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ブッフェ始まりの地? 知られざる代々木公園の成り立ち

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バイキング(ブッフェ)始まりの地?世界のアスリートが集う“選手村”にフォーカス

表参道・原宿エリアの文化や歴史にまつわるちょっとしたネタをご紹介する「OMOHARA TIPS」。表参道・原宿エリアの文化や歴史にまつわるちょっとしたネタをご紹介する「OMOHARA TIPS」。休日は多くの人で賑わう憩いの場「代々木公園」。実はこの場所が、かつて「オリンピック選手村(正式名称:代々木選手村 ※記事内では馴染みのあるオリンピック選手村の呼称を用いる)」だったということをご存じだろうか?

代々木公園があるエリアは、戦後「ワシントンハイツ」という米軍住宅地が広がっていたことを話に聞いたことがある人は多いだろう。ワシントンハイツがあった代々木公園自体は神園町だけど、線路をまたいで表参道・原宿の街に大きな影響を及ぼした、避けては通れない歴史の重要拠点だ。

日本人は原則立ち入り禁止だった“近くて遠い異国”。全面返還される最大のきっかけが、1964年の東京オリンピックである。オリンピックに合わせてワシントンハイツの住居を利用、整備されできたのが「オリンピック選手村」。一体、どんな場所だったのか? そこで生まれた画期的な食事システムや、オリンピック史上初のドラマとは?1964年当時の貴重な写真とともに「オリンピック選手村」にフォーカス!

“アメリカ”だった場所から、世界中の人々が集まる場所へ

ワシントンハイツ全景(毎日新聞社『毎日グラフ』1954年1月13日号)

現在の代々木公園一帯は、1909年から1945年まで日本陸軍の「代々木練兵場」だった。それが終戦翌年の1946年、アメリカ軍に接収され、軍人とその家族が暮らす居住区・ワシントンハイツへと姿を変える。ワシントンハイツの敷地は高い塀で囲まれ、日本人は原則立ち入り禁止だったものの、フェンスをこえて温かな交流が生まれていたこともうかがえる。

児童養護施設「愛児の家」の子どもたちが、ワシントンハイツの人々と交流する様子。(社会福祉法人愛児の家提供、昭和館蔵)

約92.4万㎡の広大な敷地には、827戸の住宅をはじめ、学校や教会、劇場、商店までがそろい、まるで一つのアメリカの街のようだったという。その文化は表参道や原宿の街にも波及し、駐留軍とその家族に向けたアメリカンなショップが続々と誕生した。時代を経て、流行に敏感な若者や文化人が集まり、カルチャーの土壌が育まれていく。

1964年東京オリンピック開会式の様子(昭和館蔵)

そんなエリアに転機が訪れたのが、1964年の東京オリンピックだ。日米交渉の末、1963年11月にワシントンハイツの全面返還が実現!ワシントンハイツだった敷地のうち東西約800m・南北約1400m、総面積約66万平方メートルのエリアに、世界94の国と地域から約5,900人の選手や役員を受け入れる選手村として生まれ変わった。宿泊施設のほか、銀行、郵便局、劇場、プール、ショッピングセンター、理髪店、クリーニング店まで完備され、世界中の選手たちが暮らす、まさに”村”が出現したのだ。

1964年に撮影された代々木選手村。ワシントンハイツ時代の建物がそのまま活用された(昭和館蔵)

日本の「バイキング」もここから!? 選手村で生まれた知られざるドラマとその後

オリンピック選手村を調べていて面白いと思ったのは、食にまつわるエピソード。大会期間中に提供された食事は、なんと約60万食!帝国ホテルの総料理長・村上信夫氏のもとで約300人の料理人が腕を振るったそうだ。大量調理を支えるため、当時としては珍しかった冷凍ホウレンソウなどの冷凍食品も導入された。さらに、この選手村で効率化を図るために採用された「バイキング(ブッフェ)」形式の食事は、その後全国へと広がっていったという。

1964年当時、原宿駅前に設置されたオリンピック案内所。国内外からの観光客や関係者を案内するための仮設案内所として大会を支えた(提供:渋谷区)

また、東京オリンピックでは選手村史上初となる出来事も起きている。ブルガリア代表の選手カップルが大会期間中に村内のインターナショナル・クラブで、隣接する明治神宮にふさわしく神式の結婚式を挙げ、大きな話題を呼んだのだ。当時の選手村は一般に公開される場所ではなく、その日常を知る手がかりは決して多くない。それでもこうしたエピソードからは、国籍を超えて選手たちが自然に交流していた様子が垣間見える。 

さて、そんな選手村はオリンピック閉会後、どうなったのか?大会の翌年(1965年)、すぐさま新たな役割を担うことになる。女子選手村だった集合住宅棟を改修し、青少年に学習と体育活動の場を提供することを目的とした研修施設「国立オリンピック記念青少年総合センター」としての活用が決定・設立された。1966年に研修生の受け入れを開始。以後、体育館、研修棟、浴場等が必要に応じ増設されていく。

1967年・増設された体育館完成時に撮影「国立オリンピック記念青少年総合センター体育館」(提供:渋谷区)

国立オリンピック記念青少年総合センターは青少年の健全育成や国際交流を掲げる、国内最大級の教育拠点として運営。老朽化による改修・再整備を経て、現在も個人のほか、スポーツ団体、企業の研修会、修学旅行生の宿泊、NPOや学生団体などの集会やイベント開催等、さまざまな用途で利用されている。

1976年〜1977年頃に撮影された「国立オリンピック記念青少年総合センター」(提供:独立行政法人国立青少年教育振興機構 国立オリンピック記念青少年総合センター)

国立オリンピック記念青少年総合センターになったのは選手村の一部。残った広大な敷地が、ご存知「代々木公園」として1967年に開園したというわけ。ちなみに公園内には、かつてオランダ選手団の宿舎として使われた旧ワシントンハイツの住宅が一棟「オリンピック記念宿舎」として保存されていた。2024年に老朽化のため解体され再建。2026年に「ドトール パークカフェ YOYOGI」として生まれ変わる。外観は当時の姿を残しており、コーヒーを片手に1964年の選手村の面影を感じられるスポットとなっている。

【ちょいネタ】都市伝説検証「表参道は昔、滑走路だったらしい」ってホント?より

かつて、その場所は“アメリカ”だったために気軽に足を踏み入れることのできなかった、言わば日本人にとっての“禁足地”。しかしオリンピックを機に日本へと返還され、その様相は一転、世界中のアスリートが集う選手村となった。選手村だった一部は青少年教育施設、そして誰もが思い思いに過ごせる代々木公園となって親しまれるようになったというのはなんともドラマチックである。

おわりに:東京オリンピックがオモハラにもたらしたもの

東京オリンピックがオモハラの街にもたらしたものとは何か。戦後のワシントンハイツから、“選手村”として利用され、街に開かれるきっかけを作ったことがひとつ。さらにその影響は景観やインフラにも波及している。

1964年当時のNHK国際放送センター前。国立代々木競技場へと続く通りに五輪旗が並ぶ(写真提供:渋谷区)

例えば、現在へ受け継がれるランドマーク「国立代々木競技場」。ワシントンハイツの返還地に建てられたこの巨大なレガシーは建築家・丹下健三氏の設計によるものだ。1964年大会の開幕に合わせて完成し、その大胆な吊り構造と造形美は、戦後モダニズム建築の傑作として今なお世界的に高く評価されている。

1964年に撮影された国立代々木競技場(太田畯三撮影、昭和館蔵)

そして、街の構造を変えたことも大きい。オリンピック開催に合わせて周辺道路も整備され、それまでワシントンハイツに阻まれ原宿駅前で行き止まりになっていた道路は、大きく姿を変えた。選手の円滑な移動を目的に幹線道路が整備されたことで、一帯の交通利便性は格段に向上!原宿は人や車が行き交う、より開かれた街へと変わっていったのだ。オリンピックに伴う幹線道路の整備と開通が、街の人の流れを大きく変えるなど周辺インフラにも影響を及ぼした。

戦うための「練兵場」から、アメリカ軍の駐留地、そして誰しもに開かれた公園へ。代々木公園周辺のどかな景色は、激動の歴史を知ったあとに眺めると違った印象に映る。頭をよぎるのは、今後も開かれた場所として人々に長く愛され続けてほしいということ。立ち寄った際は、そこにあった歴史的事実の数奇な変遷に思いを馳せてみてほしい。

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