
相澤陽介 ラストショーのバックステージにて
Image by: FASHIONSNAP

相澤陽介 ラストショーのバックステージにて
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「長らく登り続けてきた White Mountaineeringの山頂より、下山する決断をいたしました」⎯⎯相澤陽介が、ホワイトマウンテニアリング立ち上げから20年の節目にブランドから去る。新たに見えてきたという「次の山の頂」には、何が待っているのか。ブランドを始動する前、コム デ ギャルソン社で働いていた頃から思い出深い地だというパリの街で、ラストショーの2日前に胸の内を語った。
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相澤陽介 Yosuke Aizawa | ファッションデザイナー
1977年10月25日生まれ。多摩美術大学デザイン科染織デザイン専攻を卒業後、コム デ ギャルソンに入社。2006年にWhite Mountaineeringをスタート。これまでにMoncler W、BURTON THIRTEEN、LARDINI BY YOSUKEAIZAWAなど様々なブランドのデザインを手掛ける。現在は、サッカーJリーグ「北海道コンサドーレ札幌」の取締役CCOを務めるほか、多摩美術大学および東北芸術工科大学の客員教授も務めている。2026年3月31日をもってWhite Mountaineeringのデザイナーを退任する。
目次
コム デ ギャルソンと父親の記憶

2026年1月、パリ11区のショー会場
FASHIONSNAP(以下、F):ここ、パリでのコレクション発表は24シーズン目とのことで、もうベテランですね。
相澤陽介(以下、相澤):12年前は何のコネクションもなくわからないことだらけでしたけど、いつの間にか相談される側になりましたね。僕はパリに来た時からこちらの現地のスタッフと一緒にショーを作ってきたので、日本人デザイナーでは珍しいタイプだと思う。初回から担当してくれているディレクターやスタッフもいて、最近子どもが生まれたりとか、一緒に大人になっている感覚です。
F:色々な思い出があるんじゃないでしょうか。
相澤:ホワイトマウンテニアリングを立ち上げる前、コム デ ギャルソン社に就職して2年目からパリで発表するコレクションに関わらせてもらって、その頃からパリに対して「すごくいいものだな」と思っていたんです。
もし自分でブランドをやるとしたら、こういうフィールドで闘いたいという、現実的な願望というんでしょうか。逆に当時は、ハードルの高さから非現実的とも思える異世界でした。

F:元々は多摩美術大学で染織を学び、テキスタイルデザインを仕事にしたくてコム デ ギャルソン社の門を叩いたんですよね?
相澤:そうなんですけど、その時の実技試験がワンピースの制作で、ミシンに触れたこともなかったから何もできなくて。でも紙と鉛筆があったので、自分が学んできたプリント技術を取り入れてテキスタイルデザインの絵を描いて......という話を去年、多摩美術大学の入学式の祝辞*で話したんですよ。1000人以上の生徒父兄の前だったから、久しぶりに緊張しました(笑)。
*多摩美術大学 2025年度校友会代表 相澤陽介・祝辞:参照
F:コム デ ギャルソンに入社が決まったのが、その実技試験ですね。そういった経験を学生たちに話すことで、伝えたかったことは何ですか?
相澤:真摯に学べば、たったひとつでも技術を持つことができる、ということですね。「運も実力のうち」という言葉はあまり好きではないんだけど、大抵は実力がなかったら成功しない。運というのは真面目にやっていたら訪れるものだと信じています。
僕は「意識が高い」と揶揄する風潮がとても嫌いで。もの作りは意識が高くなければ、人は感動しません。
F:技術という意味では、日本のトップと言えるファッション企業に服作りの経験がなく入り、それからが大変だったのでは。
相澤:本当にそうでした。でも後から考えれば、大変でしたけどその5年間を経験して本当に良かったと思う。何よりも、将来の方向性が決まったのがコム デ ギャルソンに入社した時で、それで今の自分がありますから。
デザイン画の描き方から、実際の工場での布作りなど、学生時代のベースはありましたが、ほとんどはギャルソンで学んだと思っています。
F:渡辺淳弥さんの下で働いたんですよね。2001年の「コム デ ギャルソン ジュンヤワタナベ マン(COMME des GARÇONS JUNYA WATANABE MAN、現・JUNYA WATANABE MAN)」の立ち上げにも関わったと。
相澤:自分はまだ20代前半で、渡辺さんをはじめ先輩方からしたら、かなり生意気だったと思います。でもメンズコレクションの始動に携われたのは素晴らしい経験になりましたし、2年目からパリの仕事もやらせてもらったりと、渡辺さんには「感謝」のひとことです。自分にとって最初の上司、最初の仕事だったので強烈な記憶で、今でもその頃のことが夢に出てくるんですよ(笑)。

F:2000年代初頭は特に勢いがあった時代です。尊敬する人は、ほかにもいますか?
相澤:父親ですかね。図案屋というデザインの仕事をしていて、アメリカンカルチャーとかアウトドアアクティビティとか、それこそファッションも、子どもの頃からたくさん面白いことを教えてくれて。一緒に福生の米軍基地に連れていってもらったり、アメフトを見に行ったり。音楽も好きで、バンドを組んでドラムを叩いていた姿も思い出します。
ファンクションギアという強み
F:コム デ ギャルソン退社後は工事現場などで働いたそうですが、再びファッションの世界に戻り、2006年にホワイトマウンテニアリングを創立して20年。ブランドのターニングポイントはありましたか?
相澤:「ピッティ・イマージネ・ウオモ(Pitti Immagine Uomo)」のゲストデザイナーとして初めてフィレンツェでショーをやった、2013年からチャンスが広がったと思います。
ちょうど、「モンクレール(MONCLER)」のデザイナーに起用された年ですね。何かツテがあったわけではなく、会社の問い合わせメールにフランチェスコ・ラガッツィ(モンクレールのアートディレクター、「パーム・エンジェルス」デザイナー)からダイレクトで連絡が来たから、最初はイタズラかと疑った(笑)。いきなりニューヨークに来てくれと言われ、セントラルパークで行われたモンクレール グルノーブルのショーを見て。レモ・ルッフィーニ(会長兼CEO)に会い、そこから「MONCLER W」が始まったんです。
F:モードとアウトドアを融合しているブランドは、当時あまりなかったんじゃないかと思います。ほかにも相澤さん個人では、「バートン(BURTON)」や、2012年ロンドン五輪で日本選手団が着たウォームアップスーツのデザインなども手掛けてきました。
相澤:やはり僕の強みは、ファンクションギアとしての服なんだと思っています。そういったプロダクトを実際に山で試すために、軽井沢にアトリエを作ったんです。ここ最近「街着のアウトドア」というのが一番嫌で、ファンクションを取り入れるなら東京の生活サイクルとは違うことをやらなければと。実験する場として、サンプルが上がったらアトリエに持って行き、実際に山の中でテストする事が目的です。バイクに乗ったり、森をハイクしたり。雪が降ってくれるのもありがたい。実験の場所を作れたのは、とても大きいです。
F:さまざまなフィールドを開拓してきましたが、最もチャレンジングだったことは何ですか?
相澤:いろいろとありますが、特に印象深いのはヤマトグループの制服ですね。パブリックデザインとして考えると、格好いいかどうか、好きか嫌いかだけではない領域。約20万人の従業員の方々が着るので、年間で着られるのは何百万着という数ですから。最初に「街のサインを作る」とプレゼンしたものを、解像度を高めて、プロセスを踏んで納得を得て、それを実現させる。数年かかりましたけど、実際にいま街であの緑の制服を見ない日はないので、意味のある仕事になったなと感じています。
好調の時にホワイトマウンテニアリングを去る
F:ホワイトマウンテニアリングは、2015年からパリに発表の場を移しました。海外ビジネスとしてはどのくらいで軌道に乗ったのでしょう。
相澤:実際は3年くらい全然ダメ。何をするにもやっぱり、3年はかかるものなんです。ただ、ピッティ・イマージネ・ウオモを通じてイタリアのTomorrowショールームのステファノ(ステファノ・マルティネットCEO)と出会って、契約したことで視野が広がったのはすごくよかった。自分が当時好きだった海外のショップが買い付けてくれたり、そういった自己満足度は高かったですね。
今回退任にあたり彼らと話をしたのですが、ホワイトマウンテニアリングとの関係は16年になり、Tomorrowショールームの中で最も古いメンズブランドになったそうです。


F:ビジネスが好転するきかっけは何かあったのでしょうか。
相澤:自分でも数えられないくらい取引先が増えた時期はありましたが、基本的には大きなヒットというよりも、緩やかな上昇線を描いた20年だったと思います。ここ数年は「ユニクロ(UNIQLO)」とのコラボなどもあり、認知は広がって行きました。
こうして話していくとコラボの仕事が多い印象を持たれると思いますが、一度も自分たちから営業をしたことはなくて。粛々とクリエイションを前に進めてきて、実際に去年、コラボレーションも含めたブランド事業として一番大きな売上だったんです。
F:ということは、ホワイトマウンテニアリングとして好調の時に、相澤さんが離れると。
相澤:辞めること自体は、2022年頃から考えていました。ブランドもファッションショーも好きで続けてきて、だからこそ、このままでいいのかなと思うようになって。10年後を考えて、同じようにやっていられるか不安もあったし、何か自分としては物足りなさもあった。それと、自分の人生でもう一回、新しいことをチャレンジしたいという気持ちが強くなっていって。ここで一度、区切りにしようと。
F:ブランド創立20年というタイミングで、決断に至ったんですね。
相澤:チャレンジするなら50歳になる前に、という気持ちもありました。去るとしてもブランドを閉めるのではなく、自分が始めたことを、自分だけ終わりにする。力のあるチームに育っていると思うので、後のことは託そうと思っています。

F:一番長く働いているメンバーは?
相澤:立ち上げ直ぐの時から一緒にやっているメンバーもいるので、20年近いベテランもいますね。
F:後任デザイナーは立てないのでしょうか。
相澤:それも考えましたが、長い時間もの作りに関わってきたスタッフは残り、ブランドを続けて行くので、彼らの考えを重視するべきだと思っています。
誰かがやるとしても、僕の息が掛かっていない方がいい。これからのホワイトマウンテニアリングのことは、僕自身が決めることじゃない。新しく、自由にやってほしい。ただ急に放り投げるのではなく、3年ほど前から時間をかけて、この考えをコアメンバーに話してきたので、伝わっていると嬉しいです。
F:といっても20年分の思い入れがあると思うので、実際のところ寂しい気持ちにはなりませんか?
相澤:自分としては、常に今自分ができることを「やり切った」という感覚しかないですね。大先輩方からしたら「なに甘いこと言ってんだ」と言われるかもしれませんが。でも倉庫のようなワンルームからブランドをはじめて、なんとか爪痕を残そうと頑張ってもがいていくうちに、少しずつチャンスが巡ってきてここまでやってこれたので。区切りにすると決めてからは、どこか清々しい気持ちでもあります。

新会社と「ライフタイムスポーツ」
F:今年の3月末をもってホワイトマウンテニアリングを離れ、その後については何か計画しているのでしょうか。
相澤:ブランドを離れる一番の理由ですが、4月に新会社を立ち上げます。これまでもアウトドア、スポーツ、ライフスタイルと、いろいろなカテゴリーを手掛けてきましたが、それらをさらに深めていきたいと考えています。新しい形でのスポーツブランドというのが良いと思っていて、作って試し、プロフェッショナルな方々に使っていただき「ライフタイムスポーツ」というカテゴリーを作りたい。
過去にバートンやアディダス 、コルマーといった多くのプロフェッショナルブランドと仕事をしてきて、いつもデザイナーとして呼ばれる立場でしたが、今後は企業として、そういったブランドと競えるようなプロダクトを生み出していきたいと考えています。
F:これまでの延長でありながら、立ち位置がガラッと変わりますね。
相澤:分かりやすく言うと、ファッションブランドではなくメーカーとして、企業として存在したいという目標です。いつか、プロスポーツのサプライヤーをやれるような規模にしたいですし、セリエAのチームなどの胸に自分たちのロゴを付けてみたいと言う野望があります。
それと、デザインスタジオとしての機能も明確に定義していく。衣服以外の仕事も多く経験してきたので、今後もそういった他ジャンルの業態でもしっかりとした体制を作っていきます。
F:デザインスタジオとしては、どういったことに力を入れていきますか?
相澤:ひとつはAIとの共存です。AIで合理的に無限化するデザインは、間違いじゃないと思っています。僕は長く教育の現場にいますが、デザイナーというものに正解はない。ただ個人の限界もあり、ツールの進化と共に発展してきました。例えば僕が学生の頃のマッキントッシュは、今では全く異なるツール。写真や動画もそう。
F:より高いリテラシーが求められる時代ですね。
相澤:例えば今回のピッティとパリで協業を発表した「エコー(ECCO)」は、デンマークの小さな街で最新鋭の3Dデータを用いているんですよね。これまで取り組んできた企業を通じても、デザインプロセスの進化を経験してきました。今は自分でも取り入れていますが、画面上でできることはAIに任せ、人間の手や感覚でしかできないことに集中する。これからは、より高度なソフトが必要になっていくと思うので、ソフトウェアの開発も視野に入れています。
F:それはかなりの投資が必要になりそうです。
相澤:全てにおいて投資の重要性を理解しています。まずは自己資金で進めるつもりです。自分の足で立つことが大事だと思っていて、これまで自分が培ってきたものを、自分と未来に投資するという考え。スタッフにしても、その道に長けた人たちが集まってくれています。

F:新会社でも、ファッションを扱っていくのでしょうか。
相澤:これまでのやり方とは変わりますが、ファッションはベースになると思います。やっぱりファッションが大好きなんですよね。いまの会社の中でもコレクション情報を一番見ているのは僕ですから(笑)。でも、ファッションデザイナーは独創的な服を作るだけじゃないと思う。サッカーチームの「北海道コンサドーレ札幌」とか僕が手掛けてきたスポーツやライフスタイルのディレクションも、軸はあくまでもファッションなんです。
F:「ノット ア ホテル(NOT A HOTEL)」のプロジェクトでは建築に携わっていますね。
相澤:「NOT A HOTEL KITAKARUIZAWA BASE」のディレクションは、僕の中で新たな挑戦です。自分が作ったアトリエを元に、軽井沢の生活を想定してデザインしました。仕事をしながらプロダクトを作り、実際のフィールドを使い、そして生活するという四季のサイクルをデザインしたとも言えると思います。
今年の夏には3棟が追加で開業し、合計で11棟のヴィラになる予定。ビジネス的にも成功したと思いますし、新たな発見もありました。僕が今後やりたいと思っていることの原点になったかもしれません。
「人にまつわるデザイン」を続けていく
F:デザイナーのドリス・ヴァン・ノッテン(Dries Van Noten)は自身のドキュメンタリー映画(2016年公開『ドリス・ヴァン・ノッテン ファブリックと花を愛する男』)の中で、「"ファッション"という言葉が嫌い。他に代わる言葉がほしい」と話していました。シーズン限りの流行に対する考えかと思いますが、相澤さんが考える「ファッション」とはどういうものなのでしょう。


相澤:あれはいい映画でしたよね。「ファッション」という言葉の意味としては「流行」だけど、「変化していくもの」として考えると、僕は「人にまつわるデザイン」をするのがファッションデザイナーなのかなと思っています。そこにはずっと携わっていきたい。ただひとつ僕が気になっているのは、東京の総合美術大学にファッション学部がないということなんですよ。
F:相澤さんは今、多摩美術大学と東北芸術工科大学で客員教授を務めていますが、ファッションを教えているのではないんですか?
相澤:教えていますが、厳密に言えば海外の大学のようにファッション学部ではないので、アントワープ王立芸術アカデミーやセントラル・セント・マーチンズ、パーソンズ美術大学などとは根本的に異なります。美術大学の良いところって、建築や彫刻とか、自分の専門とは違う分野から影響を受けるところにあると思っていて。だから美術大学の中でファッション学部や科を作れたら、もっと人が集まり、ファションが「文化」として認識されて、他のデザイン領域にも影響を与えるようになるとも思う。それこそ「人にまつわるデザイン」に繋がります。僕にとっても大学で教鞭をとることはとても身になっているので、続けていきたいことのひとつですね。

F:これからの時代を担う若手デザイナーについてはどう思いますか?
相澤:昔よりコネクションが作りやすくボーダーレスになっていますよね。「LVMHプライズ」で日本人デザイナーが受賞したことも、チャンスや可能性を広げていると思う。それこそ今回ピッティで発表していた「ソウシオオツキ(SOSHIOTSUKI)」、めちゃくちゃ良いじゃないですか。パリは同じTomorrowショールームだから、ブースに誰もいなかったけど勝手に見ちゃいました(笑)。好きな事が明確に表現できて共感を得ている姿勢が素晴らしいし、着てみたくなりました。
"らしさ"を排除したラストショー
F:1月24日、相澤陽介によるホワイトマウンテニアリングのラストショー。どういったコレクションを作りましたか?
相澤:覚えてます? 東京で開催したホワイトマウンテニアリングの最初のショー。
F:はい、2009年ですね。東京・青山の「Aoビル」の上層階、都会の頂上といった場所で、人が集まりすぎて会場から溢れるほどだったのを覚えています。
相澤:その時の最初のルックが全身白。だから今回も真っ白で終わらせようと思って、白のルックで始まります。



F:20年の集大成といったコレクションになるのでしょうか。
相澤:というよりも、むしろ固定概念のホワイトマウンテニアリングらしさを無くすことを意識しました。まず、テキスタイルの柄を無くしたんです。これまで追求してきたこと、好きなものを高めたかったから。自分を変えていくこと、新しい自分になることもそう。だからあえて"らしさ"をなくして、メッセージ性をなくして、どこまで純粋に作ることができるかに取り組みました。改めていま、これが僕の一番やりたいことだと思ったんです。
F:モノクロームのホワイトマウンテニアリング。興味深いです。
相澤:実は、ひとつ僕の中で裏テーマがあって、学生時代に影響を受けたヘルムート・ラング(Helmut Lang)とジル・サンダー(Jil Sander)が、今アウトドアウェアを作ったらどうなるか。
F:それは面白いですね。


相澤:1980年代後半から90年代にかけてのデザイン、もっと言えばバウハウスに繋がっている流れが起点にあります。僕の考えですけど、ミニマリズムを突き詰めた時の“軋轢”というか、バーストする時が面白いと思っていて。
時計でコラボしたことがある「ジウジアーロ・デザイン(Giugiaro Design)」のジョルジェット・ジウジアーロは、フォルクスワーゲン「ゴルフ」からデロリアン「DMC12」までデザインしているじゃないですか。時代背景もありますが、モダニズムとポストモダニズムが交差する時に、デザイナーからそういった軋轢を感じる事があり、僕にとって一番面白いエッセンスなんです。

F:それをファッションに置き換えて、突き詰めていく。
相澤:はい。バウハウスを「大衆向けに量産するものに、どれだけ価値を作れるか」と解釈すると、その型を作ることが重要になってくる。建築家のビャルケ・インゲルス(BIG)のように、実用性が高く合理的な発想をどうエンターテインメントにするか。そういうことがファッションでも重要なんじゃないかと思っているんです。だから僕がデザインした服は、誰かが同じような物を作れるかもしれない。でも「このブランドだから面白い」と思わせる。
F:デザインと実用性の考え方は、ホワイトマウンテニアリングのコンセプトにも通じますね。
White Mountaineering
「服を着るフィールドは全てアウトドア」
デザイン、実用性、技術の3つの要素を一つの形にし、市場には屈しない姿勢でのものづくり
相澤:僕は実際、ファッションだけではなく関わってきたデザインについて、0から1を作るのが得意なわけではありません。0.5くらいのところから、一回マイナス1くらいに落として、それをプラスの方にもってくるというか、そういう感じがしています。


F:ラストショーはエピローグでありながら、相澤さんとブランドにとってプロローグの意味にもなりそうです。これからの活動についても、楽しみにしています。
相澤:海外のジャーナリストからも、今回が最後のショーで自分が退任しますと言うブランドは、メゾン以外ではあまり見た事がないと言われました。こういった形を取れたのは幸せなことです。
今後のことは自分でもワクワクしています。ブランドを立ち上げたのが28歳。いま48歳になって、同じマインドで新しいことを始めたらどうなるかというのが、楽しみでしかないですね。そしてこのパリに、何らかの形でまた戻ってきたいと思っています。
最終更新日:
■ホワイトマウンテニアリング:公式サイト
photography: Ippei Saito
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