正直に言えば、常に新しさが求め続けられるファッション業界で昨シーズンを超えることが義務付けられた「ケイスケヨシダ(KEISUKEYOSHIDA)」の次の一手はいかなるものか、と勝手ながら煩慮していた。そのため、シーズンから少し外れた時期に展示会を行い、フィジカルショー形式ではなく、ルックのみで新作を発表する吉田にはどのような狙いがあるのだろうか、と勘案していたのだ。
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話は横道に逸れるが、日本の生物学者に今西錦司という人物がいる。彼は登山家・探検家としての肩書も持ち、生涯をかけて多くの山を完登した。今西は、なぜ山に登るのかという問いに「山に登るとその頂上からしか見えない景色があって、そこに次の山が見える。山に登らなければ、次の山は見えない」という金言を残した。効率的に一本道を歩む方法もあるが、寄り道をしながら曲線的に歩みを進めることでしか得られない風景もある、と今西は我々に語りかける。
吉田圭佑は、2024年春夏コレクションを「自分から始まったものを、早い段階で手放し、遠くに投げることを大事に作った」と振り返る。端的に言えば「力みすぎない」という言葉に終始するが、「力を抜く」と「力を入れない」では同じようで全く意味合いは変わる。一度、山頂に到達した人にとっては「力を抜く」ことになり得ることも、山頂を知らぬ人が行えばそれは、ただ力を入れていない「不足」を意味しかねない。もちろんそこには、作り手のニュアンスの違いもあるし、見る側の意識も介入するだろう。今回のケイスケヨシダで言えば、あの昨シーズン(山頂)があるからこそ、早い段階で手放すことが成り立つと感じた。
実際に発表されたルックは、ブランドとして初めてパリで撮影されたものだった。昨シーズンから引き続き、スタイリストには「バレンシアガ(BALENCIAGA)」のキャンペーンを手掛けたことで知られるレオポルド・ドゥシェマン(Leopold Duchemin)を迎え、彼の周りにいるメンバーによって撮影が行われたという。つまり吉田は、ルック撮影の多くの要素をレオポルトらに委ねた。吉田は「今までは一から十まで自分が作ることに本質があると思っていたが、全てを自分で(それも海外で)ディレクションをすると『やってやった感』が出てしまうし、出したくなっちゃうから」と茶目っけたっぷりにその理由を話したが、半年間懸命に取り組んだアイテムが早い段階で解釈され、写真という新たな形で残っていくファッションデザイナーの心情は大きな不安が伴うものと推測する。しかし、その憂慮も取るに足らないもので、写真家 Christina Stolheの眼差しによって切り取られたルックは、せっかくの海外撮影だったのにもかかわらず、パリらしさは海外特有の硬質な自然光のみに留められており、無駄なものが完全に削ぎ落とされたことでブランドの普遍性だけ判然と残る。さながらグローバルブランドのような雰囲気さえ纏っているように感じた。ケイスケヨシダは、苦しみに眼差しを向け、そこにある毒のようなものに自分自身を見出したクリエイションを続けていたが、それらの毒をクリエイションをきっかけとした他者との関わりの中で減らそうと試みる。ケイスケヨシダというブランドの普遍性は「毒」ではなく、「吉田圭佑が作っている以上は『ケイスケヨシダ』である」と言わんばかりだ。
自分から始まったものを早い段階で手放すという感覚は、表現のアウトプットだけではなく、デザイン面でも見ることができる。
今シーズンのクリエイションは「幸せとはなんだろう」という漠然とした問いがきっかけだったそうだ。吉田はステイトメントの中で幸せを「何かを失う可能性を孕む『不安』と行き来することで初めて実感することができるもの」と結論づけている。単純に明るい側面だけを追わない、何とも吉田らしい解釈のように思う。「幸せ」と前述の「手放す」はいずれもアンコートロールで心許ない性質があり、その柔らかな生暖かさを、昨シーズンのミューズである少年Taikiが着ていたジャケットのブローチが外れ、胸元がはだけることで裏地が心細く露出したジャケットに見出すことから今シーズンの製作は始まったという。
今シーズン数多く登場する、ボディに着せつけたジャケットやコートの後ろ襟を立て、折り紙のように畳んだディテールや、内側に畳み込まれた前身頃は、首元やウエスト、肩周りの引き皺を生み出す。折り込まれたことで巾を失ったフロントを無理やり止めることで発現する皺は通常であれば美しくないとされているが、幸せと不安、厳格さとだらしなさ、冷たさと暖かさのように、装いの中で相反しながらも朧げでまろやかに混ざり合う要素として重要な役割を果たしている。一際目を引くベビーピンクも、単純な可愛らしさではなく、グレーがかったくすみを感じさせるのも意図的だろう。
吉田は「ウィメンズの服を作っているのに、ウィメンズへの苦手意識がとんでもなくあった」と明かし「自分と向き合ってものを作る中で、自分と切り離す瞬間が遅いと理想とする女性に近づけなかった」とその理由について語った。理解をしようと試みた結果、理解した時には既に自分自身や愛着に極めて近い存在になり、手放しがたくなることは日常的にも覚えのある感覚だ。今シーズン、「頭の中でぼんやりと思い浮かべた女性像と自分の距離感を少し遠ざける」ことができたのは、デザイナー自身が「吉田圭佑が作っている以上は『ケイスケヨシダ』である」という図太さを少しだけ手に入れたこと、そして、一度は山頂である「ぼんやりと思い浮かべていた女性」になったことがある吉田だから許される芸当だろう。ブランドとして初めてウェディングドレスのようなイブニングドレスを発表し、女性である筆者が純粋に「それを着てみたい」と思えたのは、作り手である吉田の成分が極めて少なく、着る人への余白が残されていたからに他ならない。
多くの作り手にとって、代表作となるようなパワーピースやコレクションの締めくくりになるようなアイテムは、「これさえあれば」と、納期が差し迫る中で安心材料として機能する。しかし現在の吉田の眼差しはもっと遠くにあるものと思わざるを得ない。他ならない自分で作り上げるコレクション全体を俯瞰しながら、時に不安に押しつぶされそうになりながら「大丈夫だ」と思いながら製作を続けているのだろう。
かつて、ケイスケヨシダのショーのステイトメントに「コレクションとはデザイナーによる半年間による日記」と書いてあったのをよく覚えている。ファッションショーは、半年間で経た様々な感情を最後に爆発させるもので、それはそれで素晴らしい瞬間が観客を包む。一方で、ルックのみでの発表はおそらく半年間で起こったことを細やかに表現できる方法なのだ。華やかさはなく、レスポンスに遅延が起こることで生まれる不安を孕みながらも、だからこそ得られる幸福がそこにあると信じて。
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