「裏原系」がストリートファッションを席巻していた時代が過ぎて約10年。激しく移り変わる原宿を起点にゼロから独自のビジネスを育て、東京を代表するメンズブランドにまで押し上げたのが、ソフ(SOPH.)代表の清永浩文と、ネイバーフッド(NEIGHBORHOOD)代表の滝沢伸介だ。共に1967年生まれの同世代。多くのブランドが生まれては消えていった超競争を勝ち抜いた2人に、当時と今を語ってもらった。

―お二人は年が同じで、滝沢さんは1994年、清永さんは1998年に独立。いずれも原宿からスタートしていますね。お互いに意識はしていますか?
ネイバーフッド 滝沢伸介:元々、周りに同世代は少なかったんだけど、今でも現役でやっている人は更に少なくなっているね。
ソフ 清永浩文:僕らは前のオフィスが近所で共通知人も多かったけど、実際あまり会っていなかったかも。共通点は、サラリーマン出身てことかな。だからなのかシンちゃん(滝沢)は社会性があって、ビジネスをちゃんとやっているという印象はあった。
滝沢:清永くんもキチッとしているけど、僕にないものを持ってる。クリエイティブな部分だったり、ビジネス的な部分も。そういったところは刺激になっているな。
―どんなファッション遍歴を辿ってきましたか?
清永:僕は中学校後半〜高校からで、DCブームの前半だったから「コム デ ギャルソン オム」や「メンズビギ」が人気だった時代。ヨーロッパのカジュアルなウェアも興味あったけど、一言でいうと「ポパイ世代」だね。
滝沢:そうそう。IDとかフェイスとかも見て面白いなとは思ったんだけど、やっぱりクリエイティブだなと感化されたのは「ポパイ」の山本康一郎くんのスタイリングだな。あと、雑誌で見て一番衝撃的だったのは、藤原ヒロシくんと中西俊夫さんがセディショナリーズを着ていた写真で、今でも覚えてる。
清永:僕は九州の大分で育ったし、ポパイとかアンアンを黙々と見るしかなかったんだよ。あとは宝島とか。
滝沢:まず僕はロンドンのファッションから入って、古着も好きだったり。これまで見てきたものや通ってきた道は、きっと今のネイバーフッドの基盤になっていると思う。
SOPH.代表の清永浩文
■ブランドは喰うための手段、ダメだったら消える
―服を作る勉強はされていましたか?
清永:僕はそういう学校は行ってないけど、アパレル会社にいたから実践で。
滝沢:実は僕、少しだけバンタンデザイン研究所に行ってたんだよね。でも、最初に作るのがタイトスカートで、パターンを引いて縫うところまではいったんだけど、そこでなぜか退学しちゃったから学んでたとは言い難いな(笑)。
―では、サラリーマンから独立してブランドを立ち上げる時、お金を貯めたり何か準備はしましたか?
滝沢:一応貯蓄をしたはしたけど、本当に笑っちゃうような金額だった。
清永:僕のサラリーマン時代はお金がなくて、お金がないからブランドを始めたようなもの。当時はファッションヴィクティムで服をたくさん買いつつ、飲み会という夜の授業料もあったし、キャッシングの人生だったから(笑)。それを改善するために自分で始めたんだけど、「ダメだったら消える」というくらい切羽詰まってたな。
滝沢:遊びの延長みたいなスタンスだったけど、意外と大人っぽく真面目にやってたとは思うよ。
清永:きっかけが食うための手段だったから、「作りたい」というよりは「これで食っていく」という気持ちが強かった。でも最初はお金なくて多く作れないでしょ。パターン代が浮くニットとカットソーばかりで、サンプル費は本生産と一緒に精算してください〜って頼み込んで。
滝沢:日本だとオーナーデザイナーが多いし、当時も今も、クリエイターに出資しようというパトロンみたいなこともないから、お金はないよね。
清永:「ブランド始めます」って、わりと豪華にやる人もいるけど、よくお金あるなーって(笑)。キャッシュオンといういい時代があったから、なんとかお金を回せたけど。もし今の時代だったら、僕はたぶん消えてるな(笑)。
NEIGHBORHOOD代表の滝沢伸介
―ブランドがデビューした時代は裏原ブームの真っ只中でしたね。
清永:僕が立ち上げた1998年は、まさに絶頂の時。でも、自分でやるなら違う方向をやろうと考えてた。
滝沢:すごいブームだったけど、特に浮かれることもなく、独自のマーケティングをしている方が面白いという考えだったな。あくまでもマイペース。トレンドは大事かもしれないけど、僕は一番「安定感」が大事だから。
清永:たぶん僕らはブランドのイメージをブラさなかったから、ここまでやってこれたのかもしれないね。でも、やっぱりリーマンショックの時は厳しかったわ。
滝沢:あの時、アパレルはどこも資金繰りで困ってたね。うちもきつかったけど、なんとか乗り越えたからこそ、今があるんだと思う。