
Image by: FASHIONSNAP

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「ゆるふわ大明神」の異名を持ち、長年京都を拠点に大学でファッション論を教える傍ら批評家・キュレーターとしても活動してきた京都精華大学デザイン学部教授の蘆田裕史氏が、「ファッション」や「ファッション論」について身近なものごとから考えるコラム連載。三宅香帆氏の『考察する若者たち』を出発点に現代ファッションを考えた前回に続く第9回は、ファッション論の視点から映画「プラダを着た悪魔2」を紐解く。
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目次
最近、めっきり映画を見る時間を取れなくなってしまったのですが(2時間空けるってなかなか難しいですよね)、さすがに「プラダを着た悪魔2」は見ておかないと!と思って、公開後ほどなくして映画館に足を運びました。
すでにさまざまな方がレビューを書いているので、映画作品としての良し悪しの評価は他の人に任せるとして、僕はファッション論の観点から言えることを少し考えてみたいと思います。今回のコラムは多少のネタバレを含みますし、字数の都合上、登場人物やストーリー展開について細かく説明することはできません。ですので、見ていない人は見てから読んでもらった方がよいかもしれません(もちろん、読んでから見てもらうのも大歓迎です!)。あと、作中のセリフはすべてうろ覚えで正確なものではないので、あくまで大意としてとらえてもらえたらと思います。(文:蘆田裕史)
「おしゃれ」を捨てたアンディへの違和感⎯⎯前作の結末を再考する
僕は記憶力があまりよくないので、前作の「プラダを着た悪魔」(以下、「プラ悪1」)の細かな内容までは覚えていなかったのですが、結末が好きではなかったことだけは強く印象に残っていました(「好き嫌い」と「良し悪し」は別なので、「良くない」とは言っていないです。念のため)。その理由は以下のとおりです。
「プラ悪1」において、もともとファッション⎯⎯厳密に言えば「おしゃれ」をすること⎯⎯に興味のなかったアンディは、雑誌『ランウェイ』での仕事を通じてファッションに楽しみを見出すようになりました(少なくとも僕にはそう見えました)。けれども、最終的には元の服装に戻り、硬派なジャーナリズムの仕事ができる転職先を探すことになります。時代が時代とはいえ、ミランダはパワハラ上司でしかないし、部下に対してひどい仕打ちもするし、アンディがミランダの元を去るのは当然と言えば当然なのですが、アンディが『ランウェイ』を去った後に元の服装に戻るというのは、結局のところアンディにとってファッションは不要なものだったということです。ファッションが好きになったのであれば、おしゃれをしたまま新聞社に転職活動をすることだってできるはずなのに。
もしアンディが『ランウェイ』で働くことを通じてファッションの楽しさや面白さに気づいたのであれば、そして自分のためにおしゃれをしていたのであれば、おしゃれをしたまま転職をしてほしかった。つまり、「プラ悪1」ではアンディは結局のところ、他者から承認されることを目的としておしゃれをしていたと言わざるをえないのです。ついでに言うと、仕事に関してもアンディはミランダから承認を得ることを目的としていたがために、ミランダに愛想を尽かすと同時に『ランウェイ』での仕事にも興味を持てなくなってしまったとも考えられます。
20年経っても変わらない、アンディの「承認欲求」
さて、そんな前作から20年後が舞台の「プラダを着た悪魔2」(以下、「プラ悪2」)。アンディが賞を取るほどのジャーナリストになり、着実にキャリアを積み上げてきたころのお話です。
簡単に冒頭のストーリーをまとめておくと、「アンディが賞を取る」→「授賞式の場でアンディが新聞社からメールで解雇される」→「そのころ、ミランダが炎上して『ランウェイ』誌が危機に陥る」→「ひょんなことからアンディが『ランウェイ』編集部で再びミランダと働くことになる」という流れです。20年ぶりの再会を喜ぶアンディとは対照的に、ミランダはアンディのことを覚えていないような反応をします(本当に覚えていなかったのか、覚えていないふりをしたのかはわかりません)。20年経ってコンプラやPC(ポリティカルコレクトネス)を意識した発言や振る舞いをするように変貌したミランダですが、アンディへのつれない態度は変わりません。
アンディが『ランウェイ』誌でふたたび働き出してほどなく、同誌の危機を救おうとして書いた謝罪文や記事が世間から評価されます。こうして、『ランウェイ』誌は危機を免れることができ、同誌への風当たりが弱くなりはじめます。そのことをミランダに褒めてもらいたくてそわそわするアンディに対して、ナイジェルが承認欲求の強さを指摘し、たしなめます(ちなみにアンディは「褒めてほしいのではなく、フィードバックがほしいんだ」と答えており、自分の承認欲求の強さを認めることができませんでした)。20年経って人間的にも成長しているはずのアンディですが、あいかわらず原動力が承認欲求にあるようです。

映画「プラダを着た悪魔2」ジャパンプレミアにて
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承認欲求は悪いのか? ファッションとアイデンティティの関係
と、ここまで承認欲求がネガティブに聞こえるような書き方をしてきました。実際、近年では主にSNS上で「いいね」をもらうことを目指した、つまり承認欲求に根ざした行動は非難されがちです。けれども、承認を求めるという心理や行為は本当に悪いことなのでしょうか? そのことについて、ファッション論の立場から少し考えてみたいと思います。
僕はファッションがこの世界に生きるすべての人にとって重要だと思っているのですが、それはアイデンティティ⎯⎯とりわけその可視化⎯⎯と関わるからです。この連載の第2回でお話ししたとおり、ファッションにまったく関心がないという人はほぼ存在しないはずです。もし本当に無関心(=なんでもいい)なのであれば、ロリータでもヴィジュアル系でもパンクでもアニメのコスプレでも、どんな服でも着られるはずなので。けれども、普段スーツを着て会社に出勤しているサラリーマンの人が、突然「明日からあなたはロリータの格好で出勤しなさい」と言われたら、おそらくとまどいますよね。これまでにも散々書いたとおり、ファッションは否が応でも可視化されてしまうものなので、身につけたものがその人のアイデンティティを周囲に伝えてしまいます。
では、アイデンティティとはいったいどのように形成されていくのでしょうか。精神科医のR・D・レインは次のように語っています。
自己のアイデンティティとは、自分が何者であるかを、自分に語って聞かせる説話である。*¹
たとえば蘆田裕史という人物は、京都に住んでいて、男性で、日本国籍を持っていて、京都精華大学に教員として勤務していて、研究の専門領域はファッション論で、妻と息子の3人家族で、好きな画家はイヴ・タンギーで、好きな漫画家は日本橋ヨヲコで、最近よく聴く音楽はBlume PopoとPOLTAと読谷あかねで、パイやタルトなどサクサクした食感のお菓子が好きで……というように、所属や属性、趣味嗜好などによってその人がどのような人であるかが説明されるものです。
ただし、レインは次のようにも指摘しています。
〈アイデンティティ〉にはすべて、他者が必要である。誰か他者との関係において、また関係を通して、自己というアイデンティティは現実化されるのである。*²
これはつまり、他者から承認されなければ、自分で何を思おうとも、それはアイデンティティになりえないということです。
*¹ R・D・レイン『自己と他者』(志貴春彦・笠原嘉訳)、みすず書房、1975年、110頁。
*² 同書、94頁。
「ルッキズム」をめぐる変化⎯⎯1作目と2作目の違い
さきほど話した通り、「プラ悪1・2」はともに承認をめぐる物語だと指摘しましたが、より具体的に言えば、まず「プラ悪1」は、アンディが他者からの承認を求める物語です。ジャーナリストとしての能力を評価してほしい、アシスタントとして有能であるという評価をミランダからもらいたい、そうした承認欲求がアンディの行動のモチベーションとなります。アンディがおしゃれになっていくのも、『ランウェイ』での上司や同僚からの承認を求めてのことでした。
一方で、「プラ悪2」はアンディが承認を求めるだけの物語ではなくなります。ここが前作と今作の大きな違いです。
「プラ悪1」はルッキズムに満ちた映画です。アンディは体型をからかわれ、おしゃれかどうかでその評価が変わってきました。けれども、「プラ悪2」の登場人物たちは、外見で人を評価することをほとんどしなくなります(ナイジェルが口にした「化繊の男」という表現はそれにあたりそうですが、あくまでナイジェルとミランダとのあいだでのやり取りで言われており、本人にそれを伝えているわけではないことには注意が必要です)。
ファッションがルッキズムと大きく関わることは、言わずもがなでしょう。ファッションは外見を作り上げる行為でもあるので。そして、しばしば人の外見に言及することは避けるべきだと言われます。けれども、どのような場合でも他人の外見に言及してはならないかというと、そうとは言えません。アイデンティティの形成には「承認」という行為が不可欠だからです。
以前、アメリカの美容院での体験談を語ったマンガがX(旧Twitter)で話題になったことがあります。自身の理想の髪型を複数の美容師さんに拒否され続けたHさんが、ようやく理想を実現してくれる美容師さんに出会い、「ようやく自分っぽくなれた感じがした」と思えるようになった、という物語です。これだけでも素敵な話なのですが、最後に友人から「『あなた』って感じがする!」と言われたことがいちばん嬉しかった、と話がまとめられます。これはまさに承認の話であり、そしてファッションにおいて承認をする/されるためには、他人の外見に言及することが不可避であることをも表しています(まだきちんと考えられていませんが、これはおそらくケアの議論にもつながるのではないかと考えています)。
相互承認の物語としての「プラダを着た悪魔2」
最終的に『ランウェイ』が巻き込まれたゴタゴタが解決した後に、ミランダから「あなたは私のために働いたつもりかもしれないけれども、実際には自分のために働いていたんだ」と言われ、それを受け入れます。ここにきてようやく、アンディは自分が承認されるために行動してきたことを認めるのです。
そして、自分の承認欲求を認めることができたアンディは、今度は他者を承認する側にまわります。ラスト直前、アンディがエミリーと和解するシーンがあるのですが、ここでアンディは「あなたには金持ちのパートナーも高級ブランドも必要ない。なぜならあなた自身がアイコニックだから」とエミリーに伝え、エミリーのことを承認するのです。こうして一歩成長したアンディですが、実はナイジェルが彼女をもとから高く評価していたことを聞かされ、アンディ自身がほしがっていた承認を最後にきちんと得ることもできます(詳細は超ネタバレになるのでさすがに避けますが……!)。
さらに言えば、その前にはナイジェルもミランダから重要なスピーチを任される(=承認をもらう)というシーンが描かれていました。そういう意味で、「プラ悪2」は、アンディがひたすら承認を求めていた「プラ悪1」と異なり、主要登場人物が相互に承認しあう物語と言えるのです。このように考えると「プラ悪1」はファッション(と、それにまつわるルッキズム)を描いた作品と言えますが、「プラ悪2」はファッションが主題ではないのです。それゆえ多様な層に届いていると考えられるのではないでしょうか。

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アジア人差別はあったのか? チャオの描写を考える
と、ここまで読んでくださった読者のなかには、「いやいや、公開前にルッキズムとも言えるアジア人差別が話題になっていたじゃないか」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。蛇足かもしれませんが、それについても僕の意見を少しだけ書いておくことにします。
まず、結論から言うと、ステレオタイプ的な表現は含まれているかもしれないけれども、差別と断定することは難しい、といったところです*³。話題になったのは、アンディのアシスタントのジン・チャオは成績優秀だけれども服装がダサく、コミュニケーションに難がある、アジア人のステレオタイプ的な人物として描かれており、これが人種差別的な表現だというものだったかと思います。たしかに人種やジェンダーに関して、ステレオタイプ的な特徴を強調することは、それを固定化させてしまうことにつながるために、差別的な行為になりかねません(「女性ならではの細やかな気遣い」のような表現がわかりやすい例ですね)。
けれども、もしチャオの服装がダサいものとして描かれていると指摘するのであれば、どのようにダサいのかを言語化する必要があります。また、たしかにチャオの服装はミランダやアンディのそれとはまったく異なりますが、もしチャオの服装がダサいと評価する場合、その指摘自体が他者を外見で評価するというルッキズム的な側面を内包していると言わざるをえません(個人的には、チャオをダサい人物として描くのであれば、あのメガネを衣装として選ぶことはしないんじゃないのかな、と感じました)。
もちろん、「多くの人がチャオの初登場時の服装を見てダサいと思っているからあれはダサいと言わざるをえない」と考えることもできるでしょう。もしそうだとするなら、チャオが物語を通じてどんどんおしゃれになった(ように多くの人に思われる)描写についてはどう考えるべきでしょうか。これは「プラ悪1」でアンディが『ランウェイ』での仕事を通じておしゃれになっていくさまとパラレルに見ることもできるのではないでしょうか。そう考えると、登場時にチャオをおしゃれじゃない人物として描いていることに必然性があると言うこともできるかもしれません。
ちょうど今月号の文芸誌『群像』において、小説家の朝吹真理子さんが新人文学賞の選評で次のようなコメントをしていました。
西村賢太の露悪表現の徹底はすばらしいと思う。
差別的な表現が出てきたり、暴力の内容が現実ではとても肯定できるものではなくても、小説のなかでそれはそのようにしか書きえない、と納得できるものであれば、いかに非倫理的なものであってもよろこんで読みたい。
ただ、今回、女性嫌悪に近い表現や安易な暴力描写のある作品が複数あったが、そのように書くしかなかった、という小説内の納得や切実さが私には感じられなかった。*⁴
朝吹さんの指摘はその通りだと思います。差別も暴力も、残念ながら現実の世界に存在しますので、物語のなかでそれについての問題を提起するためには、差別や暴力の描写が必要になりますし、必然性があるのであればそうした表現がなされることも許されるはずです。仮にチャオの服装がダサいと評価されるとしても、チャオがおしゃれになる過程を描く必然性があるのであれば、非難されるようなものではないでしょう(作中でそうした必然性があったかどうかについては、僕はまだ結論をくだせませんが)。
さらに、チャオがコミュニケーションに難がある人物として描かれているというのも、これは現代の特徴のようにも思われます。昨今、『葬送のフリーレン』や『天久鷹央の推理カルテ』など、コミュニケーションに難がある人物⎯⎯しばしば発達障害的と言われますが、素人が断定することは避けなければなりません⎯⎯の生を描く物語は枚挙に暇がありません(ただし、天久鷹央に関しては、著者がはっきりとASDであると述べています)。
現実の世界でヘイトスピーチなどの差別的な発言をするのはただちに問題になりますが、物語のなかで差別的にとらえられる可能性のある表現がされていたとしても、その背景や文脈、意図などをきちんと考慮しなければ結論を出すことはできないでしょう(少なくとも予告編だけで判断できることではないように思います)。
*³ ここではあくまで外見に関することにのみ言及しています。名前についても差別的だという指摘がされていましたが、そこについては僕の専門外かつ知識が足りないため判断することができません。
*⁴ 朝吹真理子「無自覚な表現」『群像』2026年6月号、講談社、190頁。
「完璧な人間などいない」今作が肯定する私たちの生き方
閑話休題、承認の議論に戻りましょう。さきほど、「承認欲求は悪なのか?」と問題を提起しましたが、承認欲求を持つこと自体はまったく問題ないはずです。すでに見たように、他者からの承認はアイデンティティの形成に必要なプロセスなので。けれども、承認を得ること自体が目的化してしまうと話は別です。たとえば、お金を稼ぐことには何ら問題ないけれども⎯⎯というか、生きていく上で必要です⎯⎯、お金を稼ぐことが目的になってしまうとよくない、ということと似たようなものだと思います。お金を稼ぐことはあくまで生きていくための手段であって目的ではない、と言えるのと同様に、承認を得ることはアイデンティティを形成するための手段として必要だけれども、それが目的化してしまうと危うくなる、ということです。
この映画のメッセージのひとつに、「完璧な人間などいない」という価値観があることは多くの人が同意するところではないかと思います。ミランダは⎯⎯どんなに時代の流れにあわせようと努力していたとしても⎯⎯あいかわらず横暴だし、建築家の恋人に対して「ジャーナリズムはおしゃれなアパートより重要」とか言ってしまうアンディも、あまりに他者への配慮に欠けています。近年は一点の曇りもない完璧さが求められがちですが、過ちを犯しながらも反省することで成長し、少しずつ前に進むことしか僕たちにはできないはずです。そう考えると、この映画は完璧でない僕たちのような人間の生き方をも承認してくれるものだということもできるのかもしれません。
「プラ悪2」に限らず、ある作品を面白いと思った人にはその理由がありますし、駄作だと思った人にもその理由があります。映画にせよ美術にせよファッションにせよ、よって立つ観点が異なれば結論は変わります。「プラ悪2」は僕にとって最高の映画のひとつだと断言できますが、みなさんにとってはどうだったでしょうか。このコラムを最後まで読んだけど映画はまだ見ていない、という人は、ぜひ見てみてください。
★今回のテーマをもっとよく知るための推薦図書
・恩蔵絢子『感情労働の未来——脳はなぜ他者の“見えない心”を推しはかるのか?』河出書房新社、2025年
本書の主要な目的は感情労働について脳科学の見地から論じることですが、そのなかで他者からの承認が目的となることの危うさについても説得力をもって語られています。
・斎藤環『承認をめぐる病』筑摩書房、2016年
こちらは精神科医の立場から承認について論じられたものです。エヴァンゲリオンをめぐって承認についての論が展開されていくのですが、これを読むとアンディとミランダの関係が碇シンジと碇ゲンドウのそれのようにも思われてきます……!
・眉月じゅん『九龍ジェネリックロマンス』集英社、2020~2026年
ネタバレになるのであまり細かいことは書けませんが、「自己」について悩む主人公が、他者からの承認を求めるのではなく、自分で自分を承認できるようになるまでの物語として読むことができるマンガです。本当は原稿にこのマンガの話も取り入れたかったのですが、文字数が増えてしまうので泣く泣く諦めました。
・池田喬+堀田義太郎『差別の哲学入門』アルパカ、2021年
ジン・チャオという人物がアジア人差別かどうか結論を出すためには、まず「そもそも差別ってどのようなことなのか?」という根本的な問いから考える必要があります。差別の問題に関心のある人にとっての必読書です。
・東浩記『訂正可能性の哲学』ゲンロン、2023年
2020年代の価値観からすると、ミランダは完璧でないどころか、いまだに誤りと過ちにあふれた存在だと言わざるをえません(「ボディポジティブ」という言葉すら口にすることができない…!)。けれども、彼女は彼女なりに自らの誤りを認め、自らの考えと行動を訂正し続けていることも事実です。そんなミランダを承認したい人にとっておすすめです。
edit: Erika Sasaki(FASHIONSNAP)
illustration: Riko Miyake(FASHIONSNAP)
1978年京都生まれ。京都大学薬学部卒業、同大学大学院人間・環境学研究科博士課程研究指導認定退学。京都服飾文化研究財団アソシエイト・キュレーターなどを経て、2013年より京都精華大学ファッションコース講師、現在は同大学デザイン学部教授。批評家/キュレーターとしても活動し、ファッションの批評誌「vanitas」編集委員のほか、本と服の店「コトバトフク」の運営メンバーも務める。主著は、「言葉と衣服」「クリティカル・ワード ファッションスタディーズ」。
◾️ゆるふわファッション講義
第1回:ファッション論ってなに?
第2回:可視化の時代におけるファッションとは?
第3回:美術展とは違う、ファッション展のみかた
第4回:「黒の衝撃」から辿る、日本の90年代ファッション再考
第5回:インターネット普及以後の日本ファッション⎯⎯平面性と物語性
第6回:私たちは“二つの身体”を持っている──ヌード、義足、厚底シューズ
第7回:不可視の装い「におい」がおびやかす、身体とファッション業界の未来
第8回:「考察する若者たち」から考える現代ファッション
第9回:ファッション論で紐解く 映画「プラダを着た悪魔2」
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