

こんにちは、宮浦晋哉です。この度、FASHIONSNAPでの連載「服と産地の解体新書」をスタートしました。学生時代に海外のファッション学校に留学し、日本の産地の注目度の高さに感銘を受けたことがきっかけで国内製造の発展と創出のお手伝いをしたいと考え、キュレーターとして活動を始めて15年が経とうとしています。これまで1000件以上の工場を巡り、僕が目にしてきたのは人手不足や高齢化などの厳しい現実以上に、他国にはない日本独自の技術力とビジネスの可能性。日本の糸偏産業には技術力と革新性があり、とにかく面白い。そして今、時代の変化に伴い産地のビジネスも変化を見せています。次の世代に引き継がれる転換期として、僕だから語れる産地の黎明の兆しを各産地の工場や歴史を通してお伝えしたいと思います。

1987年千葉県生まれ。大学卒業後にキュレーターとして全国の繊維産地を回り始める。2013年東京・月島でコミュニティスペース「セコリ荘」を開設。2016年名古屋芸術大学特別客員教授。創業から年間200以上の工場を訪れながら、学校や媒体や空間を通じて繊維産地の魅力の発信し、繋げている。2017年に株式会社糸編を設立。主な著書は『Secori Book』(2013年) 『FASHION∞TEXTILE』(2017年)。
ADVERTISING
第1弾は世界三大毛織物産地として知られる尾州産地。世界的にその価値が認められているのはもちろん、実は日本の繊維産業の発展に大きく貢献した歴史があります。国内産業を支えた尾州がどのように海外に認められ、そして現在まで続くブランド価値を確立したのか。「津島毛織工業協同組合」「山栄毛織株式会社」「葛利毛織工業株式会社」「渡六毛織株式会社」「テキスタイル・マテリアルセンター」「中伝毛織株式会社」「カナーレ/小塚毛織株式会社」の7件の取材をもとにお伝えしていきます。

- 「尾州」は7世紀後半の書物に記された「尾張国(おわりのくに)」が由来で、愛知県北西部から岐阜県羽島市、各務原(かかみがはら)市に広がるエリアを指す。
- 蚕の餌となる桑の栽培や綿花の生産に適した土壌、染色および加工に最適な木曽川の軟水が産地の発展に貢献。
- 麻から絹、絹から綿へと時代のニーズに合わせて主要な原料を変化させ、昭和初期から毛織物が主要産業に。
- 日本最大の毛織物産地で、国内の毛織物生産の約7割を占める。
- イタリアのビエラ、イギリスのハダースフィールドに並ぶ世界三大毛織物産地。
- 現在では毛織物を中心に綿、麻、絹、化合物繊維、複合素材など多様な製品を手掛け、糸、染色、織り、仕上げに至るまで一貫した生産体制が整っている。
尾州編の後半、第5回となる今回も前回と続き岐阜県羽島市が舞台です。これまで3回連続で機屋(はたや)を取り上げてきましたが、今回訪れるのは全国から集まった12万点以上のテキスタイルが並ぶ「テキスタイル・マテリアルセンター(以下、マテセン)」です。

素材の資料館は探せばいくつか見つかりそうですが、同施設は全国の産地から集めたメーカーのアーカイヴが揃っているという点で、他に類を見ない特別な場所です。
この施設は、岐阜県毛織工業協同組合の岩田仲雄(いわた なかお)元理事長が企画し、組合員で自身も機屋(株式会社イワゼン)を営む岩田善之(いわた よしゆき)さんと組合でたった1人の職員の山田幸士(やまだ こうじ)さんの尽力のもとで開館しました。岩田元理事長が作り上げたシステムにより、開館に集まった7万点の資料を、岩田善之さんが8つのグループに分類。そして山田さんがその全てに手作りのハンガーをつけて閲覧できるようにするという、果てしない作業を自ら中心になってやり遂げ、行政に働きかけて開館を実現しました。
山田さんのモチベーションとなったのは、「自分を育ててくれた産地への恩返しがしたい」という強い想い。東西の主要都市の中間に位置する岐阜羽島の地の利を生かし、当初は東京や大阪の大手アパレルメーカーをターゲットにしていたそうです。
しかし、実際にこの場所を訪れているのは、日本の若手デザイナーや学校法人、海外のウール協会など個人から団体まで多岐にわたります。もともと駐在しているのは山田さんのみでしたが、途中から岩田さんも加わり、現在は2人体制で運営しています。しかしそれでも手が足りないほど、来訪者が絶えません。

右:山田幸士さん 左:岩田善之さん
マテセンがこれほどまでに重宝されているのは、希少性の高い資料が揃っているからだけではありません。何よりも、その立ち上げの契機となった「テキスタイルメーカーの商習慣の変化」や「ファッションデザイナーとテキスタイルデザイナーの力関係の変化」が深く関係しています。
詳細はお二人への取材の内容をもとにお伝えするとして、まずは本編に先駆け、マテセンの設立背景にもつながる、2000年代初頭から現在に至るまで、日本の繊維産地を襲った情勢について簡潔にお伝えさせていただきます。
日本の繊維産地を揺るがした2000年代初頭の危機
日本の繊維産地にとって、2000年代は単なる不況ではなく、生産体制そのものが根底から覆されるような危機に瀕した時期でした。
1. SPA(製造小売)が力を強める
バブルが崩壊し、消費者物価指数が本格的に下落した1998年、ユニクロの1900円のフリースが注目を集め、「フリースブーム」として社会現象を起こしました。低価格ながら価格以上の品質で、カラーバリエーションも豊富。それを可能にしたのが、企画から小売までを一貫して行うSPA(製造小売業)という業務形態でした。
消費者は“安くてそこそこ品質がいいもの”の利便性に気付き、高い技術を持つ日本の産地を支えていた中価格帯の国内の百貨店ブランドの足場に亀裂が入りました。実際、国内アパレル市場における日本製のシェア(数量ベース)は、1991年には約50%だったのに対し、2001年には20%未満まで減少、2005年頃にはわずか10%にまで激減したというデータ※もあります。
※経済産業省「繊維産地におけるサプライチェーン強靱化に向けた対応について」(令和6年10月)内、「国内アパレル市場における衣料品の輸入浸透率」より
2. 中国のWTO加入
日本製のシェアが20%未満にまで落ち込んでいた2001年、中国がWTO(世界貿易機関)に加盟したことで、この構造的変化が強固なものになりました。
中国はもともと、アパレル製品の基軸となる綿やウールをはじめとする原料が豊富であり、労働人口が多かったためファッション産業における潜在的な供給力は極めて高いものがありました。しかし、加盟以前の中国は、先進国が途上国からの輸入を制限するために設けていた「多国間繊維協定(Multi Fiber Arrangement)」という枠組みに基づき、厳しい制限が課されてされていました。
2001年にWTOへの加盟が認められると、この制限が緩和されます。それによって中国の高いポテンシャルが発揮され、短期間で世界の工場としての地位を確立しました。
日本の産地はこれにより、剥き出しの国際競争にさらされることになりました。当時、欧米諸国は自国産業を守る盾として緊急輸入制限を発動していましたが、日本政府の対応は消極的でした。加えて、不況に喘ぐ国内のアパレル企業は、先行するSPAブランドに倣い、安価な素材と労働力を持つ中国や東南アジアに活路を求め、国内生産から海外生産へとシフト変更を加速させました。
3. リーマンショック
この状況に追い討ちをかけたのが、2008年に到来したリーマンショックです。経済状況のさらなる悪化により、「1万円の服は高い」というデフレ心理が消費者に定着しました。技術に裏付けられた1万円以上する日本製の服は消費者の目に止まらなくなってしまったのです。
また、産地の衰退における日本特有の要因として商社の役割の変化があります。かつての商社は、国内産地を育成する役割を担っていましたが、2000年代の激変の中で中国に合弁会社を設立し、低コストな生産で価格を抑えた利便性の高い生地を日本へ持ち込むことに力を入れるようになりました。
商社やメーカーが日本の高度な技術や管理方法を直接指導したことにより、中国製品のクオリティは短期間で向上。結果として、日本の産地が持っていた品質の優位性を揺るがすことになったのです。
日本の繊維産地は工程ごとに工場が分かれる分業制が特徴です。そのため、受注を失った工場が一つ廃業すると、産地全体が機能不全に陥るドミノ倒しのような連鎖廃業が発生。こうした変化を経て、2023年にはアパレル市場における日本製の衣料品のシェアは2%未満にまで減少するに至りました。
#5 デザイナーを支える唯一無二の資料館“マテセン”について
現在では希少と言われても仕方がないほど、少なくなってしまった日本製のアパレル製品。しかし、100年以上の歴史を持つ日本の産地で、テキスタイルメーカーがさまざまなアイデアを世に送り出したのは紛れもない事実です。館内に並ぶ数えきれないほどのテキスタイルを眺めていると、日本の産地が持つ技術力の高さに改めて感嘆させられます。

僕が初めてここを訪れたのは2016年のこと。当時はまだ、若手デザイナー界隈では施設の存在を知る人は少なかったように思います。目に映る圧倒的な量の展示が、地道な手作業によって積み上げられたものだと知ると、展示室の奥へ足を進めるたびにその凄みがずっしりと伝わってきます。「アイデアを集めるには最高の場所だ」と確信した僕は、それからできる限り多くのデザイナーを連れて何度も足を運んでは、お二人の温かいお人柄に助けられてきた思い入れの深い場所です。
「デザイナーと工場をつなぐハブになりたいと考え、最初の仕分け作業でそれぞれの生地に会社名を記しました」と山田さん。当初は大手アパレルの来館を想定していましたが、実際には前述の通り、多くの若手デザイナーたちがシーズンごとに訪れる場所になりました。山田さんがそんな若手デザイナーたちを快く受け入れ、彼らが持ち込む技術的な相談に対し、40年以上のキャリアを持つ岩田さんがその場ですぐに対応する。この連帯によって、マテセンの機能は盤石なものになりました。
「若手デザイナーを育てることが、結果的に日本の産地を力付けることになる」。日々の活動を通してそう確信しているというお二人に、これからの産地とデザイナーの関わり方について伺いました。

テキスタイル・マテリアルセンターの設立にあたって
当センターは、テキスタイルメーカーやアパレルメーカーが
次の企画のヒントを見つける“素材の資料館”です。
同時に過去の開発素材から最新のものまでアパレルデザイナーとテキスタイルメーカーが展示素材を介して出会うべく、常設展示の役割も果たしています。
東西アパレルの真ん中で、かつ尾州産地という
日本でも最大規模の素材産地内にセンターを置くことで、
より効果が発揮できると考え、
行政支援のもと、ここ岐阜県羽島市に設けらました。
このような規模で誰でも利用できる施設はどこにもありませんでした。
日本のファッション産業のために、とりわけ世界中で高い評価がされながらも
ファストファッション隆盛の国内市場の中で、
20年にも渡り苦境に苦しんできた全国の産地の復活を願って設立したものです。
当センターはこれからも日本のものづくりの伝統を守っていくため、
積極的にその支援を行いたいと思います。
館内の展示資料より
恩師の意思を受け継いで作られたマテセン
山田さんは紹介を経て岐阜県毛織工業協同組合の事務として働き始めましたが、もともとはファッションには興味がなく、産地に関する知識もほとんど持ち合わせていませんでした。そんな山田さんの恩師となったのが、岩田仲雄元理事長です。

「毛織会館」の竣工(しゅんこう)式に登壇した岩田仲雄元理事長
Image by: 岐阜県毛織工業協同組合
岩田元理事長は、2005年に長年の功労が評価され、原則70歳以上の功労者に与えられる「旭日中綬章(きょくじつちゅうじゅしょう)」を受章した人物です。その際、経済産業省から経済分野の受章者代表に抜擢され、天皇陛下に拝謁のうえ、直接御礼を申し上げるという大役を果たしています。
これほどの輝かしい功績を残し、業界を牽引してきた岩田元理事長ですが、その根底には周囲を惹きつける圧倒的なカリスマ性がありました。「元理事長は演説、挨拶、人心掌握の天才。思いっきり岐阜弁で親しみやすく、聴衆の心を一気に掴み、田中角栄の演説を彷彿とさせるのです」と山田さん。
そんな高い人徳を備えた元理事長は、日本の産地特有の閉鎖的な在り方に強い危機感を抱き、革新的な取り組みを行なってきました。まずは尾州産地への理解を深める場として、1992年に「毛織会館」の建設を主導。翌1993年には「尾州テキスタイルデザイナー協会」を創立します。継続的に産地の発展に尽力した結果、1995年(平成7年)には黄綬褒章(おうじゅほうしょう)を受章。そして圧倒的なリーダーシップが評価され、翌1996年の毎日ファッション大賞では鯨岡阿美子賞を受賞しました。
その受賞から間もない1998年1月、岩田元理事長は全国の8工連(各繊維振興団体)を束ね、国内最大の繊維総合見本市「ジャパン・クリエーション(JAPAN CREATION)」を立ち上げます。これが彼の最大の功績となりました。この展示会は四半世紀を超えた今も「Tokyo Textile Scope」として継続されています。さらに、国内のみならず、中国の「インターテキスタイル上海」やイタリアの「ミラノ・ウニカ」といった世界的な国際見本市へ「ジャパン・パビリオン」としての出展にも発展。日本の優れた素材を世界へ発信する基盤となっています。





東京ビッグサイトを会場にした「JAPAN CREATION」(1998年第1回目)
Image by: 岐阜県毛織工業協同組合
開催に際して、岩田元理事長は展示会に出展した素材が岐阜県毛織工業協同組合に集まる仕組みを作りました。毛織会館は組合の事務局の拠点でもあり、隣接する資料館が「テキスタイル・マテリアルセンター」となりました。展示会に並んだ数千点の素材と、国際羊毛事務局(現 非営利法人オーストラリアン・ウール・イノベーション)の開発サンプル3万点が集まり、マテセンの土台が作られたのです。
しかし、業界を取り巻く変化は大変なものでした。時代の荒波の中で岩田元理事長が経営する岩仲毛織株式会社も倒産に追い込まれます。苦境のなかにあっても産地の行く末を憂いていた元理事長は、親戚であり組合員でもあった岩田善之さんが、山田さんのサポートを務めるようになったことを喜んでいたそう。
2019年9月16日、敬老の日にこの世を去った岩田元理事長。山田さんは理事長から言い残された「最後までお前をよう見れんかったけど、マテセンはお前のために残したで」という言葉を胸に、「あの世でどんな言葉をかけてもらえるか」を道標にしながら、民間施設の良さを最大限に生かせるように真摯に役割を全うされています。
📖取材余話
日本の産地はもっと大らかでなくちゃならない!山田さんのベースにある岩田元理事長の言葉
岩田元理事長がジャパン・クリエーションを立ち上げる前、かつての産地は技術の流出を恐れるあまり、非常に閉鎖的で、職人とデザイナーが話をすることも稀でした。
しかし、岩田元理事長は「半年でトレンドが変わる世界で、こだわりを隠して守りに入っても廃業のリスクは消えない」と山田さんに説いたといいます。

山田さん
要するに、視点を向けるべきは産地同士の競争ではなく、消費者の興味を失わせないこと。「産地存続のため、そして消費者にファッションを楽しんでもらうためにも、我々が大らかな姿勢でいなくてはならない」という考えだったわけです。元理事長の「大事なのは後代のファッション産業に多くの技術が残っていて、ワクワクした気持ちで溢れていることだ」という言葉は僕の活動の核になっています。

各ラックに設置されているボードのシールまで山田さんの手作り
転機は一人のデザイナーから

岩田元理事長が築いたシステムによって、マテセンには年間2000点以上のテキスタイルが集まるようになりました。しかし、開館を迎えた2008年当時、時代は「日本の繊維産地を揺るがした2000年代の危機」の真っ只中。アパレルブランドが商社を介して国内の機屋(はたや)へ発注する従来の流れは激減し、商習慣が変わったことに追いつけない工場が次々と廃業に追い込まれていく状況でした。
開館からしばらくの間、山田さんも届いた生地を整理し、ハンガーを作り続ける地道な作業に終始することが多かったそう。それでも、高品質の日本製を求めるデザイナーが途絶えたわけではありません。
「デザイナーが足を運んでくれるきっかけを作ってくれたのは、宮前義之(みやまえ よしゆき)さん※。彼が口コミで評判を広めてくれたおかげで、マメ クロゴウチ(Mame Kurogouchi)の黒河内真衣子(くろごうち まいこ)さんやターク(TAAKK)の森川拓野(もりかわ たくや)さんなど、イッセイミヤケ出身のデザイナーたちが次々とここを訪れるようになった」と岩田さん。
大型展示会が主に効率的な発注の場として機能していたのに対し、独自のクリエイティビティを追求する新世代のデザイナーたちが求めていたのは、作り手とのより密なコミュニケーションでした。その受け皿として、マテセンの機能性が合致したのです。
※MIYAKE DESIGN STUDIO デザインディレクター
🖊️豆知識
ちょっと前に作られた生地が面白い
日本の産地の規模が最も大きかったのは1990年代。規模に応じて開発された素材も多く、新たに面白いものを生み出そうとするエネルギーも高かったとか。





山田さん
宮前さんも「ちょっと前に作られた素材に面白いものがある」と言っていましたね。ここを訪れるデザイナーさんたちの目に留まるのも、やはりその年代の生地が多い気がします。最近の生地なら今の展示会でも見られますから。この頃のものが一周回って、目新しく映るのでしょうね。
“ようやく面白いものが作れるようになってきた”若手デザイナーに刺激された価値観
かつての産地では、機屋がブランドと直接取引を行うことは困難でした。しかし、商社からの仕事だけで生計を立てることができなくなると、デザイナーと直接対話して仕事を受け付ける選択をする機屋も増えてきました。構造の変化は一見すると厳しい試練のようでしたが、機屋のものづくりに肯定的な側面ももたらしました。百貨店をはじめとする実店舗での販路が主軸だった時代に強制されていた「一律の物性(ぶっせい/強度や規格)のクリア」という制約から解放され、デザイナーの要望に対して自身のアイデアをぶつけることが可能になったのです。
同時に、デザイナー側のビジネスモデルも変革期を迎えていました。百貨店やセレクトショップといった実店舗主体の展開から、自社のオンラインストアやSNSを活用してファンを拡大していくダイレクトな手法への移行です。
これにより、特に若手デザイナーの間では「ブランドの個性を追求すること」が最優先事項に。それに呼応するように、機屋側もこれまでの時代の中で封じ込められたものづくりの楽しさを取り戻し、唯一無二の独創的な生地を生み出せるようになったのです。
📖取材余話
40年のものづくりの腕を頼ってくれる喜び
マテセンの開館当初、徒歩5分ほどの自身の会社から山田さんをサポートしていた岩田さん。しかし、デザイナーの専門的な質問に応え、産地の機屋をつなぐうちに「それならいっそ」と自らセンターへの常駐を決めました。


岩田さん
コストを抑えて一発で理想の生地を作って欲しいという要求は、非常にハードルが高く、機屋泣かせ。でも、「あと何年やれるかな」と思っていたところに自分の40年の腕を頼って「新しいものを作ってほしい」と飛び込んで来られたら、やっぱりやりたくなる。そんな根源的な楽しみがあるからこそ、高い要求でも断らずに受け続けています。
ファッションをやめた産地は廃れていく
デザイナーと直接対話しながら進めるものづくりは、機屋にとって大きな刺激となります。しかしその一方で、イメージを具現化するまでには、職人の技術とクリエイティブなセンスの均衡を保つという難度の高いハードルが存在します。デザイナーが強いこだわりと明確な意志を持って依頼してくるのに対し、一発で正解を叩き出せることは稀です。それでも要望を形にするまで、度重なる試作と修正に粘り強く付き合い続ける、いわば職人側の体力が試される現場でもあります。
さらに、デザイナーからの別注は、発注量が少ない所謂「小ロット」の案件が大部分を占めます。定番生地であればシーズンごとに安定した発注が見込めますが、トレンドに合わせて毎シーズン生地を新調することも少なくありません。大手アパレルの大量生産と比較すれば、ビジネスとしては採算ラインの瀬戸際であり、受注したからといって一気に会社が潤うという規模感ではないのです。産地を存続させるには、他の部門の工場も動かさないといけないため、量産の仕事にも対応しながら、体力が削られる別注にも対応しているという事実も忘れてはいけません。
それでもなお、彼らがデザイナーに向き合い続ける理由があります。「産地の高齢化や環境問題など、さまざまなアゲンスト(逆風)は吹いているけど、開発力や技術力がまだ残っていて、それに応えることに喜びを感じる作り手がいる。その事実自体が大切」という山田さんの言葉通り、ファッションというクリエイティブな仕事から切り離された産地は、次第に創造力を養う機会を失っていきます。単なる下請けの製造工場と化すれば、市場のニーズが変化した途端に廃業の波に飲み込まれてしまうからです。
📖取材余話
世界で評価されてるのは“過去の価値観では絶対に生まれなかった生地”
新しいシーズンが始まる頃になると、マテセンには若手デザイナーがインスピレーションの種を探すために訪れます。岩田さんは「彼らの作る服の生地は、以前の産地の在り方とは正反対のコミュニケーションで生まれている」と語ります。

岩田さん
「作るとしたら物性は悪いよ」って伝えることが増えている。「ものすごい糸が飛んでるから滑脱とかスリップとかするけどいいの?」って聞いたら「大丈夫です、裏から布当てます」とか、「縫製の時に注意して縫うように伝えます」とか言われるもん。面白さを全面に出して、物性は二の次でいいって言うデザイナーもたくさんいます。だからできてくるものが非常に面白い。特に、「ターク(TAAKK)」とか「シンヤコヅカ(SHINYAKOZUKA)」の生地なんて過去の価値観じゃ絶対に作れなかった。彼らが海外で展示会をやると、「こんな生地を作れるなんて日本人はクレイジーだ」って反応をもらえるらしいですね。
デザイナーの支援によって示される産地の底力
連載の第2回「尾州から世界の名門になった山栄毛織について」でも取り上げましたが、日本の産地は他国に比べて非常に柔軟に開発をする傾向にあります。一方で、前述の通り一人のデザイナーに時間をかけて細かい要望に応えても、目先の利益は決して大きくはありません。しかし、困難な課題を前にすると職人として探究心をくすぐられる、そんな姿勢が日本の機屋には根付いています。
そしてこうした姿勢は、デザイナーが世界へ進出する際の大きなバックボーンになるのです。山田さんは「手前味噌かもしれませんが『こんなに細かく作ってくれる産地が日本以外にあるのか!?』と思うもの。そういう産地を背負って世界に出る日本のデザイナーは非常に恵まれていると感じます」と語ります。

かつての機屋にとって販路開拓といえば生地の展示会に出展することでしたが、現在は若い才能を育成し、彼らがデザイナーとなって日本の技術を用いた服で世界へ出てその力を示してくれることが新たな販路開拓へとつながっています。デザイナーを支援することが、結果的に産地の存続を重視する機屋にも利益として還ってくるのです。
🖊️豆知識
“尾州からアルマーニを育てる”産地に30年前からあった価値観
2025年9月、91歳でこの世を去った“モードの帝王”ことジョルジオ・アルマーニ(Giorgio Armani)氏。彼が登場した1970年代、フォーマルウェアの基準はイギリスに代表される芯地や肩パッドを入れた“硬い服”でした。しかし、アルマーニ氏は「人間の身体は美しい」という哲学のもと、重さや硬さを取り払い、生地が身体に沿ってしなやかに落ちる服を発表。当時のファッション業界に革命をもたらしました。
特筆すべきは、この柔らかさを可能にしたのが彼の母国であるイタリアのしなやかで上質なウールだったということ。それまでのイタリアは質の高い生地を作れても、フランスの有名ブランドへ供給する下請けのような立ち位置に甘んじていました。しかし、アルマーニ氏が地元の生地を生かして世界的なトレンドを作ったことで、イタリアは単なる生地産地から、フランスに匹敵するファッションの発信地へと躍進したのです。

尾州テキスタイルデザイナー協会主催の素材展「200人展」のパンフレットより
Image by: 岐阜県毛織工業協同組合

山田さん
岩田元理事長が尾州テキスタイルデザイナー協会を作った1993年、当時のキャッチフレーズは「尾州からアルマーニを育てる」でした。デザイナーを支援し、共に世界に出ることが結果として繊維産地そのものを押し上げることになるという価値観が30年以上前、すでにこの地には根付いていたのです。
まとめ
日本の繊維産地を襲った幾多の困難。一時は消費者の視界から遠ざかってしまったように見えた産地ですが、長年の歴史の中で培われた確固たる技術基盤や、高い開発力までもが廃れたわけではありません。むしろ、その圧倒的なクオリティを求めて、海外のトップメゾンも日本へ足を運ぶ時代です。世界で活躍する日本人デザイナーたちが証明しているのは、日本の産地が本来持っていた「世界水準の価値」が真っ当に再評価されている事実に他なりません。
そしてこの価値を最前線で支えているのが機屋です。彼らは単なる製造業者ではなく、複雑な織りのプログラミングを組み、デザイナーの抽象的なイメージを緻密な生地へと昇華させる「テキスタイルデザイナー」でもあります。
かつての商社主導の時代、機屋は裏方に徹していました。岩田さんは自身の45年にわたるキャリアを振り返りこう語ります。
「昔は相手がどんなに若くてもデザイナーであれば『先生』と呼んでいた。機屋は完全な黒子であり、表に出ることは御法度。しかしそんな時代も過ぎました。互いがプロフェッショナルとして同列になり、デザイナーと組んでパリコレを目指すことだってできる。むしろ、デザイナー側から『どうか作ってほしい』とお願いされることすらある。そして無理ならこちらからそれを断ることだってできる。そうした立場的な変化を肌で感じています」。


商習慣の変化は産地に痛みをもたらしましたが、結果として機屋がクリエイターとしての知恵と個性を存分に発揮できる環境を作り上げました。2026年現在、産地の中核を担っているのは、1990年代の活況を知り、その後の長く厳しい冬の時代を乗り越えてきたベテラン職人。彼らが決して諦めず、日本のものづくりの魂を守り抜いてきたからこそ、今の産地の評価があることを忘れてはなりません。
彼らのバトンを受け継ぎ、これからの産地を発展させていくための鍵。それは、ただ技術を教え込むことではなく、デザイナーと肩を並べて世界と対峙する「テキスタイルデザイナー」という仕事の社会的地位を向上させ、次世代を担う若者たちへ誇りとやりがいを真っ直ぐに伝えていくことではないでしょうか。
実際、マテセンでは2021年、次世代の産地を担う人材を育てるために「マテセンスクール」を発足。尾州産地の繊維関係の企業で働く若手従業員を対象にテキスタイルデザイナーの育成を図っています。講師は岩田さん。繊維産地への就職を志す学生にも対象を広げ、若手の人材を産地に送り込むことに成功しています。日々の絶え間ない来客対応に追われる中で、未来のための種まきを続けるお二人の情熱と献身には、ただただ敬服するばかりです。
そしてこの“テキスタイルデザイナーの育成”を企業のプログラムとして実行しているのが、次回の取材場所である中伝毛織(なかでんけおり)です。同社は工場内で生地作りの全工程を完結できるほどの規模を誇っている企業ですが、社内に営業とは別で「テキスタイルデザイナー」という役職を正式に設け、若者が産地へ参入するための新たな間口を広げています。
次回の連載にも是非ご期待ください。
おまけ
マテセンには現在も、年間2000点以上の生地が集まります。その収蔵力は非常に高く、和歌山の老舗テキスタイルメーカー 妙中パイル織物株式会社の会長には「今は作っていない生地が展示されてる。会社でももう保管していないのにありがとう」と感謝されたのだとか。テキスタイルのほかにもマテリアルや、1800年代にフランスで作られた生地見本まで揃っており、1日では見きれないほどの量です。




photographer: Yujiro Ichioka/editor: Naru Kamoshita(FASHIONSNAP)
最終更新日:
ADVERTISING
PAST ARTICLES
【服と産地の解体新書】の過去記事
RANKING TOP 10
アクセスランキング

西武池袋本店入居ビルに「ヨドバシカメラ」がオープン 関東最大級

UNDERCOVER -Men's- 2027 Pre Spring Mens Collection

BALENCIAGA 2027 Spring Collection












