
浜崎あゆみや松任谷由実などこれまで多くの著名人のポートレートを手がけてきたシンガポール出身の写真家LESLIE KEE(レスリー・キー)。昨年には逮捕も経験したが、逮捕後も自費出版誌「SUPER」シリーズの他、ドラマや映画、マガジンを手がけるなど多忙を極めている。苦難を乗り越えなおバイタリティ溢れる作品を撮り続けるフォトグラファーの原動力とは?
■苦難を乗り越えてきた幼少期
―今はとても明るい性格にみえるが、幼少期は人と喋るのも苦手だったとか。
シンガポールでシングルマザーの家庭で育ちました。でも母は仕事に出ていたので、祖母と過ごすことが多かったですね。周りの友達はみんな両親がいて、「夏休みを使って旅行に行った」などとよく自慢されていました。自分の写真や家族の写真も持っていなかったり、みんなとの共通点が少なかったことでうまくコミュニティに属することができず、人と話すことが苦手な幼少期でした。
―グレたりはしなかった?
自分で言うのもなんですが、私は感謝の気持ちを重んじるタイプの人間。母は確かに完璧な家族は作ってくれませんでしたが、一生懸命働いて私の学費を払ってくれましたし、祖母も一生懸命育ててくれたのでとても感謝しています。確かにまわりと比べたら足りない物もあるかもしれませんが、私にはそれだけで充分でした。
―そうした環境で育ち、なぜカメラに興味を?
こういった家庭環境ですから贅沢はできないわけで、私は1歳から13歳まで自分の写真を一枚しか持っていませんでした。持っていたのは、確か12歳のときに写真館で撮影した一枚だけです。妹も子供の時から写真がなく、私のように写真が一枚しかないような人間になって欲しくないと思ったため、中学生になる13歳の時に母からカメラを買ってもらいました。それで、妹の写真をたくさん撮ってあげましたね。ですが、喜んでいたのも束の間で、買ってもらった4ヶ月後に母が39歳の若さで急逝してしまいました。しばらく何にもする気が起きませんでしたが、母がプレゼントしてくれたカメラで人と関われる人間になろうと決意して、私の周りの友達、学生、同級生、アルバイト先の知り合いみんなの写真を撮るようになりました。それからずっと人を撮っています。
■フォトグラファーになった理由
―何故日本に?
母が亡くなった後、孤児院に移されることになりました。孤児院で生活した13歳から19歳の6年半、毎週金、土、日曜日はシンガポールにある日本の工場で働いていたのですが、そこで初めて日本のドラマや雑誌、アニメを見て、日本のご飯を食べて、日本の音楽を聞きました。その中でもユーミンの曲が大好きになって、「いつかユーミンと会いたい」と思ったことが日本に来たきっかけです。それからは、自分にたくさん友達を作ってくれたカメラを仕事にしたいと考え、日本でカメラマンになろうと決めました。
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