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【連載:ゆるふわファッション講義】第10回 "ポケカブーム"から考える、服と「消費」の話

蘆田裕史編集佐々木エリカ

ゆるふわファッション論のトップ画像

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 「ゆるふわ大明神」の異名を持ち、長年京都を拠点に大学でファッション論を教える傍ら批評家・キュレーターとしても活動してきた京都精華大学デザイン学部教授の蘆田裕史氏が、「ファッション」や「ファッション論」について身近なものごとから考えるコラム連載。ファッション論の視点から映画「プラダを着た悪魔2」を紐解いた前回に続く第10回は、小学生男子のポケモンカードブームから考える、服と「消費」の話。

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終わりのない「消費」と満足を伴う「浪費」

 このところ、“ウルトラ・ファストファッション”に対して法の規制や世論による批判がなされることが多くなってきています。昨年、ウルトラ・ファストファッションと呼ばれる「シーイン(SHEIN)」がパリの百貨店「BHVマレ」に出店し、物議を醸したことがありました。開店当日に行列ができるほどの来店数があった一方で、抗議デモも起きるほどの騒ぎになるだけでなく、「アニエスベー(agnès b.)」をはじめ同店に出店していたブランドが次々に撤退する事態になったそうです。そしてつい先日、1年も経たずにシーインがBHVマレから撤退することが決まったと報じられました。

 フランスではウルトラ・ファストファッション⎯⎯わざわざ「ウルトラ」とつけるのは、「ザラ(ZARA)」や「H&M」は対象となっていないためです⎯⎯に対する風当たりがかなり強く、シーイン上陸の数ヶ月前にはウルトラ・ファストファッションブランドによる広告規制の法案も可決されています。ファストファッションのブランドは、しばしば「大量生産」と「大量消費」の要因となるという点で非難されます。ですが、ファストファッションのみならず、次々と新しい流行を作り出し、それを消費者に追いかけさせるファッション業界自体が、必要以上に服を作って消費させるという構造をとっていると言えるかもしれません。

 哲学者の國分功一郎さんは『暇と退屈の倫理学』において、この「消費」という概念を「浪費」と対比させながら説明をしています。消費というものは記号を受け取っているために終わることがなく、後者はモノを受け取っているために満足することができる、と*¹。たとえば、流行りの服を買うという行為は、「自分が流行に乗っている」という記号を手に入れているのであって、その服自体が気に入って買っているのではない、ということです。流行は次々に変わっていくので、流行遅れになった服には「流行している」という価値がなくなり、また新しい「流行の服」を買う必要が出てきます。つまり、消費は終わることがないのです。一方、浪費という行為は、服そのものを気に入って手に入れることであって、その服に満足することができるために、終わりがあります。そして國分さんは、消費ではなく浪費をしようと主張するのです。

暇と退屈の倫理学(新潮文庫)

暇と退屈の倫理学(新潮文庫)

著: 國分功一郎
ブランド: 新潮社
メーカー: 新潮社
発売日: 2021/12/23

 國分さんの論理はとても明快で説得力があり、このように考えると大量消費だけでなく消費という行為自体が問題をはらんでいると言うことができそうです。おそらく読者のみなさんのなかにも、「消費」という言葉にネガティブなニュアンスを感じ取っている人は多いのではないでしょうか。僕自身もそのように感じており、文章を書くときにも授業をするときにも、「消費者」という言葉をできるだけ使わないようにしたりしていました。けれども、この数年、ファッション論の授業をするために改めて消費について考えたところ、必ずしもネガティブなものではないように思い始めたのです。

*¹ 國分功一郎『暇と退屈の倫理学 増補新版』太田出版、2015年。

「ポケカ」と「ビックリマンシール」人気の理由はガチャ性?

 少し遠回りをしながら話をさせてください。僕には小学5年生の息子がいて、少し前まではしょっちゅうボンボンドロップシールを探しにコンビニやドンキ、文房具店を一緒にまわっていました。しばらくしてその熱が冷めたと思ったら、今度は「ポケモンカードゲーム(以下、ポケカ)」にはまり、ボンドロパトロールがポケカパトロールになったのです。

 僕が子どもの頃はポケモンというものがまだ生まれていなかったため、当然ポケカなんてものはありません。けれども、最近の小学生によるポケカの扱い(僕の息子だけでなく、ポケカが好きな小学生はかなり多そうです)を見ると、昭和生まれの僕としてはビックリマンシールと同じようなものなのかな、と思ってしまいます。

 ビックリマンシールとは、「ビックリマンチョコ」というお菓子(ウエハースチョコ)についてくるおまけのシールなのですが、これが1980年代に大流行し、社会現象にまでなりました。ただ小学生がシールを集めただけであればそこまで話題になることはなかったのかもしれませんが、お店でビックリマンチョコを買った後、本体であるはずのウエハースチョコを捨ててシールだけ持って帰る小学生が後を絶たなかったからです。

Image by: John Keeble/Getty Images

 これと同様のことが、ポケカに関しても起こっています。これはもしかしたらうちの子の周りだけなのかもしれませんが、ポケカを買う小学生はカードゲーム(対戦)を目的としているのではなく、レアなカードを手に入れることが目的になっているように思われます。実際、ポケカを買って開封しても、レアじゃないカードには見向きもしない⎯⎯いらないからと友達の家に置いていったりする⎯⎯という子どもを少なからず見るからです。要するに、単純にガチャのみを楽しんでいるということです。

 子どもたちのこうした行為は容認されうるものか、それともやめるべきものでしょうか。もし後者だとしたら、なぜ良くないとされるのでしょうか。これはファッションをめぐる大人の行動においても同様のことが言えそうです。もちろん、服を買うという行為にはガチャ性はあまりありませんが、「買ったけど全然着ないでタンスの肥やしになっている」ということはよくあるのではないでしょうか。そして、こうした行為の善悪について考えるためのヒントが「消費」という概念の定義にあるように思われます(また定義かよ!と思われるかもしれませんが!)。

大塚英志「物語消費」論から抜け落ちていた視点

 ビックリマンシールに関して、当時の小学生がなぜそれほどまでにはまったのかを批評家の大塚英志さんが分析する際に提示された、「物語消費」という有名な概念があります。ビックリマンシールは裏面にキャラクターや世界観を説明するような「物語」が数行書いてあったのですが、子どもたちはその「物語」を消費の対象としていた、というものです。

「物語消費論」集成 1989-2021

「物語消費論」集成 1989-2021

著: 大塚 英志
ブランド: KADOKAWA
メーカー: KADOKAWA
発売日: 2026/06/19

 1980年代以降、現在に至るまでサブカルチャー論や消費論の文脈でことあるごとに引用され続けているという事実に鑑みると、物語消費という概念にはおそらく一定の説得力があったのだと思われます。しかしながら、直観的には「小学生が本当にそんなに物語に惹かれていたのか?」という疑問が生じますし、僕自身、当事者としてそんなことを意識した記憶はありません。もちろん、意識していなかったけれども、無意識のうちに物語を求めていたということもありえるので、ひとりの当事者の記憶だけで否定できるものではありません。

 けれども、先ほど述べたとおり、昨今の小学生がポケカのガチャ性のみを楽しんでいることを踏まえると、ビックリマンシールもガチャ性が受けたのではないか、と思われます。もちろん、ポケカについても「小学生はちゃんと対戦を楽しんでいる」「ポケモンというキャラクターを受容している」という風に考えることもできるかもしれません。けれども、今小学生に人気のあるもうひとつのゲームを補助線として引いてみると、小学生がガチャ性を求めているということが裏づけられるのです。

「ブレインロットを盗む」⎯⎯純粋な“ガチャ”へと還元されたゲーム

 読者のみなさんは「イタリアンブレインロット」というものをご存知でしょうか。これは出所がいまひとつわからないものなのですが、生成AIによって作られる一連の謎のキャラクター群のことで、2025年にTikTokやYouTubeでミーム化され、小学生のあいだでバズっています。そして、これまた小学生に人気のロブロックス(Roblox)というゲームのプラットフォームがあるのですが、そこでイタリアンブレインロットのキャラクターを使った「ブレインロットを盗む(Steal a Brainrot)」というゲームが生まれました。

 このゲームのシステムはきわめて単純です。直線的なレーンにイタリアンブレインロットのキャラクターがランダムに流れてきて、それをゲーム内通貨で買うと、自分の陣地で所有することができるというものです。さらに、同じサーバー内に複数のプレイヤーが陣地を持っていて、他プレイヤーの陣地に侵入して、そのプレイヤーが持っているキャラクターを盗むこともできます。同じサーバーに入れば、友達の持っているキャラクターを盗むこともできるので、実際の人間関係に影響することもあるようです。

 「ブレインロットを盗む」にはふたつの要素があります。それは「ガチャ」と「盗む/盗まれるの駆け引き」です。しかしながら、このゲームを楽しむ小学生は後者を楽しんでいるのではないと断言できます。その理由を説明するためには、もう少しロブロックスのシステムについて説明をする必要があります。ロブロックスというプラットフォームは、課金をすることで、特定のゲームのプライベートサーバーを作ることができ、他プレイヤーの存在しないサーバーで、自分ひとりで遊ぶことができるのです。これまたうちの子の周りの話にはなるのですが、「ブレインロットを盗む」にはまっている小学生は、自分のプライベートサーバーを持ち、絶対に他プレイヤーに盗まれない環境でレアなキャラクターが出現することを待つのです。

 つまり、「盗む/盗まれるの駆け引き」という要素を排除して遊んでいるのです。理由としてはとても単純で、他プレイヤーがいるパブリックなサーバーだと、レアなキャラクターが出たとしても取り合いになり、自分のものにできる確率はきわめて低いからです。つまり、「ブレインロットを盗む」は、単純にガチャ性のみに還元されたゲームとして人気を博しているのです。このゲームにおいても、小学生にとってはポケカと同じく、どれだけレアなキャラクターを持っているかがステータスとなり、これまた背後の物語など不要なのです。

 ビックリマンチョコを買っていた小学生⎯⎯そして、ポケカを買う小学生⎯⎯は、「物語」を求めていたわけではなく単にガチャを楽しんでいたのではないか、というのが僕の主張ですが、もうひとつ重要な論点があります。結論を先取りするならば、それは、子どもたちがそもそも「消費」をしていないのではないか、というものです。

 おそらくこんなことを言うと、「いやいや、ポケカは商品なんだから、それをお店で買っている時点で消費しているではないか」という反論がすぐに来るでしょう。ただ、僕は「購入」と「消費」は異なる行為として考えるべきなのではないか、と思うのです。

そもそも「消費」=「購入」なのか?

 辞書を引いてみると、「消費」という言葉はこのように説明されています。

  1. 使ってなくすこと。金銭・物質・エネルギー・時間などについていう。「ガスを―する」「―電力」
  2. 人が欲望を満たすために、財貨・サービスを使うこと。「個人―」

『デジタル大辞泉』小学館 https://www.weblio.jp/content/消費(2026年6月26日閲覧)

 文化批評や経済学、社会学などで使われる「消費」は1の意味だと考えられます。一方で、僕が混乱してしまうのは、「パンの消費量」というような用法です。この表現は、一見するとさきほどの辞書の1の例文「ガスを消費する」と同じような意味で「パンを消費する」と言っているように思われます。「ガスを消費する」というのは、「ガスが使われてなくなる」ということで、「パンを消費する」というのも「パンが使われて(食べられて)なくなる」という意味と捉えられるからです。

 けれども、「パンの消費量」について解説をしているウェブサイトを見てみると、いつのまにか「パンがどれだけ食べられたか」ではなく、「どれだけパンを購入したか(=パンにお金を使ったか)」の話になっているのです。

 たしかにこれは当然と言えば当然なのかもしれません。パンの購入金額をデータとして取ることはできますが、購入されたパンがどれだけ食べられたかのデータを取るのは容易ではありません。パンを買ったけれども、おいしくないから残して捨てた、賞味期限が切れて捨てた、というようなこともありえるので。

 となると、やはり「消費」というのはイコール「購入」ということなのでしょうか。であれば、「パンの消費量」ではなく「パンの購入量」と言ってもよさそうです。それなのに、なぜ「消費」という言葉をわざわざ使うのでしょうか。

消費とは「買う」だけでなく「使う」こと⎯⎯クローゼットの服から考える

 そんなことを考えているさなか、消費について書かれた一冊の本を読みました。それは人類学者のダニエル・ミラーの『消費は何を変えるのか』という本で、ミラーは本書でこんな風に語っています。

消費の研究を始めた当初は、買い物のテーマは避けるようにしていました。消費を買い物の話にすぎないとしてしまうと、より重要なプロセスを無視することになると理論的な文章のなかでわたしは主張していたからです。わたしにとって消費とは、たんにモノを買うことではなく、購入した商品がその後どのように変容していくのかを含んだ、より能動的なプロセスのことだったのです。*²

 「消費は買い物の話じゃない」というミラーの主張に「やっぱりそうだよね!」と激しく同意しました。これまで、○○消費についての議論とか、消費者についての歴史の本を見ても、「消費」について定義をしているものを見つけられなかったのですが、ここにきてようやく蒙を啓かれた感じがしました。

 ミラーはトリニダードでのフィールドワークを行ったのですが、トリニダードの人々が消費を通じてアイデンティティを表明していると述べています。曰く、トリニダード人にとっては労働の話よりも消費の話が重要なのだ、と。そして、消費は「何を買うか」の話(だけ)ではなく、「それをどう使うのか」の話でもあると。つまり、誤解を恐れずに言うならば、「使う」ことがなければ消費じゃないのです。

 ミラーはファッション研究においても重要な人物で、ファッション研究者がハイファッションばかり見ていることを批判し、ジーンズのような日用品としてのファッションについて考える必要があると主張します。ミラーはジーンズについての研究も行っており、ジーンズが「何も意味することがない」ために、普通だとみなされる服だと指摘しているのですが、ここで重要なのは、消費について研究をしているミラーが、「私たちはなぜジーンズをはいているのか」という点に注目していることです。つまり、ここでもやはり「買う」ことではなく「使う」ことが議論の焦点になっているのです。

消費は何を変えるのか: 環境主義と政治主義を越えて

消費は何を変えるのか: 環境主義と政治主義を越えて

著: ダニエル・ミラー 翻訳: 貞包 英之
メーカー: 法政大学出版局

 そんなことを考えながら消費論を振り返ってみると、「有閑階級の人たちは自身のステータスを見せびらかすために消費をしている」と論じたソースティン・ヴェブレンも、消費という行為を言語活動になぞらえたジャン・ボードリヤールも、どちらも消費に「使用」のニュアンスを込めていたことに気づきます。また、大塚さんの「物語消費」の議論も、ただ子どもたちがビックリマンチョコをなぜ買うのかというだけの話ではなく、ユーザーが自ら物語を作り出していく行為についての話でもあり、「与えられた物語をどのように使うか」という観点が含まれています。

 今回のコラムの冒頭で、國分功一郎さんの「消費ではなく浪費をすべき」という主張を紹介しました。けれども、今回の話をふまえると、むしろ本来的な意味で消費をする(=ちゃんと使う)ということが重要だと言えるのではないでしょうか。

 このことはファッションにおいても同様です。これまでのコラムでも述べてきたとおり、ファッションは私たちにとってアイデンティティを表すツールです。そして、その表現が可視化されるところにファッションの特徴があるという話も再三してきました。ファッションによってアイデンティティが可視化されるのは、持っている服を着る(=使う)ということが前提となります。買った服をクローゼットの奥で眠らせているのであれば、家具や食器などのように、「アイデンティティを表すものではあるものの、(特定のシチュエーションをのぞいて)人目には触れないもの」になってしまいます。安いからと言ってとりあえず買って使わなかったり、高価なブランド品でもったいないからといってクローゼットの奥にしまいこんだりするのではなく、購入したものをちゃんと使うこと(あるいはちゃんと使うものを購入すること)を意識することが大事なのではないかと僕は思うのです。

 消費とは「『買うこと』ではなく、『買ったものを使うこと』である」。そう考えるのであれば、けっして消費は批判されるような行為ではないはずです*³。

*² ダニエル・ミラー『消費は何を変えるのか——環境主義と政治主義を越えて』(貞包英之訳)、2022年、95頁。

*³ 蛇足であることは承知の上でもう少し言うと、消費は「買ったものを使うこと」だけでは定義としてちょっと足りず、「モノやサービスに価値を見出し、他者に対価を払った上で、それを手に入れ、所有し、使用し、消耗させること」だと考えていますが、この話は長くなるのでまた別の機会に。

★今回のテーマをもっとよく知るための推薦図書
ジャン・ボードリヤール『消費社会の神話と構造 新装版』(今村仁司・塚原史訳)、紀伊國屋書店、2015年
現代社会において、消費がどのような意味や役割を持っているのかについて考えるための必読書です。読むたびに新しい発見があるので、僕も何度もこの本に立ち返ります。

東浩紀『動物化するポストモダン——オタクから見た日本社会』講談社、2001年
「物語消費」の後は「データベース消費」が行われるようになったと主張する東浩紀さんの代表作のひとつ。きわめて優れた文化批評であり、僕も大きく影響を受けているのですが、今回のコラムでの消費の定義をふまえると、データベース消費は本当に消費なのか?という疑問が生まれます。その点については今後考えてみます。

難波優輝『批判的日常美学について——来たるべき「ふつうの暮らし」を求めて』晶文社、2026年
美学という学問の立場から、さまざまな事象について論じる難波優輝さん。この本のなかの「反ファッション論——みせかけ美徳消費の悪徳」という論考で消費批判を行っています。僕の立場とは異なりますが、めちゃくちゃ勉強になるし、面白いです。

illustration: Riko Miyake(FASHIONSNAP)

文・蘆田裕史

Hiroshi Ashida

京都精華大学デザイン学部教授

1978年京都生まれ。京都大学薬学部卒業、同大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターなどを経て、2013年より京都精華大学ファッションコース講師、現在は同大学デザイン学部教授。批評家/キュレーターとしても活動し、ファッションの批評誌「vanitas」編集委員のほか、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。主著は、「言葉と衣服」「クリティカル・ワード ファッションスタディーズ」。

最終更新日:

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