
ビューティ業界で注目を集めるトップランナーとして走り続ける人たちの、幼少期から現在までをひも解く連載「美を伝える人」。企業編の第10回は、2022年に韓国発スキンケアブランド「タリダクム(Talitha Koum)」を立ち上げたチェ・ムンソン氏。韓国産白たんぽぽとの出合いから、皮膚疾患と向き合えるようになったというムンソン氏の、韓国財閥の娘として生まれ育ち、音楽の道に没頭していた幼少期から知られざる起業当初の秘話まで。そのキャリアに迫ります。
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財閥家出身 声楽の道へ
⎯⎯財閥家出身ならではのエピソードはありますか?
意外に思われるかもしれませんが、幼少期はごく平凡なものでした。ただ、家族からは、仕事や人に向き合う姿勢を学んだと思います。
父方の祖母は、女性経営者が少なかった時代に自ら起業し、「女性だからといって、決して気後れしてはいけない」と教えてもらいました。また両親からは、謙虚さや相手を思いやる姿勢を、言葉ではなく日々の生き方を通して学びました。そのため、何をするにしても、家族の名前に恥じない人間でありたいという気持ちは、幼い頃からあったように思います。
⎯⎯両親から受け継いだ考え方で、特に印象に残っていることは?
父は、お客さまが怒っている場面でも、まず頭を下げていました。たとえ自分に非がないように見えるときでも、「数えきれない会社の中から私たちを選んでくださったのだから、感謝しなければいけない」と言っていたんです。私にも、「自惚れず、自分自身を振り返りなさい」と教えていました。会社を運営する今、その言葉の難しさと大切さを実感しています。自分は間違っていないと思うときこそ、まず自分に見落としがなかったかを考えるようになりました。
母は、いつも家族を第一に考える人でした。両親の姿を見ながら、誰かに責任を持つとは、良いものを与えるだけでなく、見えないところまで相手を思いやることなのだと学びました。
⎯⎯幼いころからビューティやファッションの世界を志していたのですか?
ファッションや美しいものには自然と興味がありましたが、小学校高学年の頃から声楽を始め、その練習に打ち込む毎日を送っていたんです。その背景には、祖母が夢見ていた声楽への挑戦の話を、幼心に心に響いていて、引き継いだのだと思います。
「震えない人」ではなく、「震えてもやり遂げる人」に
⎯⎯ では声楽の道に進んだのですね。
そうですね。韓国・ソウルの名門芸術校「イェウォン学校」などを経て、米国屈指の名門大学「マンハッタン音楽学校」に入学しました。声楽はとても誠実な分野だと思います。一朝一夕で上達するものではなく、本当にごく小さな違いを、毎日こつこつと訓練し続けなければなりませんから。

NY時代のチェ・ムンソン氏
⎯⎯声楽での印象に残っているエピソードはありますか?
舞台であまりにも緊張しすぎて、1曲で同じ小節を2度歌ってしまったことがあります。頭の中が真っ白になり、自分が何を歌っているのかも分からないほど震えていました。
その経験は、私の中に強く残りました。それ以降、私は「震えない人になろう」ではなく、「どんなに震えても、やり遂げられる人になろう」と考えるようになりました。それからは、舞台で緊張しても歌を続けられるように、体が覚えるまで練習しました。「ここで震えたら、この技巧を入れよう」と、あらかじめ決めておくこともありました。私は、足りない部分があれば練習を繰り返して自分のものにしていくスタイルだったからです。けれど今振り返ると、当時は物足りないと思っていたその特性が、今の私をつくった部分だとも言えます。
夢を手放し、別の道に進む勇気を得る
⎯⎯ そこまで極めていたということは、声楽で将来を描いていたのですね。
大学を卒業するまで、ほとんど私の人生のすべてを音楽とともに過ごしました。ニューヨークで学んでいた当時の夢は、いつかメトロポリタン・オペラハウスの舞台で歌うことでした。当時はまさか、自分が将来、化粧品会社を立ち上げることになるなんて、想像もしていませんでしたね。
卒業し、プロの世界へ出る時期になって初めて、自分の声を現実的に見つめることになりました。私は高い音域や技巧の表現には長所がありましたが、相対的に細く軽い声を持っていました。大きな舞台で歌いながら、自分の声がホールのいちばん後ろまで届いていないことを感じてしまって。周囲の音楽家や専門家たちからも、同じような評価を受けたんです。
⎯⎯大きな挫折ですね。
夢見ていた場所はメトロポリタン・オペラハウスでしたから、衝撃は大きかったです。そして周囲には本当に優れた声楽家が多かった。中学から大学まで一緒に過ごしたイム・ヒョンジュは12歳でポペラ・テナーとしてデビューし、2003年にはカーネギーホールで男性声楽家として史上最年少の独唱会を開きました。
彼らを見ながら、初めて冷静に考えたんです。長いあいだ、私の名前の前には「声楽をするチェ・ムンソン」という説明がついていましたし、それを手放すことは、進路を諦める以上に、アイデンティティに関わることで、プライドもずいぶんと傷つきました。
⎯⎯そこからどう気持ちを切り替えていったのでしょうか?
それでも、当時は何もできずに長期間立ち止まったわけではありません。「これからは、私が声楽をしていたことを人が知らないくらい、まったく別の分野でうまくやってみたい」という気持ちが強かったのです。
今振り返ると、音楽に捧げた時間も、その夢を手放した経験も、私にはとても大切なものでした。1つの道を長く歩んだからといって、必ずしもその道を最後まで歩まなければならないわけではない。自分の限界を認めることは諦めではなく、別の道に歩む勇気になり得るということを、その時に学びました。
⎯⎯声楽の経験が、現在の仕事に活きていると感じることはありますか?
細部へのこだわりは、音楽の道で学んだものだと思います。声楽では、息遣い、発音、音色といった要素を一つひとつ反復し、作品として磨き上げていきます。完璧を目指す終わりがない作業なので、声楽をやっていた頃、一度も自分に満足したことがありません。
実は、化粧品をつくるプロセスも、これによく似ています。1つの処方をつくるために、ほんのわずかな違いを何十回、何百回と確認し、理想の領域に達するまで試作を繰り返す。そんな妥協しない姿勢は、きっと声楽で培われたのだと思います。今でも商品開発は、社員が根負けしそうになるほど細かな違いにこだわり続けてしまいます(笑)。

Image by: FASHIONSNAP
セカンドキャリアで学んだこと
⎯⎯卒業後は、韓国の乳製品メーカー「毎日乳業」に入社されました。
大学時代を過ごしたニューヨークでは、食べ物や人々が集まる社交の場に触れる機会が多く、レストラン文化、ひいては食に興味を持つようになりました。音楽も食べ物も、人を喜ばせたり、気持ちを和らげたりするものという意味で近く、そうした部分に惹かれたのかもしれません。
毎日乳業では、インターンを経て、R&D部門で約2年半勤務しました。研究室だけでなく、レストランや飲食店の現場にも入る中で強く学んだのは、「現場を知らなければ、きちんとしたモノはつくれない」ということです。オフィスで考えたアイデアと、実際にお客さまへ提供されるものの間には、しばしば開きがあります。どれほど良いアイデアでも現場で実現できなければ意味がなく、反対に現場だけを見ていると、ブランドが目指す基準を見失うこともある。その両方を見ながら調整することの大切さを学びました。
⎯⎯このほか当時の経験で、現在の仕事に活きていることはありますか。
商品がお客さまに届くまでには、原材料や製法、使われる環境など、目に見えない多くの選択があるということです。メニュー開発でも、材料を1つ変えたときに味や品質がどう変わるのか、細かく確認していました。どの卵黄を使うのかまで悩んだことを覚えています。化粧品も同じです。原料、処方、使用感、容器や副資材まで、無数の小さな判断が完成した製品をつくります。研究室で良いものをつくるだけでなく、お客さまが実際にどう使うのかを見ることも大切です。毎日乳業で学んだ、小さな選択にまで責任を持つ姿勢は、今のタリダクムにもつながっています。

毎日乳業時代のチェ・ムンソン氏
白いタンポポが起業のきっかけに
⎯⎯その後、ブランドをスタートさせるまでの経緯を教えてください。
すべては、私自身の肌の悩みに遡ります。私は長年、皮膚疾患に悩まされてきました。肌に傷ができてもなかなか治らず、病院にも何度も通いましたが、一般的に良いとされる治療法が、必ずしも自分の肌に合うとは限りませんでした。妊娠を機に、10代前半から服用していた薬をやめた時期があり、その後、症状が悪化しました。「この先も薬に頼り続けてよいのか」「自分の肌に本当に必要なものは何なのか」と考えるようになったんです。
そんな時に母から勧められたのが白いタンポポです。
⎯⎯白いタンポポですか?
実は白いタンポポは、韓国では古くから漢方に用いられてきた植物なんです。最初は半信半疑でしたが、白いタンポポを浮かべたお茶を飲み続けるうちに、肌の状態が少しずつ変わっていったように感じました。
その可能性を確かめたいと思い、研究を始めました。そして白いタンポポが、肌がタンパク質であるフィラグリンをつくる働きを助ける可能性があることを発見したとき、「これは次のシカのような成分になる」と思いました。同時に「これで化粧品をつくらなければならない」と使命を覚えたんです。
⎯⎯起業をすることに、迷いはありませんでしたか?
もちろん、迷いはありました。祖母と父を見ながら育ったので、事業の難しさも見てきましたし、何事も完璧にやりたいという性格から、踏み出すことへの恐れもあったと思います。
それでも、肌が本当に痛く、どうしても必要だったんです。そして何より、私の疾患は遺伝性があります。生まれてきた息子や娘たちに、同じ思いをさせたくなかった。その思いから、決心がつきました。

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⎯⎯事業を始めたときのご家族の反応は?
父からは、「事業というのは、99.9%が失敗するものだ」と言われました。当時は冷たく感じましたが、今思えば、私につらい思いをしてほしくないという父なりの愛情だったのだと思います。それでも最後には、「始めたからには、最善を尽くしなさい」と背中を押してくれました。
もちろん、自分が何を成し遂げても「財閥の娘だからできたのだろう」と世間から思われることも覚悟していました。ですが、タリダクムは、家族の事業とは一切関係のない、私個人の挑戦です。だからこそ、自分の名前と結果で実力を証明したいという強い思いがあります。
⎯⎯ブランドに込めた想いとコンセプトは?
ブランド名には、ヘブライ語で「幼き者よ立ち上がれ」という意味を込めました。コンセプトは、「肌の内部に本来眠っている力を呼び覚ますこと」を掲げています。というのも、私たちは単なる「敏感肌用化粧品」を目指したわけではありません。 作りたかったのは、“敏感な肌”を「弱点」として捉えないスキンケアでした。
敏感肌の人は、効果や使い心地のどれかを諦めなければならないことが多いと感じています。私たちは、安心して使えることはもちろん、香りやテクスチャーも含めて、何かを諦めずに済む製品をつくりたいと考えました。肌本来の力とは、肌が自ら整い回復していく力のことです。刺激の強い成分で一度に変えようとするのではなく、その力を少しずつ育てていく。自然由来の原料とバイオテクノロジーを組み合わせながら、それを実現するのがタリダクムの目指すところです。

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工場はドタキャン 名刺も無い状態からのスタート
⎯⎯ブランドを始めた当初について教えてください。
当初は名刺もなく、何もかも一人で始めたため、苦労の連続でした。白いタンポポの研究のために仁川の工場を訪ねた際も、約束していたにもかかわらず、先方が来なかったことがあります。「資金はあるのか」「本当にできるのか」と聞かれることもありました。
原料の研究から化粧品への応用、特許取得、製品登録までを一貫して行うのは、通常は大企業が手がける仕事です。小さな会社がゼロから取り組むには大きな困難がありましたが、知人の紹介を通じて研究者や研究所と出会うことができました。コロナ禍に開発を始め、約3年をかけて製品化に至りました。
⎯⎯製品化後は、どのように販路を広げたのでしょうか?
当時、韓国にあった化粧品小売店の「セフォラ(SEPHORA)」が、質のよい韓国製品を公募で探していました。応募したところ、採用され取り扱いが始まりました(※2024年にセフォラは韓国から撤退)。現在は、現代百貨店のB-Cleanやポップアップ、直営店、ECモール、Kurly(カーリー)、アメリカのセレクトショップなどで販売しています。
“敏感”さは弱さじゃない
⎯⎯ブランドで最も大切にしているものは何ですか?
最も大切にしているのは、製品の処方です。効果だけを追求するのではなく、肌や生活になじみ、無理なく使い続けられることを重視しています。環境保全を目指す考え方を取り入れ、声楽で一つの作品を仕上げるように、時間をかけて処方を設計しています。
主成分の白いタンポポは、開花が年に一度であるため、エキスの抽出だけでなく細胞培養技術も用い、品質のばらつきを抑えています。原料は韓国、中国、アメリカ、ヨーロッパで特許を取得していますが、こだわっているのは成分だけではありません。
⎯⎯というと?
化粧品は、成分の効果だけでなく、毎日の生活に無理なくなじむことが大切です。見た目や触感、使うときの心地よさまで含めて、商品の価値だと考えています。たとえば、容器にはガラスではなく再生プラスチック(PCR)を採用しました。持ち運びやすく、割れる心配も少ないためです。素材の選択も含め、使う人の体験全体を考えて設計しています。そうした姿勢は、PeTA認証、iFデザイン賞、レッドドット・デザイン賞にもつながりました。

⎯⎯ブランドのマーケティング戦略について教えてください。
短期間で話題をつくるよりも、静かに長く愛されることを目指しています。実際に使ったお客さまが納得し、必要な人へ自然に薦めてくださることが理想です。
過度な値引きや一時的な流行に頼らず、製品の考え方や使い心地を丁寧に伝えています。事業として成長することは必要ですが、最も大切なのは、本当に必要としている人に届けることです。
⎯⎯製品作りにつながっている原体験を教えてください。
私は14歳のときから、傷ができてもかさぶたができない難病を患っています。今も、身体には多くの傷があります。子どもの頃は、それが大きなコンプレックスでした。友人には病気のことを知られたくなくて、肌を見られないようにしていました。
声楽を専攻していたため、舞台ではドレスを着る必要がありました。しかし、傷が見えてしまえば、どれほど素敵なデザインでも着ることができません。袖の長さや素材、肌に触れたときの感覚を細かく確認しながら、着られるドレスを探していました。
こうした経験から、ほかの人が見落とす小さな違和感にも気づけるようになりました。硬さや手触り、テクスチャーなど、使う人が感じる細部まで考えられることは、自分にしかない強みだと思っています。かつてはコンプレックスだった敏感さが、今では製品づくりの原点になりました。

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⎯⎯“敏感さ”が強みになっているんですね。
敏感であることは、弱さではありません。だからこそ、敏感な肌を、決して恥ずかしがらないでほしい。悲しんだり、嫌な気分にならないでほしいと思います。私自身、長い間、自分の肌を恥ずかしく思い、傷を隠すことばかり考えていました。肌の状態に合わせた準備には時間がかかり、「なぜこんな苦労をしなければならないのだろう」と思うこともありました。
敏感であることは、日々を生きる上で大変なこともあります。けれど、その分だけ、気がつけることがあります。自分が経験してきた苦労や、悩み抜いた時間は、決して無駄ではありません。だから、自分の敏感な肌を恥じたり、憎んだりしないでほしい。かつては私のコンプレックスだった敏感さも、今では自分だけの力になりました。皆さんの敏感さも、いつかきっと大きな強みになると信じています。
⎯⎯ブランドの今後の展望を教えてください。
タリダクムを、特定の国や一時的なトレンドに左右されず、年月が経っても深く信頼されるグローバルブランドに育てることが目標です。アメリカや日本をはじめ、より多くの市場でブランドの哲学を正しく伝えていきたいと考えています。
スピードや生産量を優先するのではなく、十分な研究と検証を重ね、長く愛される製品をつくっていきたい。10年、20年後に、「私はタリダクムしか使わない」と自然に言ってもらえるブランドが理想です。家族や友人から、大切な人へ静かに薦めてもらえる存在を目指しています。タリダクムは、単に化粧品を販売するためのブランドではなく、「繊細であることは、決して弱さではない」という思いを、商品を通して伝えていくブランドでありたいと考えています。

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最終更新日:
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