Image by: FASHIONSNAP
「アンダーカバー」が3月9日、2022-23年秋冬コレクションを東京の代々木第二体育館にて発表した。昨年3月、「by R」の下で男女合同のショーを催しているが、ウィメンズ単独のショーはパリで発表した2018-19年秋冬以来4年ぶり。「アンダーカバー」は、男の服よりも女の服の方が断然面白い。昨年より暖めていたパリでのショー再開(今年3月に予定していた)を時節柄断念せざるを得なかっただけに、此度は格段に思い入れが強かったに違いない。舞台裏で「やっぱりウィメンズ(のショー)は楽しい」と高橋 盾も話していた。ショーを見ながら、私は「パープル」コレクション(「アンダーカバー」2007年春夏)を思い出していた。パリ8区の由緒あるホテルのボールルームで取材したそのショーの衝撃は、売文稼業を細々と続ける私の血肉ともなり、その折に受けた強烈な印象は織物の絣のように一つの模様になって脳裡に焼き付いている。此度のショーは、「パープル」を取材していたからこそ新たに見えてくるものがあった。もしこのショーが凡てパリ仕様(会場は決まっていたらしい)で発表されていたなら...もっと見えてくるものがあったかしら...と、地団駄踏んでみても詮方ない。発表の場が何処であれ、一人のデザイナーとして、確実にいい歳の重ね方をしてきたブランドの、その轍(わだち)を眼にすることが出来たのは勿怪の幸いだった。尚、我がパイセンS君のリクエストに応じてこの稿を書いている。
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人生百年式に云えば、まだ私などはひよっ子となるのだろうが、最近の自分の痛々しい有様(数週間前、泥酔して路上で意識を失い、またぞろ大怪我を負い○×警察署に保護された愚かな身を恨む)を顧みるならば、そろそろ晩年(否、ヤキがまわったのだ)と自覚せざるを得ない。会社勤めを止して以来、依怙地に続けてきた乱読も手伝ってか、視力の低下は著しく、重ねて老眼が追い打ちを掛け、それこそ眼も当てられない始末。加えて「世の中を見る眼」の方もかなり確実に老化が進みつつある。だが、私は一向に平気の平左なのだな。視点の老化を嘆くよりも、老いてみなければ見えてこないものが物事の下には隠されているはずで、これからもそれを発見する悦楽に勤しむつもりでいる。そんなわけだから、取材する眼も他人とは随分と違ってきたように思う。
「アンダーカバー」のショーを取材する醍醐味は、高橋が描こうとしている風景を彼と一緒になって逍遥し(私が好んで使う「共犯関係」と云う感覚に近い)、ともに作中人物たちの話に耳を傾け、時には非現実的な風物に接し新たに感慨を深め、そして様々の人生に立ち会いながら、遂には我々が享受すべき自由を探り当てるまでの過程にあると云える。彼のレンズは、普段通りに眼に見たものだけを写しても、眼に見えないものまでを見るようにこちらに強制する。ここでは敢えて服の外形とか細部とかには言及しないが、今回のショーがパンク的に見えたとて、「パンクマインド」と云う手垢まみれの語彙だけで語るべきではないと私は考えている。「このひと、根っからのパンクなのだな」と、心底私が共鳴したのは、寧ろ過去のコレクションを取材した折だった。即ち、前述した「パープル」コレクションである。スッと腑に落ちた。古い話を持ち出して恐縮だが、東京でのデビューショー(ジョニー・ロットンを偶像視した1994-95年秋冬コレクション)は、若さを口実にした挑発が日常着の枠に収まりきれない活劇的なエネルギーに満ちていた。だからか、当時、パンクと評した周囲に反駁するつもりはなかった。それに私自身も若かった。
高橋本人はどう思うかは扨措き、私はいまでも「パープル」ほどパンクなショーはないと信じて疑わない。と云って「パープル」には、いくら細部を穿って見てもパンクの「パ」の字も見当たらない。拘束風パンツもバイカージャケットもメタル鋲もない。その代わりと云うわけではないのだが、サテン生地を繊細なレースで切り替えし、マイクロミニよりスラリとした生脚を覗かせ、ビジューを刺繍したストッキングをモデルに履かせたのだ。意図して招待客を絞ったインティメートなサロン的空間も相俟って、そこで展開されているあり得ない景色を眼の当たりにした当時の私は悶絶しそうだった。攻撃的な気概とは真逆の、官能的でグラマラスな女性性を、彼は臆せず創作の核に据えたのである。このショーが以後の創作の試金石的な役割を担ったことは後になってわかることだが、それまで独自のコンセプトワークに従い躍起になって紡いできたダークファンタジーの呪縛より自らを解き放つ大胆な挑戦として私の眼には映った。凡てに於いて、現在より盤石な体制ではなかったにも拘わらず、それでもパリで意地を貫き通さんとする「アンダーカバー」が見せたコペルニクス的転回は、欧米のジャーナリストには概ね好意的に迎えられたものの、同胞の中には「ジョニオも変節したわね」と揶揄する年配編集者がいて、それが酷く残念だった。事理を弁えなくてはと思ったが、そのとき私は「わかってねえなぁ」と独り言ちて周囲の顰蹙を買った。パンクはこう云うことなのだ。私は悟った。
「パープル」のショーの選曲にも泣けた。PIL(パブリック・イメージ・リミテッド)の「This is not a Love Song」のヌーベル・ヴァーグによるカバー曲を抜粋していた。私はボサノバのリズムに酔い痴れた。ラブソングなど歌ってたまるか、と云う高橋の照れを勝手に想像して、その旋律に重ねていた。ちなみに私は当時の彼の言葉をこう書き残している。「(この大きな変化を喩えるなら)SEX PISTOLSを脱退したジョニー・ロットンが新たにPILの下でジョン・ライドンに改名したような感じですかね。『アンダーカバー』もそろそろアンダーグラウンドからパブリックを意識してもいい頃かも知れない」。彼の気が利いた語録は幾つも記憶に残っている。「パープル」抜きに現在の「アンダーカバー」はない。「パープル」にて高橋が見せた極めて挑発的とも云えるコペルニクス的転回こそ、本来のパンクが持ち得た叛骨であり、自らの殻を粉々に叩き割る気概であった。気後れすることなく、彼は実にスマートに荒療治をしてみせた。
生来のつむじまがりな質が因ではないけれど、白状すれば、私もパンクの洗礼を受けたクチである。鋏の切れ味を試していただけの粗忽で武骨な感じでキレまくっていた往時のパンクロックに浮かれて思春期を過ごした。だが、いまの時代に、それもファッションに於けるイメージの再演としてのパンクと云われてもピンとこないのが正直なところだ。切り刻み、繋ぎ止めるだけがパンクと云うなら、それは既に石化し形骸化した過去の様式に過ぎないし、それだけを謳うのであれは賛同しかねる。パンクな服を作るのであれば、いっそパンクロッカー(死語だろうね)に作らせた方がいいのではないか。その伝で云えば、消耗品(日常着)を作るのであれば、作り手の顔の見えない、それ相応のメーカーに任せた方が安上がり且つ確実である。閉塞感を感じる作り手の日常些事しか扱ってはいけない風潮が罷り通れば、益々ファッションは痩せ細っていくばかりではないか。
誤解を承知で持論を披瀝するが、ファッションデザイナーの仕事の輝かしき役割とは、しれっと「嘘八百」を並べてみせることである。彼等は平然と、或いは、声を張り上げて嘘を吐かねばならない。どんな物語も語る行為があって初めて存在するが、古今東西、物語がたんなる話であった例はない。何故なら、「物語」の「語り」は所謂「騙り」でもあるからだ。但し、物語の語りは漠然とたくらまれるべき行為ではないし、ただの法螺では語るに足らずである。けだし賢者のホキ出す嘘八百と云うものは、周到かつ洒脱な至芸より浮かび上がってくる、エンターテインメントとしてのファッションの真髄をモノの見事に射る力を備えている。老婆心から云うけれど、高橋がものしてきた「物語」をじっくり読めば、彼が一流のストーリーテラーであることに早晩気が付くはずだ。
話を今回のショーに戻そう。これまでも番度感じたことだが、今回も随所にブランドのアーカイブを散見する。自ら過去を紐解き、継承発展させる手法は彼の得手な流儀である。ショーの動機について本人に聞いたわけではないから客観性を欠くかも知れないが、とりわけ女の服を作る場合の彼の関心は、一貫して服に変容する想像力(服に姿を変えるイマジネーション)にあると私は思う。男には、女は、精神的にも肉体的にも生理的にも一切わからない存在である。だから「女とは何か」の問い掛けより始まる。彼にとって男の服は、仲間(或いは若い世代)に投げ掛けるみたく至って自然なものなのだ。しかし、女の服は、捧げるように作る。同時に凄く冷淡に作る。此度のコレクションはまさにそうして生まれたのだと思う。謙虚さと云う高橋の創作道徳がいい按配に濾過装置となって、彼が過去に見せた女性に対するアンビバレントな感情が、ちょうど綾衣の裏模様のように透けて見えてくる。いい歳の重ね方は、こう云うところに見え隠れする。
過去の「パープル」とは明らかに異なる気品と凛とした気配。エレガンスとかフォーマルとかの常套句は陳腐な感じがするから敢えて封印したい。寧ろ、内なる蒼白き焔(ほむら)を庇う服は戦士の身支度にも重なる。やり場のない怒りは何に向けられたものなのか。このあたりの連想を膨らませていくと、此度の物語(ロマン)が暗闇の中に浮かび上がってくるのではないだろうか。あの頃の突っ張った文体は校閲が行き届いて随分と口当たりがよくなった。同時に、「高橋 盾」と云う仮面の下に隠された、ナイーブなひとりの男のプロフィールがクッキリと浮かび上がってくる。興味深いのは、創作動機が彼自身の私的なエピソードと見果てぬ夢に貫かれていることである。だから彼がデザインする女の服には終着などありはしない。(文責/麥田俊一)
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