です。どうすればいいか尋ねても、さらに訳のわからない説明が返ってくる始末だったといいます。

 しかし、足立さんは「面倒くさいからやらない」という選択肢を持っていません。“今まで見てきたもの”が通じないのなら、“どう変えるか”を見つけ出す。その繰り返しの中で傑作とも言えるようなカナーレを代表するテキスタイルがどんどん積み上げられていきました。

 例えば、「イッセイ ミヤケ(ISSEY MIYAKE)」から裂織(さきおり)の生地を依頼されたときのこと。そもそも裂織とは、古い布をテープ状に細く裂いて緯糸(よこいと)として織り込む技法です。しかし、その正しい布の裂き方を知らなかった足立さんは、なんとパン用のスライサーを使って布を裁断。さらに、通常なら織機の張力に耐えられるような丈夫な糸を使うはずの経糸(たていと)にまで、その布を使用するという革新的な手法を取りました。

カナーレジャパンの代表作「滝織」

滝織

Image by: Canale Japan

 当然、経糸は何度も切れてしまいますが、そのたびに機械を止めて手作業で結び直すという途方もない手間をかけて織り上げられた布は、薄い裂き布が重なり合い、織機の上で流れ落ちる滝のように見えたことから「滝織(たきおり)」と命名。伝統の織物を独自のテキスタイルとして昇華し、カナーレの代表作にしてしまったのです。

 また、初期の頃に何度やっても違うと言われ、思い切って織り上がった生地をそのまま洗濯機に放り込み、全く違う風合いになったものを出して合格をもらったこともあったそう。その経験をもとに、後に別の機屋さんが「ジュンヤ ワタナベ (JUNYA WATANABE)」からの依頼に苦戦していたとき、「とりあえず洗ってみよう」と提案し、ピンチを救うことができたといいます。

洗濯機に入れてウールを独特な風合いに仕上げた生地

洗濯機に入れてウールを独特な風合いに仕上げた生地

Image by: Canale Japan

 「こっちが遊んでもらっているんじゃないかなという感覚でものづくりをしているというのが現実。だから面倒くさいものを作る人の方が好き。『何を言っているんや』と思うようなことを言われるくらいの方が面白い」と足立さんは語ります。

 もし、リスクを取らずに安全に仕事を続けていたら、これらの生地は生まれず、デザイナーのクリエイションにも発展はなかったかもしれません。正攻法ではない「自分なりの発見」こそが、足立さんのものづくりの財産となったのです。

🧵取材余話

“お客さん100%”じゃない足立さんならでは仕事の流儀

 足立さんの仕事を一番近くで見てきた小塚さんは、足立さんが他の機屋さんと違う点は、「依頼されたものに対して、自分の考えや技術をさらに上乗せして提供しているところ」だといいます。

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小塚さん

足立さんが作った見本反に対して「何これ?全然違う」って思われてるデザイナーさんも多いと思います。でもそうすることで新たな可能性に気づけるから、ものづくりを本気でされているデザイナーズブランドの方は、足立さんのことを同じデザイナーとして対等な目線で会話されている気がします。

自分なりの正解を考察して、頭の中で設計してみる。やったことないものであっても、「手織りでできることが織機でできないことはない」という考えでとりあえず作ってみるの。

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足立さん

“尾州は冬物”の常識を変えた一手 

 足立さんにお会いすると、いつも楽しそうに仕事の話をされます。そうして楽しみながらものづくりをする姿が足立さんのもとに来たデザイナーにも刺激を与え、相乗効果で良い生地が生まれていくのだと思います。

 足立さんを“レジェンド”と言わしめる一番のエピソードは、やはり毛織物産地の尾州で麻を使った織物をいち早く手掛けたパイオニアであるというものではないでしょうか。

 実はウールに麻を混ぜて織るという手法自体は、古くから存在していました。例えば、今から100年以上前に米国で発行された紳士服の専門辞典※4にも、ウールと麻を交織した夏用コート地の記述が残されています。しかし、スーツの発祥である西洋のテーラーでは、均一で美しい生地であることが大前提でした。夏を涼しく過ごすためであっても、シワや歪みを出さずに綺麗に織り上げることが重要だったのです。

 一方、足立さんが作り上げたのはその真逆でした。麻特有のシワシワとした質感を際立たせたのです。長い間、綺麗で均一な生地つくりをしてきた尾州でこのような生地は前衛的で革新的でした。

麻特有のシワを際立たせたウール×麻の生地

麻特有のシワを際立たせたウール×麻の生地

Image by: Canale Japan

 もちろん、それを成し遂げるには困難がありました。最大の壁は尾州の産地内に麻を処理できる強固な糊付け設備がなかったこと。当時の尾州は、インフラのすべてがウール専用に最適化されていたのです。

 ウールは弾力性と伸縮性が高いため、強い糊付けを必要としません。しかし、硬くて伸縮性のない麻を織機にかける場合、激しい摩擦や引っ張りで糸が切れないよう、糊でコーティングして強度を上げる工程が不可欠なのです。当時、麻を織るために必要なインフラがウール産地である尾州にはすっかりなくなっていました。

 そんな環境でも麻を使う必要性を感じた足立さんは、子ども時代に新聞配達をしていたときに見た糊つけ屋の職人の姿をヒントにします。記憶を頼りに麻糸を解き直し、そのときの職人と同じようにアナログな手作業で麻に糊を施して麻混ウールのテキスタイルを仕上げたのです。

 「世間をよく見ていれば何をしたらいいのかが自ずと見えてくる」と足立さん。秋冬の衣服の生産だけをしていた頃は、どうしても閑散期ができてしまっていた尾州産地ですが、足立さんはその状況を打破するため、遠くに手を伸ばして新しいことを始めるのではなく、自身の手元にあるカードを活かしました。

 一度形にしてみると、次はもっと技術が必要なものが要求されるようになり、アップデートを重ねていく......。そうしていくうちにその技術が産地内に広がっていき、いつしか尾州は麻混のデザイン性の高いテキスタイルを織れる産地になっていったのです。

※4 William Henry Baker 著『A dictionary of men's wear』(1908年、W. H. Baker 出版/Internet Archive 所蔵)

🧵取材余話

「自分は貧乏な家の子どもだった」

 柔軟な思考と行動力でいくつもの困難を切り抜けてきた足立さんですが、それには幼少期の経験が大きいといいます。

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足立さん

私は8人兄弟の下から2番目。家も貧乏だった。だから小学生のときはずっと新聞配達をしていてね。何でも自分でやってきた。身の周りにあるものを何とか上手く工夫してやるというのが習慣になっていて、それが大きいんじゃないかな。新聞配達の道は今でも覚えていますよ(笑)。

織物は買うものではなく作るもの

 多くの人に刺激を与えるカナーレのテキスタイル。鮮麗な織物を見て、「これはどこで買えるんですか?」と聞かれることが多いそうですが、その度に足立さんは「いやいや、作るんですよ。織物は作るものです」と答えてきました。

 織物はその奥深さから、業界内でも技術がブラックボックス化されがちです。しかし足立さんは、糸一本から「どう作るか」を共有し、デザイナーの無茶な要望に対して共に頭を悩ませます。そうした泥臭いやり取りを通してこそ、良いものが生まれることを知っているからです。

 「買いたい」という相手には「自分で作ったらどう?」と提案することもあるといいます。技術を隠す風潮が根強かった業界において、少しでも多くの人に製法を知ってもらうことが、結果的に産地のためにもなるという考えです。

 そんな足立さんのものづくりに対する姿勢は、相手が誰であっても決してブレません。「エルメス(HERMÈS)」からの依頼であっても、名もない学生からの依頼であっても、常に対等に本気で生地を作ります。

 2016年に僕は名古屋芸術大学のプロジェクトに携わり、そこで足立さんに学生たちの生地を織ってもらいましたが、学生が思いのままに「シャネル(CHANEL)」で使ったような高級糸を選んで要望を出しても、足立さんは躊躇いもなく本気で織ってくださったのが印象的でした。

 「よく考えたらはじめから面倒くさい仕事じゃないですか。別に面倒くさいことをやろうと決めたわけじゃないけど、負担も大きい仕事もちゃんとやることで差別化にもなる」という足立さんの言葉通り、他との違いを生み出すというのは、面倒だと感じるほど細かいトライアンドエラーの結晶の上に成り立っているというのは忘れてはいけませんね。

🧵取材余話

忘れられない生地はピアノの鍵盤

 足立さんにこの60年間で特に記憶に残っている生地について伺ってみたところ、ジャン・シャルル・ドゥ・カステルバジャック(Jean-Charles de Castelbajac)が手掛けるブランド「カステルバジャック(CASTELBAJAC)」からの依頼を挙げてくれました。


 一反の生地を真ん中で分けて左右で表情の織物を作りたいと言われて色々とやっていくうちに、無地だとつまらないから「ションヘル織機でも四角なら織れるかもしれない」と思ってやったらできた。

 そして「これができるならピアノの鍵盤を作ることだってできるな」と思ったわけ。鍵盤をちゃんとみたことなかったけど、とりあえず作って見せたら採用されてしまった。

 大量に注文が来てしまったから機屋さんを一軒ずつ口説いて回ったんです。ションヘルじゃないとできなかったから倍の時間がかかってしまうなか、なんとか50反を仕込みました。大変だった分、記憶に残っていますね。このように左右で柄が違うものは「ミナ ペルホネン(minä perhonen)」用にも作っています。

(足立さん)

次世代へつなぐ“布が織れる遊び場”

 織物への圧倒的な熱量とアイデア力。それに加え、どんな変化にも対応し、他者を受け入れる「柔軟性」が足立さんの魅力であり、カナーレの生地が選ばれ続ける理由です。

 産地が存続の危機に瀕するなか、「技術をつないでいくには若い人の力を借りないといけない」と痛感していた足立さんは、小塚さんと「いつか工房を作りたい」と長年話し合ってきました。

 「自分はお金を出せる状況ではない」という足立さんに対し、小塚さんは「それでもいい。まずは事務所を作るからそこに来てください」と背中を押します。そして2020年、機屋の衰退を肌で感じた足立さんは、「もうここでやろう」と自ら声を上げました。

 そうして拠点を構え、まず着手したのが、カナーレのテキスタイルを用いたブランド「エイク(EYCK)」の立ち上げでした。これは小塚さんが足立さんの生地を初めて見たときに感じた「ワクワクする感情」を、もっと多くの人に伝えたいという純粋な動機から始まったもの。

 便利なツールで生活が豊かになり、誰もが“いかに効率よく成果を出すか”を考える時代。手間を顧みず、高い熱量で突き抜けたことをやってのける「足立イズム」は、もしかすると異質なものかもしれません。しかし、「そんな足立さんだからこそ学びたい」と若者が次々と集まってくるのも事実です。

 足立さんは集まった若弟子に対して厳しく鍛え上げることはしません。相手の興味に合うように、基本的な作業や自身の知見を惜しみなく伝えた上で、「本人たちが楽しみながら個性を発揮してくれたらそれ以上のことはない」という考えです。

 「やっぱり仕事ってさ、言われたことをやると大したことにならないと思う。自分で考えて自分でやりだすと、どんどん景色が変わっていくんだよ」。そう語る足立さんは、若い世代からの提案を「自分にはない発想」として大らかに受け入れ、彼らの個性が発揮できるよう温かく見守ります。

 技術継承や産地存続を視野に入れながら、「布が織れる遊び場」をコンセプトにしている理由がここにあります。足立さんという一つの大きな光に吸い寄せられた若者たちは、やがて自分でも光を放つように成長していくのです。

 念願だった工房を実現させた足立さんですが、次なる目標は「東京でションヘル織機を動かすこと」だといいます。それは、“テキスタイルの展示会をもっと遊び心溢れる場にしたいから”。

 「最新の機械ばかりみている東京の人がションヘルをみたら感動してくれると思うね。昔の織機は不思議なことに人間にとって心地良いリズムを刻むようにできている。その心地よいリズムと新鮮な体験を味わいながら、テキスタイルにも興味を持ってもらいたい」

 どこまでもワクワクを伝えようと進み続ける足立さんの光はこれからさらに大きく広がっていくでしょう。

まとめ:ものづくりにおける最高到達点とは?

 ファッション産業によって生み出される製品には、作り手の感性や美学、ルーツとなる文化、アート、哲学、音楽などさまざまな視点が交差し、多角的なアプローチによって消費者に憧れや所有欲を植え付けます。

 しかし、どんなに美しく煌びやかなベールがかかっていたとて、その本質がものづくりであることは変わりありません。“インフラとしての衣服”ではなく、日常にハレの気を吹き込む“ファッションとしてのものづくり”。それが真価を発揮するのは、ただの物資を超えた「何か」を宿し、人々の心をどうしようもなくワクワクさせるときではないでしょうか。

 一方で、産業が発展し、あらゆるデザインが出尽くしたとも言われる現在。新しいものを生み出して人々に認知してもらい、利益を生むビジネスとして成立させるためには、緻密な戦略や作為的なマーケティングが不可欠である──。それが常識であり、計算された見せ方をしなければ存在すら気づいてもらえない、もはやそれしか戦う方法がないようにも思えます。

 しかしだからこそ、足立さんが生み出すテキスタイルのように、純粋なものづくりへの愛着から生み出された“濁りのない個性”が、ひと際光を放つのでしょう。競争が激化するなかで常套句のように消費される「差別化」や「唯一無二」といった謳い文句。そんな便宜的な言葉に頼るのではなく、真摯に磨いた技術とアイデアだけで圧倒的なアイデンティティを突きつける。ただひたすらに没頭した先に現れるその境地こそが、ものづくりにおける最高到達点ではないでしょうか。

🧵尾州編終了!

木曽川

 さて、全7回にわたって、日本の産地の核心であり、世界に誇る技術が集結する尾州について取り上げてきました。この尾州編だけでも、日本の糸偏産業が持つポテンシャルの高さを十分に感じていただけたのではないでしょうか。

 しかし、そのポテンシャルを支える産地はまだまだ存在します。次は日本一のデニム生産量を誇り、尾州と同じように世界中のブランドの需要に応え続ける広島県の福山産地を訪ねます。次回の福山編もどうぞお楽しみに!

photographer: Yujiro Ichioka/editor: Naru Kamoshita(FASHIONSNAP)

最終更新日:

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